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ミューズ禁猟区
山科七海。
四十二歳。
怪奇女流作家。
「歳のわりには老けて見えるでしょう?」
口癖のようなセリフだ。
チェッ、チェッ。
そのあと彼女は必ず、小鳥のさえずりのような小さな舌打ちをする。
「たぶん、睡眠不足のせいよ。病院で睡眠薬をもらっているけど、体質に合わないのか、すぐに吐いてしまうの」
不眠はどのくらい続いているのかたずねると、
「ずっとよ。この職業になってから一五年間、ずっと」
彼女は、さも自慢げにそう答える。
わたしは、それはお辛いですねと同情の言葉を口にする。
するとそのあとから、彼女の身の上話が始まる。
仕事の進行を尋ねるときの、わたしたちのいつものルーチンワークだ。
「この名前のせいで、いじめられたの。安易につけた両親を心底憎んだわ」
チェッ、チェッ。
本名は、海山サチというらしい。
「その両親も、わたしを残して死んだけど」
借金を苦に、自殺をはかったらしい。
サチはまだ中学生だった。
その後、東京の親戚に引き取られた。
「自分の育ったところなのに、本当に思い出すのも嫌だった。あんなところなくなってしまえばいいと、思い続けてた。
だから、津波であの辺り一帯が流されてしまったとき、自分のせいだと思って、なにも手につかなくなった」
東京に来てからも、彼女の不幸は続いた。
親戚ともうまくなじめず、結局、高校のときに家を出た。
「援助交際ってやつ。見てくれはブサイクだったけど、当時は、若いってだけで、簡単に稼ぐことができたのよ」
しかし、一八歳で妊娠、中絶を行った。
相手は、所帯持ちの中年サラリーマンだったという。
しばらく生活に困らないほどの金が手に入った。
「本だけはよく読んだわね。現実を見ないですむからでしょうね。麻薬のようだった。それで、書くことにも興味を覚えた」
最初は大学ノートに、好きな作家や作品を、模倣して書き始めた。
すぐに、読むよりも書くことのほうが楽しくなった。
話の途中、彼女は何度もチェッ、チェッと舌打ちを挿入する。
ときどきそれは、ツォッ、ツォッであったり、ディッ、ディッであったりした。
「ミューズがね、あらわれるの」
七海は、天井を見上げて、うふふと笑う。
「あなたに、わかる?」
彼女は、見下すような笑みを浮かべていた。
天井に顔を向けたまま、目線だけをわたしに移す。
わたしにはわからない。
だから、わたしはいつも、わたしにはわかりませんと、自分を卑下したような顔で答える。
それもルーチンワークだ。
肝心の次回作のことになると、とたんに七海の話は抽象的になる。
本当に構想しているのか、疑いたくなるほどだ。
書き終わっているという序盤すら、まだ見せてもらっていない。
伊藤さんから、彼女はそういうスタイルだから、と聞いてはいた。
わたしは、ルーチンにそって彼女の話を聞き、執筆の進行具合を信じるしかない。
多作ではないが、今まで刊行が大幅に遅れるようなこともなかった。
新作は、これまでの集大成になるでしょうと、七海は自信にあふれていた。
タイトルは、決まっていた。
「ミューズ禁猟区」と、いうらしい。
ミューズとは、ギリシャ神話に出てくる芸術の女神だ。
インスピレーションを得たときに、比喩的に用いられる女神。
禁猟区とは、鳥獣の保護増殖をはかるため、狩猟を禁じている区域のことだ。
そのふたつの言葉の合成によって、いったいどんな恐怖を、読者に与えるというのだろう。
わたしは、七海が機嫌がよくなるように、笑顔をたやさず話を聞いた。
伊藤さんから、けっして彼女を混乱させるな、と強く言われていた。
「会話の順序を壊すな。山科七海に接するときは、彼女の話したい順序で、話したいことを話してもらえ」
そうすることが、聞かねばならないことを聞く一番の近道だという。
つまり、会話を、ルーチンワーク通りに行え、とのことだ。
彼はわざわざメモまで書いて、渡してくれた。
「それを壊すと、どうなるのですか?」
そう聞いたわたしの肩を、伊藤さんはぎゅっとつかんだ。
それは指が肌に食い込むかと思うくらい強い力だったが、わたしはそれよりも、伊藤さんの青ざめた顔に気をとられた。
見開かれた両目の奥は、恐怖で震えていた。
「悪魔があらわれる」
伊藤さんは、それ以上は説明しなかった。
老いた顔が、さらに歳を増したように見えた。
わたしは直感で、理解した。
その悪魔が、七海の創作の源なのだろう。
山科七海のミューズ。
わたしは、その悪魔に会いたいと思った。
*
老けて見えること
↓
不眠に悩まされているが、薬を吐いてしまうこと。
↓
名前への不満。両親の死。故郷への悔恨。
↓
東京の親戚との確執。援助交際。妊娠、中絶。
↓
本を読み、書くようになったこと。
↓
ミューズがあらわれること。あなたにはわかる?
(ここで決まって、馬鹿にしたような視線を送られる。必ずわからないと答えること)
↓
ここまで聞くと、執筆状況を教えてくれる。
しかし、あいまいな答えも多い。
粘り強く、作品の進行状況、構想、今後のスケジュールについてたずねること。
伊藤さんから、上記のようなメモをもらっていた。
数回、彼女と面談したが、実際そのとおりだった。
彼女自身、それをわかっているのか、判別もつかなかった。
ただの儀式のようなものなのか。それとも一種の病気で、それを話してからではないと、思考を安定させられないのか。
あるとき、わたしは彼女にはわからないように、それぞれの話題が終わった時間を記録した。
時間も一秒単位で毎回同じなのか、調べてみようと思ったからだ。
老けて見えること(13:05)
↓
不眠に悩まされているが、薬を吐いてしまうこと。(13:08)
↓
名前への不満。両親の死。故郷への悔恨。(13:18)
↓
東京の親戚との確執。援助交際。妊娠、中絶。(13:31)
↓
本を読み、書くようになったこと。(13:40)
↓
ミューズがあらわれること。あなたにはわかる?(16:08)
↓
執筆の状況確認が終わる。(16:25)
あれ? と、思った。
ミューズがあらわれるという話は、ほんの一言か二言かだ。
なのに、二時間以上も時刻が経過している。
トータルの時間に間違いはなかった。
彼女の書斎に入ったのは一三時ごろだったし、出たときは十七時前だった。
四時間弱、彼女の自宅に滞在していたのは確かだ。
そのくらいの長い時間、濃密なやりとりをした疲れが、外に出たときには残っている。
しかし、実際わたしがおぼえている記憶は、その半分にも満たない。
薄ら寒さを覚えた。
後日、もう一度行ってみたが、結果は同じだった。
分刻みで、同じ時間配分で、七海はルーチン通りに話をした。
どう考えてもおかしい。
わたしに、欠落した記憶があるのは、たしかだった。
「ねえ、伊藤さんの入院先知ってる?」
向かいの席に座る、杉村勇樹にたずねた。
わたしが山科七海の担当になった代わりに、杉村がわたしが担当だった新人作家を引き継いだ。五つ後輩で、仕事は遅いが、人好きのするタイプで編集長には気に入られている。
「いえ。お見舞いに行くんですか? 編集長に聞いときましょうか?」
「お願い」
わたしは、ふたたびメモに目を落とした。
思案していると、向かいの席からの視線に気がついた。
「なに?」
さわやかな笑顔を浮かべているが、杉村の態度はどこかぎこちなかった。
「あのう、羽村さん。もしよかったら、ぼくもいっしょに行きましょうか、伊藤さんのお見舞い?」
わたしは杉村の顔をまじまじと見た。
彼は、童顔で犬のように人懐こい顔をしている。
前々から恋人がいないのは知っていたし、わたしに熱を込めた視線を送ってくるのにも気が付いてはいた。
しかし、中身がない。
後輩としてかわいいとは思うが、わたしは杉村に男としての魅力を感じていなかった。
「別にいいわ。休暇を利用して一人で行くつもりだから」
「そうですか……」
杉村は、それこそ主人に叱られた犬のように、しゅんと肩を落とした。
伊藤さんは、市街地の大きな病院に入院していた。
ベッドに横になる伊藤さんは、無垢な赤子のような目をしていた。
その姿は、臨終を前にした老人のようだ。
もう、言葉をしゃべることはできなかった。
腫瘍が脳を圧迫し、機能しなくなっているという。
意思の疎通もほとんどできない。
彼の母は、憔悴していた。
泣き腫らした目をして、骸骨のように痩せ、声も小さい。
短期の間に、自分の親ほどの姿に変貌してしまった息子に食事を与え、排泄の世話をしていた。
「ふんぐるい むぐるうなふ」
それでも、わたしを認識したのか、伊藤さんは突然、舌足らずな声を発した。
「ふんぐるい むぐるうなふ」
耳を傾け、理解しようと書き留めてみたが、彼の母親がわたしをみて首を振った。いつものことらしい。
とても意味を成す言葉に思えなかった。
「くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん」
つばを飛ばし、よだれが胸元まで線を引いた。
母親は、無言でそれを拭いた。
いたたまれなくなったわたしは、病院をあとにした。
わたしは、次に七海と打ち合わせをするときに、ICレコーダーをポケットに忍ばせることにした。
ときが来たら、七海に対するルーチンを壊したいと考えていたが、新作が完成するまでは我慢する必要があった。
しかし、わたしは何かせずにはいられなかった。
だから、空白の時間がどうなっているか、録音をして確かめておくことにしたのだ。
面会した日、七海は上機嫌だった。
「来週には、書き上げていると思うわ」
彼女の言うとおりだとすれば、次回作は、原稿用紙千枚を超える大作となるそうだ。
録音は、滞りなく行われた。
早く内容を聴きたかったが、会社へ戻ると、杉村が狼狽していた。
引き継いだ新人作家と連絡が取れないという。
締め切りから考えて、いま雲隠れされたら、原稿は落ちてしまう。
無視したかったが、前の担当である手前、フォローせざるを得なかった。
わたしはその新人作家が行きそうな場所を杉村に教えて、念のため代理の原稿の手配を別の作家に頼んだ。
結果、その日は終電まで残業することになった。
「ありがとうございます、羽村さん。今日は、すごく助かりました。……あのう、もしよかったら、このあと呑みに行きませんか? お礼に奢らせて下さい!」
窮地を手助けしてくれた感謝はもちろんあったのだろうが、彼にしてみれば決死の誘いだったのかもしれない。
「ごめん、わたし、お酒はやめたの」
「それじゃあ、アルコールなしでもいいので、飯でも……」
「急いでるの、お疲れ様」
わたしは無碍もなく誘いを断った。
本音のところ、早く、ICレコーダーの内容を確認したかった。
我慢し切れなくなったわたしは、帰宅の途中、駅の売店でイヤホンを買った。
乗った車両に、ほかの乗客はいなかった。
電車の揺れも、ガタゴトという音も、寂しさも、いつもより大きく感じられた。
それらを遮断するように、わたしはイヤホンを装着し、再生ボタンを押した。
じー、というノイズが走ったあと、二人の会話が始まった。
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