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供物
いま思えば、伊藤さんもわたしと同じようなことを試みたのではないかと思う。
七海のルーチンワークを崩すと、悪魔が現れる。
彼はそう言っていた。
あの天井の割れ目の奥にいた存在が、伊藤さんの言っていた悪魔だ。
彼の言葉は、ただの比喩などではなかったのだ。
しかし、伊藤さんは、もう二度と同じ経験を味わいたくなかった。
だから、伊藤さんはルーチンワークを徹底して守った。
それをしているうちは、悪魔は現れないはずだった。
しかし、実際は違った。悪魔は毎回現れた。
そのときの記憶を、伊藤さんは奪われていただけだ。
七海の言葉を借りるのならば、そのときの記憶は供物にされていた。
彼の脳腫瘍との関係が推測できたが、深く考えたくはなかった。
もし因果関係があるのならば、わたしも七回分の記憶を供物にされている。
わたしの脳にも、腫瘍が萌芽しつつあるのかもしれない。そんなことは考えたくもない。
七海は何も覚えていなかった。
すべてが幻であったかのように、そのあと天井は元に戻っていた。
割れ目は消え、そこからのぞく光もない。
「わたしは……いったい」
山科七海は頭頂部に手を置きながら、不安げに視線を泳がせた。
今しがた起こった出来事は彼女の記憶には残っていないようだった。
しかし、何かを察したらしく、脅すようにわたしに告げた。
「もしも何かを見たのなら、全てを忘れなさい。次の新作を、無事に書き終えて欲しいのならね」
その後、打ち合わせもそっちのけで、逃げるようにわたしは七海の部屋から出て行った。
家に帰ると、途端に恐怖に襲われた。
あれは、何だったのだろう?
天井が割れて、異界とつながっていた。
しかし、本当にそんなことがあり得るだろうか?
山科七海のミューズは、恐ろしい怪物なのか。
あるいはすべては幻。一時の白昼夢。七海の妄想に感化されただけ。
そうであって欲しい期待すらあった。
しかし、茶色の羊皮紙を目の前にして、やはりわたしはあれがすべて現実だったことを知る。
羊皮紙には意味不明に文字列が並んでいた。調べても、どこの国の言葉なのか突き止めることはできなかった。
しかし、冒頭の文字だけは理解でき、発音することさえ出来た。
わたしは一人、部屋で声に出してみる。
ひゃーーーいーーーん。
ひゃーーーいーーーん。
その夜、不思議な夢を見た。
わたしは羊皮紙を手に持って、暗闇の中をさまよっている。
深海だった。
光の届かない深い海の底を、わたし羽村早苗はゆらゆらと歩いている。
動く影は水の流れで、闇は巨大な水の塊だった。
わたしは影を掻き分け、必死に前へと進んだ。
やがて、カーテンを開けるように突然影は二つに分かれて、闇は終わりを迎えた。
あたりは、海底から見上げる太陽のような、ぼやけた光に照らされている。
目の前には、七つの石塔があった。
黒光りする石塔。
そこは、深海であると同時に、深い山奥でもあった。
重なり合うように、空間は多重に存在している。
夢の中だけあって、その存在は不定形だった。
淡くてもろい。
わたしは、ふらふらとした足取りで一番近くの石塔に近づいた。
てのひらを、そっと当てた。
イメージが、緩やかなさざ波のように流れてくる。
山科七海が語っていた、偉大なる夢みる王のイメージ。
それは、神そのもの。
偉大なる夢見る王は、地球の外からやってきて、かつて地球を支配した。しかし、高次元の敵によって、海底の深くに沈められ、復活の時まで身を癒さねばならなかった。
不意に、石塔の真ん中に亀裂が走った。
黒い、別のカーテンが開けられるように、その中から新しいイメージが出現する。
濃い、エメラルド色に染まった空。
そこにたなびく琥珀色の細長い雲。
左右には高い断崖がそそり立っていた。
岩肌は硬質に黒光りをしている。
エメラルドと琥珀を乱反射して、一帯に万華鏡のような煌びやかな輝きを照らしていた。
わたしは実体を持たずに、その奈落に立ち、呆然と上空を見上げている。
風はない。
暑いが、実体を持たないわたしは汗もかかずに、ただ立ち尽くしている。
岩肌の上を、何かが蠢いていた。
集団で、規則正しい動きをしている。
細長い半透明の生き物だった。
無数の足を持ち、機械のように高速で動いている。
岩肌一面をフナムシのように群生し、一斉に移動していた。
そこは、地球上ではないどこか。
あるいは、この次元にはない場所なのかもしれない。
王が見る多重の夢の一つだ。
眩惑するような世界に、わたしの意識は変革を起こした。
脳内で火花が散ったような感覚を覚えて、目が覚めた。
もちろん起きてしまえばそこは、自分の部屋のベッドの上だ。
わたしは、すぐに書かなくては、と思った。
高揚感と焦燥感に襲われた。
闇に目が慣れるより早く立ち上って、羊皮紙に再び目を落とす。
そういうことか。
古代文字が記しているのは、先程見た夢の続きだ。
この世のものではない物語。
イマジネーションが沸き立つ。
わたしはパソコンの電源を入れ、文書ソフトを開いた。
考えるより先に、指がキーボードを叩いた。
発光する白い画面に、次々と文字が変換されていく。
わたしの頭に浮かんでいたものは、物語というより、重層的な絵画に近かった。
それが、人語に翻訳されるように、文字となって空白を埋めていく。
自分が今までに書いたことがない比喩が、形容が、次々とタイピングされていった。
脳に直接イメージをたきつけるような、装飾語、形容、表現。
山科七海のものとも違う、わたしだけの、わたしにしか書けない文体。
高揚し、恍惚とした。
創作に没入する快楽が、わたしを包んだ。
至福といっても良い時間。
しかし、それはあまり長続きをしなかった。
唐突にイメージは頭から消え去り、キーボードの上に浮いたまま、左右の指はピタリと止まる。
「なぜ?」
誰ともなく、わたしは質問する。
苦悶した。先程までの流暢に書いていた感覚がまったく甦らない。
一瞬にして、溢れるほどに感じていた才能が消滅した。
文章を書くことを生き甲斐とするものにとって、こんなに辛いことがあるだろうか?
「なぜなの……」
髪を掻きむしりながら、今書いた文章を読み返してみる。
素晴らしい文章だ。
強引に続きを書いてみるが、全てが駄文にしかならなかった。イマジネーションは湧かなかった。
「そうか」
わたしは、そこで思い至った。
供物が足りないのだ
この力を得るには、誰かの記憶、あるいは時間、または脳にある器官の機能を捧げなければならないのだ。
彼はそれを欲するのだ。
ならば、供物を捧げよう。
偉大なる夢みる王に。
*
翌日、仕事が終わってから、わたしは杉村を部屋に誘った。
「羽村さんから頼み事なんて、なんだか緊張しちゃうな」
杉村は言葉通り、落ち着かない様子だったが、口元はほころんでいた。
「ちょっとお願いがあるの」
「なんなりと」
わたしは時計をテーブルに置いて、杉村にコピー用紙を渡す。
「これは?」
「台本だと思って」
コピー用紙には、AとBによる二人の会話文が書かれている。
会話のルーチンシナリオを、わたしなりに作ってみた。
そんなに複雑なものではない。わたし自身の生い立ちを、七海の代わりに語るだけの内容だ。
ただし、舌打ちを挿れるタイミングは綿密に計算した。
七海が癖のように繰り返していた奇妙な舌打ちが、ミューズを降臨させる鍵に違いなかった。
レコーダーで秒数を正確に測り、わたしのシナリオに記載した。
「へえ、弟さんがいるんだ」
編集者だけあって、杉村の黙読は早かった。
わたしは赤面した。
自分のことをひけらかすのは苦手だ。たいした人生でもない。平凡な、退屈な人生。恥ずかしいことこの上ない。
「お願いだから、余計な茶々は入れずに、その通りに台詞を読んでくれない?」
赤面したわたしに、杉村は顔をほころばせていた。
「わかりました。でも、いったい何のために?」
「それは、今はまだ言えないの。そのうちに事情は話すから」
わたしは殊勝な態度で、若い後輩に頭を下げた。
「わかりましたよ。早苗さんのためなら、なんだってしますよ」
杉村の鼻息は荒かった。
独身の彼を部屋に招き入れたのだ。何かを期待させているかもしれない。
「では、始めましょう」
会話の内容に大きな意味はない。
ただ、最後に杉村の欲望に火をつける必要があった。わたしが七海の言葉に気持ちを揺さぶられたように、彼の理性を吹き飛ばす一言を告げるのだ。
そのあと、例の呪文を唱えれば、ミューズはこの部屋に降臨するだろう。
わたしに力を与えてくれる。
目論みはうまくいった。
こうして、杉村の記憶はミューズの供物となった。
*
「おい、羽村」
数日後のことだ。複数の作品の概要をまとめて提出したあと、濱口編集長に呼ばれた。
「はい」
わたしは立ち上がり、編集長のデスクに近づく。
「お前、最近、ずいぶんと文章が上手くなったな。まるで山科七海みたいだ」
「そうですか」
謙虚な態度を見せたつもりだが、内心では少し反発していた。
山科七海みたいではないはずだ。わたしの文章の方が、七海のものよりも美しい。うちの編集長は、そんなこともわからないのか。
「きっと担当になって、彼女の作品を何度も読み返しているからでしょう」
冷静さを装ってそう言うと、編集長は顎に手を置いて、わたしを見つめた。
「ところで、その山科七海先生から苦情が来ているんだ」
「苦情?」
きたか、と思った。
七海から何度も携帯に着信があったが取らずにいた。もちろん、彼女の部屋にも、あれ以来、足を運んでいない。
いよいよ七海は、直接、編集長に連絡をしたようだ。
「お前、ここのところ先生を無視しているそうじゃないか。何かトラブルでもあったのか?」
わたしは一呼吸間を置いて、答えを躊躇する素振りを見せた。
山科七海は編集長に、どこまで話しているのだろう?
場合によっては、編集長は担当を変えるつもりだろうか?
「まあ、たしかに偏屈な人で、ちょっと対応に困るところもあるかもしれないな。だが、同じ女性同士なんだ。仲良くやってくれないか?」
編集長は、それほど深刻にはとらえていなかった。もちろん直接会ったこともあるから、七海の性格も知っている。扱いづらいのは承知の上なのだろう。それに今は、部内の人員問題に頭を悩ませているのもあって、あまり関わりたくはないようだ。
「わかりました」
わたしは最近、体調不良で先生に会うのがしんどかったのだと嘯いた。
「たしかに、このところ顔色が悪いようにみえるぞ。寝不足か?」
わたしは曖昧にうなづく。
「伊藤に続いて、杉村のこともあるからな。お前も休みをとって病院にでも行け」
編集長は柄にもなく顔を曇らせた。
彼は元来、自分にも部下にも厳しい体育会系の上司だった。休みや私事よりも仕事を優先させるタイプの人間だ。しかし、立て続けに部下が難病に侵され、このところ参っているようだ。
「大丈夫です」
わたしは深々と頭を下げてから、足早に背を向けた。
それに寝不足といえば、本当に寝不足だった。
このところ毎晩のように、自分自身の創作に没頭している。
楽しくて仕方がないのだ。まるで麻薬のようだった。
しかし、それも杉村の離脱で、お預けを食っていた。
数回のルーチンだけで、彼は物忘れがひどくなった。
人の名前を思い出せないばかりか、物事を手順通り進めることができず、ときおり仕事中に奇声を発した。
病院にいっても原因は分からず、過労とストレスだろうということになって、今は自宅で療養中だ。
編集長に言われた手前もあり、わたしは七海のに電話を入れた。
「あなたのせいで、ミューズは現れなくなった」
彼女はきっと、怒りで狂乱していると想像していたが、受話器越しの声は沈んでいた。
「だめだわ……。もう書くことができない」
わたしを責める気持ちなどよりも、絶望の方が強いのだろう。消沈した口調だった。
「わたしは、あの場所にもう一度行く。だから、新作はしばらく待ってもらうわよ」
「あの場所?」
「そう、あの場所。ミューズをみつけたあの場所へ。再び創造の力を手に入れるために」
わたしは、それだけで理解した。
安堂山のことだろう。
決意に満ちた言葉だった。
しかし、結局それが、七海との最後の会話となった。
その後、山科七海は消息不明となる。
編集長に相談し、警察に捜索してもらったが、見つかることはなかった。
もちろん、この最後の会話について、わたしは誰にも話していない。
一時、ワイドショーを騒がすほどの事件となったが、当代きっての怪奇幻想小説家の消息は不明のままだった。
その類い稀なく魅力的な創作物を、二度と世に送り出すことはなかった。
*
「はー、むー、らー、さー、んー」
杉村の左右の視線は、同じ方向を向いていない。
口元は、幼児のようによだれで汚れていた。
「はー、むー、らー、さー、んー」
間延びした声には、知性が欠如していた。
わたしは顔をしかめる。
もう、この男は使えないかもしれない。
「読んで」
原稿を渡す。
「はいー」
杉村は幼児のような笑顔で、嬉しそうに原稿を手に取る。
「あい、いいいィィィ~~、ウィ、イィ~~」
文字が読めずに、舌を噛んだ。
「ちゃんとしてよ!」
わたしは、苛立ちで声を荒げる。
ひと月ほど前、杉村は、仕事中に急に奇声を発し、我を失った。
そのまま編集長に連れられて心療内科を受診したが、そこでしばらくの自宅療養を告げられた。
重度のストレスが原因であろう、とのことだった。
その頃はまだ、時間が立つとある程度回復して、自我を保ち得た。
だからわたしは、筆の勢いが止まると、杉村を自宅へと呼び出した。
彼はわたしの言いなりだった。
こんなわたしのどこにそれほど恋い焦がれたのか不思議に思うほどだ。
電話一本で、パジャマのままタクシーで駆け付けた。
ところが、数を重ねるたびに彼の知性は損なわれた。
徐々に、文字を読むことすらままならなくなってしまった。
「あーうー、あーうー」
杉村は、赤子のような声を出した。
一応、コピー用紙を手に取り、シナリオを読んでいるつもりらしい。
よだれが、私の経歴の書かれたコピー用紙を汚している。
「さなえさん、さなえさん、こで、こで」
自分の働きに満足したのか、杉村は急にズボンを下にさげた。
「こで、こで。ここ、さわって、なめて」
下着も脱いで、下半身を露わにする。
そして、自身の股間で赤黒くそそり立ったものを指差した。
彼の男性器を目の当たりにした私は、黒い石塔を思い出した。
喉から、声にならぬ叫びが漏れた。
杉村の醜い部位から石塔を連想した自分に腹が立った。
羞恥心と怒りで、目の前が真っ赤に染まる。
ミューズを呼び出したあと、いつも彼と肉体関係を持った。
杉村も望んでいたし、わたしも気分が高揚していたのかもしれない。
自分が蒔いた種だということも忘れ、私はこの若者のことを嫌悪し、憎悪した。
「ふざけるな、役立たずが!」
私は立ち上がり、タイプされるのを待っていたノートパソコンを持ち上げた。
そうして勢いよく杉村に向けて投げつけた。
暗くなったモニターに、赤い飛沫が付着する。
パソコンの角は、若者のこめかみにのめり込んだ。
さらにわたしは自宅の椅子を両手で抱えた。
そしてその脚を、杉村の顔面に何度も何度も打ち下ろす。
「糞が! 糞が!」
途中で木製の椅子の脚は折れ、歪な突起物と変化したが、私はかまわず打ち続けた。
若者の皮膚は裂け、骨が砕け、わたしは返り血を浴びた。
杉村はとうに意識を失っていたに違いない。
目も口も呆けたように開いたままだった。いや、もしかしたら最初の一撃ですでにこと切れていたのかもしれない。
壊れた人形のように、彼はされるがままだった。
我に返ったときは、もう手遅れだった。
私は荒い息を繰り返しながら、血塗れで倒れる杉村を見下ろした。
頭の中で、サイレンのように、ミューズの言霊が鳴り響いている。
ひゃーーーいーーーん。
ひゃーーーいーーーん。
わたしは杉村の体をひきずって、部屋を出た。
死体を車のトランクに押し込む。
行くべき場所は一つだった。
安堂山の禁猟区。
七海が、ミューズを手に入れた場所。
黒い七つの石塔のある場所。
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