ルール破り

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ルール破り

 悲鳴は糸を引くように、やがて、静寂に呑み込まれた。  しばらく、空気が動く気配だけが感じられる。  いや、正確には、文字にするのが難解な、低い囁き声が録音されていた。  ボリュームを最大にして何度か聞いてみたが、意味不明だったので、わたしは部屋の外から聞こえる雑音だろうと深く考えなかった。  それはまるで、水の底で交わされる秘められた会話のようだった。  記録されたこの声は、本当にわたしのものなのだろうか?  記憶に残っていない以上、その疑問は拭いきれない。  数十分の静寂ののち、七海はふたたび話し始めた。 「来週には、書き上げていると思うわ」  新作は、千枚を超える大作になると、揚々とした口調で語る。  わたしの返事は、おべっかを使うように喜んでいる。  これ以降の会話は、すべて覚えていた。  そうすると、この声は、まちがいなくわたしの声だ。  家にたどり着いてからも、わたしは繰り返し、空白の時間の録音を聞いた。   記憶にない会話が、ありありと記録されていた。  恐怖と興奮で、頭がおかしくなりそうだった。  わたしは、ネットで記憶喪失について調べた。   記憶障害、健忘。脳の損傷や強度のストレスによって引き起こされるという。  わたしの症状は、ほんの数時間の短期記憶障害だ。  外傷を負った形跡はないので、何か恐ろしい体験をして、記憶を失ったと考えられる。しかも七海に面会するたび、毎度毎度その時間だけすっぽりと抜け落ちている。そのような特殊な記憶喪失があり得るのだろうか。  時間をかけてネットサーフィンを繰り返すが、同じような症例をみつけることができなかった。  何かが引き金となって、わたしの記憶障害は発生している。そしてレコーダーの内容を聞く限り、それは七海の見せてくれたミューズと関係がありそうだ。  今度は、ミューズについて、検索した。  文芸を司る女神たち。  ミューズとは、ギリシャの女神ムーサの英語名であり、ムーサは、大神ゼウスと記憶を司る女神ムネモシュネとの娘たちだという。その数は、古くは三柱とも七柱とも伝えられたが、古代ギリシャ叙事詩人ヘシオドスによって、九柱にまとめられた。  ゼウスとムネモシュネは、人々から苦しみを忘れさせる存在としてムーサたちを産んだのだという。そして芸術家たちは、創作の際に、彼女たちに祈り、作品を捧げる。  またミューズは、音楽を意味するミュージックや博物館のミュージアムの語源でもあるということだった。  それ以上調べても、とくにめぼしい発見があるわけではなかった。  七海のいうミューズは、ギリシャ神話のムーサたちとは違う気がする。  絵画で表現されるムーサたちは、どれも薄い布の服をまとった白い肌の清楚な女性として描かれていた。  中には空を舞い、楽器を奏でるものもいる。優雅で静謐な印象だった。  わたしは違和感を禁じえない。  山科七海のミューズが、こんなものであるはずがない。  その夜、なかなか寝付けなかったわたしは、山科七海の担当になってから書いていた文章を推敲して過ごした。  タイトルは、まだない。  いや、山科七海を題材とした小説だ。  次の彼女の作品と同じタイトルにしようと考えていた。  電気を消したまま、部屋にノートパソコンの灯りだけが、異界の扉のように眩しく光る。  わたしの指はなかなか動かなかった。  ときおり勢いよく動いたかと思えば、すぐにバックスペースキーを押して文章は削除される。  もどかしかった。  自分でいうのもなんだが、無駄な言葉や文節が多く、言い回しがわかりずらい。  ぴったりとくる比喩や形容は皆無だった。  わたしは気を取り直すつもりで、本棚から『式の悪魔』を取り出した。  ちょっと目を落としただけで、七海の文章は激流のようなイメージをわたしの脳裏に想起させた。  恐ろしい才能を、あらためて実感する。 「ミューズがね、あらわれるの」 「あなた、みたことがある?」  七海の言葉を思い出して、嫉妬と劣等感で顔がほてった。  『式の悪魔』を、乱雑に本棚に戻す。  そのあともう一度推敲を行うが、やはり大した成果は得られなかった。  山科七海の創作の秘密が、彼女のミューズにあるのは間違いないだろう。  しかし、それがどんなものなのか、わたしにはわからなかった。  知りたい。  その感情は強くなる。  いや、わたしはこれまでに、それを七回も目の当たりにしているのだ。  しかし、見事に忘れてしまっている。一部さえも思い出せない。  体は疲れているのに、神経だけは妙に高ぶっていた。  深夜の暗いアパートの中で、わたしは一人つぶやいた。 「……次こそは、それを記憶にとどめたまま帰ってこなければ」 「そうすれば、わたしにも書けるはずだ」 「山科七海の作品と同等の傑作が……いや、それを超えるものさえ……」  次の面会のときも、七海は、わたしが何も覚えていないと思っているだろう。  しかし、実際は密かに録音することで、知っている。  伊藤さんが見たという悪魔。  ルーチンワークを壊せば、それは現れるという。  そろそろ頃合いだろう。  わたしは決意した。        * 「歳のわりには老けて見えるでしょう?」 「たぶん、睡眠不足のせいよ。病院で睡眠薬をもらっているけど、体質に合わないのか、すぐに吐いてしまうの」 「どのくらい続いているんですか?」 「ずっとよ。この職業になってから一五年間、ずっと」  いつもの会話が始まった。  どこで、話の中断させるかは、すでに考えてあった。  一番、効果的なところで行う。  そのあとの自分の弁も、予行練習済みだった。  はやる気持ちを抑えながらも、わたしは根気よく七海の身の上話を聞いた。 「ミューズがね、あらわれるの」  彼女は、天井を見上げて、うふふと笑う。 「あなたにわかる?」  彼女は、見下すような笑みを浮かべていた。  天井に顔を向けたまま、目線だけをわたしに移す。  わたしには、わからない。  いつもならここで、わたしは、わたしにはわかりません、と答える。  しかし、今回は違った。 「わかりますよ」  わたしは、自信ありげな笑みを浮かべる。  少し演出がすぎるかもしれないが、自信たっぷりに唇を吊り上げてみせた。  七海は、あっけにとられた顔をした。 「何を言っているの? あなたにわかるわけがないわ」 「知っていますよ、先生。先生は、三〇歳のとき、死のうと思ったんでしょう? それで、故郷に戻って、安堂山の禁猟区に入り込んだ」  ICレコーダーで聞いた、七海の語った物語だ。  立場が逆になり、今回はわたしがそれを、七海に話して聞かせた。  死のうと思ってさまよった安堂山。  禁猟区にそびえる黒光りする七つの石塔。  そのうちのひとつから流れてきた、太古の記憶。  自分で話しながら、どこか作り話めいた内容におかしさがこみ上げてくる。  山科七海に担がれているのではないかという疑いも完全に捨て切れていなかったが、わたしは予行練習通りに話を続けた。  高次元の種族の攻撃。  偉大なる夢見る王。  それを守る石の精霊。  七海が石の精霊に願い、授かったもの。 「それがミューズ。先生が、文章を書くときに力を借りているものですよね」  わたしの言葉に、七海は強い動揺をみせていた。 「覚えているはずがない。すべて忘れるはずよ! だって、そのときの記憶は、供物になっているのだから……」  供物になっているとはどういう意味だろう? 疑問に思うが、顔に出さぬように努めた。  芝居を見抜かれぬように、わたしは余裕を持った態度を保ち続ける。 「作家として、当時行き詰っていたあなたが一番欲しかったもの。それは、創作の原動力。文章の才能だわ」  七海の顔には、すでに動揺を通り越して、恐怖が貼りついている。  青ざめ、蜘蛛の巣のような深いしわが刻まれ、余計に老けてみえた。 「嘘よ! あなたがわたしのミューズを覚えているわけがない!」  七海は、突然天井を見上げて、ぶつぶつと何か呟いた。  ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん……  聞いたことがあった。  病院で伊藤さんが涎を垂らしながら吐いた言葉だ。  それに、ICレコーダーに小さな音で記録されていた、囁き声。  よくよく思い返せば、この言葉だった。  七海の発音は、異質だった。  壊れた楽器のような奇怪な音階で、耳を塞ぎたくなる。どのように唇と歯と喉を使えば、そんな言葉が出せるのか、想像もつかない。  いあ!いあ! くとぅるふ ふたぐん!  七海は天井を見上げた。  つられてわたしも顔を上げようとすると、どろりとしたものが、頭の上に落ちてきた。  ぶよぶよとしていて生温かい。  最初、生き物かと思った。ネズミか小鳥の類の小動物か何か。  手で触れると、赤みがかったゼリー状の塊が、べっとりと手のひらに貼り付いた。  潮の香りが鼻をつく。  それは、咀嚼された魚肉だった。 「ほら、ミューズはちゃんとここにいる! わたしのものよ! あなたにも見えたとしても、わたしのものよ! わたしだけのミューズ!」  七海は、歓喜の声を上げた。  瞳は安堵したように潤み、声はうわずっていた。  わたしは手に触れた魚肉を振るい落とし、天井に現れたものに目を奪われた。  天井自体が生物の一部になってしまったかのように、ゆっくりとうねっている。  まるで、巨大な魚の腹の底を見せられているようだった。  青白い天井に、生殖器官のような膨らみを持った淫靡な割れ目が、細長く開いている。  その割れ目から、咀嚼された魚肉は降ってきたようだ。  奥で、何かが光っていた。  ミューズの視線。  ざざざざ。  ぷくぷくぷくぷく。  部屋の天井は、深海とつながっているようだ。  水の音が聞こえた。  ひゃーーーいーーーん。  そこには何者かがいて、七海ではなく、わたしを凝視している。  なぜか、そんな確信があった。 「いあ!いあ!くとぅるふ ふたぐん!」   もう一度、七海は叫んだ。  表情には焦りが浮かんでいる。 「いあ!いあ!くとぅるふ ふたぐん!」   無意識のうちに、わたしも同じ言葉を叫んでいた。  すると、割れ目から、ひらひらと一枚の紙切れが落ちて来た。  七海が急いで紙切れを取ろうとしたので、わたしも慌てて手を伸ばす。  古びた羊皮紙だった。  羊皮紙はわたしに向かって落ちて来た。  だから、わたしが先に掴んだ。七海は馬乗りになって奪おうとする。 「渡しなさい!あなたには必要ないものよ!」 「これは、わたしが授かったの! あなたのものじゃないわ!」  力任せに七海を突き飛ばした。  守りきった羊皮紙を、わたしは手のひらでぎゅっと握りしめる。  七海は机の角で後頭部を打った。  痛みと悔しさで、顔をしかめていた。  天井にある深海からの光から、強い期待がわたしに注がれているような気がした。  羊皮紙に目を落とす。  珈琲に浸していたように茶色がかっていたが、潮の香りがして、表面は海藻のようにぬめりとしていた。  虫の這った跡のような、奇怪な文様が描かれていた。  不思議と、わたしはそれを古代文字と理解し、冒頭の文字を発音することができた。  ひゃーーーいーーーん。  ひゃーーーいーーーん。  自分の喉から、弦楽器のような甲高い音が響き渡る。  作家は、天井の割れ目から現れたものに気付いて絶叫を上げた。  わたしの声に導かれるように、天井から一本の触手が垂れてくる。  それは蛸の足のようでもあり、蛇の尾のようでもあった。  吸盤と鱗の両方が付いており、赤と黒と緑が入り交ざった薄気味悪い色をしていた。 「ぎゃああえええええええェ~~!」  触手は逃げようとした七海の首に絡みつき、先端は頭頂部に張り付いた。  七海の頭頂部から何かを吸い出しているようだ。  わたしはそれを見つめながら、祈るように繰り返す。  ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん……
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