羽村早苗の覚書

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羽村早苗の覚書

 山科七海。  四十二歳。  怪奇女流作家。  独身。  十代で妊娠、中絶の経験があるらしいが真偽は定かでない。  二十七歳のとき、第四十五回東文ミステリ短編賞で作家デビュー。  受賞後は鳴かず飛ばずで、文庫にもならない、本職とは関係ない実録物の記事を、三文誌に綴り、糊口をしのぐ。  三二才のときに、当時新設された日本恐怖ノベル大賞を受賞。  受賞作「式の魔物」は映画化され、各方面から絶賛される。  つづく二作目「月人アリ」も大ヒット。  以降、コンスタントに、怪奇や恐怖を題材とした作品を発表している。  恐怖小説以外の文章は、いっさい書かなくなった。  デビューのきっかけであるミステリ小説はおろか、寄稿やエッセイ、対談、作品に対する取材でさえ、まったく仕事を請けない。  しかし、それがまた山科七海の神秘性を高め、熱狂的な読者を増やす一因となっている。  前任の担当編集者だった伊藤さんは、痩せ細った好々爺に見えた。  頭部はほとんど禿げ上がり、残った頭髪も真っ白だ。  入社以来、七海と二人三脚で、作品を創ってきたという。  脳に腫瘍ができて、今回、仕事をやめる。 「本当は、もっといろいろな作家と関わって、違う方面の仕事もしたかったよ。でも結局、編集者人生のほとんどを、山科七海に費やしてしまった」  謙遜だと思い、そんなことはないでしょう、と否定すると、 「こう見えても、ぼくはまだ三七歳だぜ。病に伏せるには、早すぎるよ」  そのときは冗談だと思った。  しかし、あとで伊藤さんの経歴を編集長から聞いて、愕然とした。  伊藤さんは本当に、七海より五つも年下だった。  わたしは、彼女の著作を一週間かけて読破した。  難解な言い回しや比喩、独自の造語で、冒頭は読みづらいが、一度世界の色彩が脳裏に描かれると、またたくまにその暗澹たる極彩色に心を奪われた。  眠るのがもったいないほどの読書体験を久しぶりに味わい、それとともに、フィクションとはいえ真に迫る恐怖に心が疲弊した。  わたしは七海に、賞賛と羨望、それに嫉妬を覚えた。  自分自身の内に秘めていた情熱にも火がついた。  そして決心した。  この神秘に包まれた作家を題材に、文章を書こう。  彼女の思考、思想、仕草、創作に対する美学を、書き溜めよう。  もちろん、すべて真実を書けばいいわけではない。  平凡な、ふつうな一面も持ち合わせているだろうから。  しかし、そこはわたしの想像力で補おう。  書きたいのは、あくまで小説なのだ。  山科七海が物語のインスピレーションをつかみ、苦悩し、作品として仕上げていくまでを、虚実を交えて描く。  幻の作家といわれる、彼女の生態をつづるだけでも、十分に興味をそそる本になるだろう。  出版する際、七海の許可が出るかはわからない。  しかし、実名や本のタイトルを伏せれば、なんとかなるに違いない。  おそらくこれは、今のわたしにしか書けない物語。  記述するだけの価値がある。
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