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ICレコーダーの録音内容
「ミューズがね、あらわれるの。あなたにわかる?」
「わたしには、わかりません」
語尾が歪む。
わかりまーせーんんんーと、発音が刻まれ、イントネーションが伸び上がる。
地下を走る水流のような雑音。
ざざざざざざざ。
あぶくがはじけるような音。
ぷくぷくぷくぷく。
弦楽器のような、長い音。
ひぃやーーーーいーーん。
そこにいるはずのないものたちの、たくさんのざわつき。
もしくは詠唱。祈り。
それは、男の声のようでもあり、女の声のようでもあり、魚や蛸や貝殻たち水棲生物の声のようでもある。
もう一度、弦楽器のような、長い音。
ひぃやーーーーいーーん。
不意に、それらの奇妙な音が、人間の言葉として耳に入る。
まるで、翻訳されたかのよう。
「はじめて現れたのは、この仕事を辞めようと思っていたときだったわ」
チェッ、チェッ。
「……辞めようとしたことがあるんですか?」
「わたしの作品は、全部、読んでるよね?」
「はい。もちろん」
「だったら、ある作品から、急に作風が変わったの、わかるでしょ?」
編集者は、しばし沈黙。
「……『式の悪魔』、ですか?」
「テーマも様変わりしたけど、語り口や、使う語彙、文節や章立てにいたるまで、別人が書いたみたいでしょ?」
「そうですね、正直、別人の作品と言われても納得してしまうほど、品質の違う作品に思えます。それまでのミステリ群からは、過去の作品へのオマージュや模倣を少なからず感じさせましたが、『式の悪魔』以降の怪奇小説は、設定や展開に独自性が強く、描写もまるで見てきたようで、圧倒されました」
作家の得意げな薄い笑い声が聞こえる。
「内容が凄惨で、胸をえぐり、また難解な描写もあるので脳を疲弊させますから、読者を選ぶのはたしかです。が、一度その世界に陶酔すると、抜け出せなくなる魅力があります」
「あなた、いつもそう言うわね。最初は心地よかったけど、もう飽きたわ」
「いつも……って、初めて言いましたけど?」
「あなた、うちに来たの、今日で何度目?」
「担当になって週一度以上はきてるので、十回目くらいでしょうか?」
「七回目よ」
「七海の七。いい数字だわ」
ツォッ、ツォッ。
「これから話すことも、七回目よ。あなたがわたしと話す時間を記録して、疑問を持っていたことは前回聞いたから、知ってる。そして、その空白の時間が、いまの、この時間よ」
「あなたは、うちから出たときには、このことを忘れる。だから、いつもわたしは同じ説明から入る。さすがにうんざりだわ」
「わたしには、本当に記憶が消えた時間があったというのですか?」
「そうよ」
「いったい……なぜ?」
「もう来ているの」
「来ている?」
「構成というのかしら。魔法の呪文というのがあるけど、言葉に魔力があるのではないわ。言葉とか発音の順番で、意味ができる。意味ができると受け取るものが反応を起こす。それでいろいろな現象が起こる」
ディェ、ディェ。
「意味はわかりますが、それで記憶が消えるとはとても思えません」
「あなたはいつもそう言うわ。道順を教えるのといっしょよ。この場所へミューズを導くために、私は毎回同じ話をするの。それを頼りに、彼あるいは彼女はわたしの頭上に現れる。その代償として、今回も、あなたのこの時間の記憶は、すべてなかったことになる」
「それが本当だとして、いったい……なんのために?」
「そうよね、それが一番、知りたいわよね」
ひゃーーーいーーーん。
ひゃーーーいーーーん。
耳が痛くなるほどの甲高い音。
「わたしは三〇歳を過ぎたころに、死のうと思ったの」
「まず、そこからいつも話しているのよ。核心には遠回りだけど、あなたはいつも興味深く聞いているわ」
「続けるわよ」
そこから、記憶を探るように、とぎれとぎれに、作家の一人語りが続く。
「三陸に戻って、なにも持たず、生まれた町や海が見える場所を探して、一人さまよった」
「そして、安堂山の峰で、あの場所をみつけた」
チェッ、チェッ。
「狩猟期間中の立て札があった。立ち入り禁止区域でもあった。熊の絵があったから、生息していたんでしょうね」
「わたしはどうせ死ぬんだから、猟師に撃たれようが、熊のエサになろうが、どうでもよかった。立ち入り禁止の札の中へ進んでいった」
ヅッチャ。
「不思議な石塔をみつけた」
「黒い、三メートルはあるかという高さで、先端は巨人の角のように尖っている。日が当たってたところは、反射して光っていた。雨も降っていないのに、濡れているようだった」
「ひとつではなかった」
「木々に隠れるように、いくつも石塔はそびえていた」
「わたしは石塔を巡って、数を数えた。人の手入れは何年もされていないようで、道はなく、足元は高い雑草で、歩くのをさまたげた」
「石塔は七つ」
ザッチャ。
「七海と同じ七。わたしは、いい数だと思った」
「なぜ、七がいい数字なのか? 答えは簡単。七は割れないでしょ。だから、すきまなく守られているのよ。八は二と四に、九は三で割れる。それだと守りが弱くなる」
「でも、そのひとつは、とても小さかった」
「小さいといっても、わたしの背丈よりは十分に大きい」
「小さいけど、子供の石塔というよりは、衰弱した老人のようだった。そのひとつだけ、やけに傷や劣化も多かった」
「わたしは想像した」
「長い歳月をかけて、この石塔にだけ風雨が集中し、徐々に削られていき、こんなにも小さくなってしまったのではないか?」
「なにものかが、この七つの石塔で守られた結界を、何千年、何万年の時間をかけて、破ろうとしているのではないか?」
「なにを言っているのか、わからないわよね?」
「あなたもあの場所へいけば、わかる」
「石塔を創ったのは、人でない。少なくとも、現代の人間の建造物ではない。古代の人々。もしくは人では非ざるもの。あるいは」
真実を伝える満足感が、口調に込められる。
「神々、そのもの」
しばし、編集者の反応をみるかのような、空白の時間。
「七つの石塔は、恐ろしくも偉大なものを、護っている」
「それも……先生の想像、なんですよね?」
編集者は、慎重に言葉を選んでいる。
作家は、編集者の声を無視するかのように話を続ける。
「なぜ、わたしがそれをわかるかというと、見たからよ」
「小さい石塔に触れてみた」
「古代の記憶が、わたしの中に流れてきた」
「まるで高速で巻き戻された映像のようだった」
「嵐や、竜巻や、山火事を、わたしは何度も体験した」
「春夏秋冬の繰り返しを、地球の公転運動を感じる速度で経験した」
「そうすることで、はじめて、高次元の種族からの攻撃が理解できた」
「高次元の種族?」
編集者が、疑念の声をあげた。
「そう、高次元の種族」
「数億万年、いえそれ以上の太古の時間から、繰り返された、攻撃」
「恐ろしく超大がゆえに、わたしたちからするとあまりにも緩やかで、認識することすらできない」
「かれらが、この宇宙から、偉大なる夢見る王を排除しようと、攻撃を続けていた」
「夢見る王……ですか」
「ええ。すでに眠りから目覚めつつある王は、その浅い眠りの途中で、幾重にもつらなった多重の夢をみている」
「高次元の種族は、王が目覚める前に、その存在を滅ぼそうとしているの」
「その攻撃から、石塔が護っていた」
しばらく、作家はしゃべるのをやめた。
編集者が、低い声で、その沈黙をやぶった。
「この話は、もしかして、次回作の筋でしょうか? それでわたしの反応を?」
作家は、うふふと笑った。
「わたしは、石塔を護ることを誓った。そうしたら、石の精霊が、わたしに欲しいものを与えてくれたの」
「先生の、欲しいもの?」
「作家として、将来性の見えないわたしが、そのとき一番欲しかったもの、なんだと思う」
編集者の生唾を飲み込む音が聞こえた。
ざざざざざざざざ。
「ミューズが降臨した」
ぷくぷくぷくぷく。
まるで、レコーダーの向こう側が、深海の奥底にでもなったかのような、さざめき。
ひゃーーーいーーーん。
水の中で、なにか得体の知れない生き物が、特有の言語で語りかけてきているかのよう。
「わた……わた……しの……しの……」
作家の声が多重に歪む。
ひゃーーーいーーーん。
ひゃーーーいーーーん。
ひゃーーーいーーーん。
音が、大きく、発せられ、作家の言葉をかき消す。
ひゃーーーいーーーん。
ひゃーーーいーーーん。
ひゃーーーいーーーん。
編集者は、絶叫をあげた。
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