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1.
「私の朝はね、食パンに溶けるチーズを乗せてトーストしたのを食べないと始まらないの」
「へぇ、そうなんですか」
すっげぇどうでもいい情報ですね。言葉の後半は丸ごと腹の底に飲み込んだ。口に出す言葉は、思っていることの半分以下に減らすと色々とうまくいくものだ。それは28年間も人間をやっていると身に付いてくる処世術のひとつであったけれど。
「丸山君は朝はなに食べるの? ご飯の人?」
もうやめてくれ、と願った相手のお喋りは止まることなく続くから、万能とはいえないものなのかもしれない。
ただでさえ忙しなくて、機嫌が良いとはいえない月曜の朝。ごしゃごしゃとした人の群れに押されるようにして地下鉄を乗り継いで、勤め先の最寄駅で降りれば、偶然居合わせた斜め向かいの席の先輩社員に捕まってしまった。
そのおかげで、既に疲れを覚え始めている通勤という任務の中に、彼女のどうでもいいお喋りに適度な相槌を打つというミッションがプラスされたのである。全くもって運がない。
観てはいないけれど、今朝のテレビの占いは、軒並み俺の不運を知らせてくれていたんだろうな。そしてラッキーアイテムはボタニカル柄の小物とかいう、どこで手に入れるのか想像もつかない代物で、不運から逃れることはできないという現実を暗に突きつけてくるんだろう、きっと。
しかし、こんなにも気が重いのは、単にこの通勤任務によるものだけではないことはわかっていた。原因の主成分は昨日の夕方にかかってきた電話だ。
「結婚するって言った?」
「うん、言った」
「マジかあ、なんか意外だわ」
「なんでだよ」
電話をかけてきたのは、高校時代の同級生であり、今も唯一付き合いの続く男、石倉であった。
「お前そういうのしないかなって」
「いや、もう俺ら28よ。普通に付き合って2年とか経つと、そろそろいい歳だよなって思ったし、するよ、結婚」
「マジかあ」
「逆にそんな驚かれると思わなかったわ」
「いや……うん、おめでとう。びっくりしたけど、おめでとう」
「うん、ありがとう」
驚きと戸惑いの入り混じったまま、テンプレートな言葉でとりあえず祝福しておく。
名前も顔も知らない友人の結婚相手について、聞きたいことはあったけれど、突っ込み過ぎてウザがられるのも避けたい微妙なところだ。
「最近会ってなかったからさ。久しぶりに電話きたなー、と思ったら、まさかの結婚報告で驚いたわ」
「俺もできるなら会って話したかったんだけどさ、仕事も忙しかったし、でも一応式もあげるから、お前には来て欲しかったから。先に伝えとくことにしたんだ」
結婚だけでは飽き足らず、式まで挙げるという石倉に丸山はますます驚いた。
「はっ? 式もすんの? なんか全然お前のイメージと違い過ぎて驚くんだけど」
高校時代の石倉は、硬派とは全く言えなかったが、女子との関わりを異常に避けるきらいがあった。
ただの日常会話や連絡事項であっても、話しかけられたときは、近くにいる丸山に話しかけているものとみなし、頑なに無言を貫く。
嫌悪というのともまた違う、まるで女子という生物がいないかのように振る舞うその姿は丸山には非常におかしなものに見えていた。
とうとう石倉が女子との会話をしているところを高校時代は見たことがない。誰が相手だったか忘れたが、学校祭の準備の時に「ああ」という返事を女子にしているのを見たのが唯一の石倉と女性陣との絡みであった。
そんな石倉が結婚するというのだから驚きもするし、ましてや結婚式をあげるなど天変地異に匹敵するレベルの衝撃であった。
「お前どうしたの。高校の時のお前を見てる身としては、信じられないことだらけだよ」
「あの時は俺もガキだったの。どうしたらいいかわかんなかったんだよ。でもさ、ずっとそのままってわけにもいかないじゃん、生きてたら」
まあ、たしかに。と聞きながら納得する丸山の耳に石倉の言葉が立て板に水を流すようになだれこんでくる。
「そんな中でいい子に出会ったんだよ。んで、この人となら一緒に住めるかなー、なんて思って半分同棲していくうちに、この人となら結婚もできるかもなー、ってなって、それで結婚すんの」
照れ隠しなのか石倉は多弁だ。さっきからいつ息継ぎをしているのかと疑うくらいの勢いで喋り続けている。
「結婚なんて1人じゃできねえんだから、相手と色々話し合うだろ。そしたら向こうが式は絶対あげたいって言うんだもんよ。無碍にできねぇだろ。でも色々話してやっぱ実感したわ、他の女は未だ苦手だ。仕事で関わったりはできるようになったけども。彼女以外の誰かとあんな風に話し合えって言われても、無理だなって思ったわ」
「お前そのセリフ、俺に言ってないで、嫁さんに言ってやれよ。どうせお前のことだから、そんなこと気障で言えない、とか思って、言ったことないだろ」
自分のことを棚に上げてからかってやると、不機嫌ぶった声がスマホから聞こえてくる。
「うるせえよ。言葉にしなくても伝わる関係ってのがあんの。大体、お前に言われたくないっつーの。そっちはどうなのよ?」
棚に上げた自分のことが石倉の手によって降ろされてしまった。
「俺? 俺は……まあ、ボチボチだよ。仕事も続いてるし、彼女もいるし、別に結婚の予定もないけど、楽しくやってるよ」
自分でもなんでそんな嘘をついたのか、一瞬理解できなかった。
仕事が続いているのは嘘じゃないけれど、別に楽しくなんてやれていないのは自分がよくわかっていた。
恋人だっていない。2年近く前に別れた相手で、それっきり。
丸山の自分でさえ気づかないほどの自然な嘘に、石倉は何かを勘づくはずもなく続けた。
「楽しくやってんのか。それはいいけどさ。お前ってそういうところあるよな、刹那的っていうか、快楽主義っていうのか、悪いこととは思わねえけど、俺らもうアラサーだぞ。高校時代に見かけたらオッサンだって認定してた生き物になりつつあるんだぞ」
「うるせえよ」
優しくも辛辣な説教を、それ以上聞きたくなくて、丸山は笑いながら遮った。
その後もあーだこーだ言いながら、そういえば2年近く連絡しか取ってねえな、道理でお互いの近況も2年前の情報で止まってるわけだ。飲みに行こう、飲みに行こうって言ってばっかり。今度こそ本当に飲みに行こうや。そんなことを言いながら電話は終わった。
黒い画面に戻ったスマホを見て丸山は困惑していた。
俺はなんであんな嘘をついたんだろうか。別にバレても構わないような、どうでもいい嘘。
でも、一体いつから、そんな嘘が自分には必要になっていたんだろうか。
楽しくなんてやれてない。それは、ここ最近の話し? 違う。最後の彼女と別れた2年前? 違う。
もっとずっと前から。なんだ俺、楽しくなんてやってなかったじゃないか。
やらなきゃいけないことが山ほどあって、それができなくちゃレールから突き飛ばされてしまうから、それが嫌で必死になってる間に時間が流れてただけだ。
敷かれたレールの上を歩くなんてつまらないと言う奴は大勢いるけど、舗装された道を歩く方が絶対に楽に決まっている。
わざわざ未開のジャングルに踏み込んで、底無し沼に嵌って死ぬような生き方より、自分みたいな生き方の方がずっと幸せだと思っている。
でもじゃあなんで、こんな虚しい気持ちになるんだろうか。部屋の壁を見つめていた先から、手の中のスマホに視線を落とす。
——ああ、石倉のせいか。
いや、おかげと言うべきであろうか。自分はとっくにレールの上など歩けていなかったことに気づいたのである。
「俺らもうアラサー、か」
呟いて両手を頭の後ろで組んでゴロリと床に仰向けに寝そべる。
別にアラサーだから結婚せねばならない。なんて暴論を展開するつもりはない。
でも、確かにレールの引かれた人生には、ある程度の地点で目安になる標があって、そろそろ結婚というひとつの選択肢が目の前にかざされる年頃になったのだ。
そしてここで無事に結婚ルートに突入できた者は、子育てルートに進むのが、多分一般大衆が描く、社会のレールの図式であろう。
けれど丸山には、自分が結婚するのも、誰かと子育てするのも想像がつかなかった。そんな余裕がないという現実が、行く手を遮る亡霊のように漂っている気がした。
自分はそこそこ幸せで、楽しくやっていて、恋人もいる。どうでもいいけど、咄嗟に口から出た理由のわからなかった嘘が、今の自分が大きな海で遭難して宙ぶらりんになった船であることを自分に伝えてきた。
——そっか、俺、別に楽しくなんてやってなかったのか。
楽天家であると自己分析していた丸山だったが、一度思い当たってしまうと、そういえばあれもこれも……と、ズルズルと思い当たる節が記憶の沼から引き揚げられてくる。
熱を測って、自分が発熱していることを知り、急に具合が悪くなって感じられるのに似ていた。倦怠感と厭世的な重い空気に耐えられず、そのまま目を瞑った。
次に目を覚ましたのは夜の10時になっていた。貴重な日曜日の夕方から夜を潰してしまったことを知り、丸山はらしくもなく溜息をついた。それでも胸の奥にこびりついたように、一度気づいてしまった虚しさが体から出て行く気配はなかった。
そんな調子で迎えた週明けだったから。だからこんなにも調子が悪いんだ。数日も経てば元に戻るだろう。
こんな風に虚しくなったり、苛ついたりを繰り返して、なにか楽になるというのであれば好きなだけそうしていたいところだが、残念ながらそんなことはない。それならばやり過ごすしかないじゃないか。
通勤を終えて、無事に出社した後も、気分は相変わらずであったが、なんとかやっていくだけのメンタルは取り戻せたような気がする。とろけるチーズじゃなければ朝が始まらないとか、どうでもいい話を延々と横で喋ってくれた先輩のおかげであろうか。あの苦行が座禅のように、丸山の心を整えてくれたのか。それならば少しは感謝しておくべきかもしれない。
そうやってどうにか自分で自分を整えたとき、スマホが音を立ててメッセージアプリの受信を知らせた。
石倉:今度、今度って言ってたら永遠に会えない気がしたからさ。今週末とかどうよ? 時間空いてる?
「どうしたの? 怖い顔してる」
とろけるチーズの先輩が斜め向かいの席から声をかけてくる。
「あー、ちょっと、昔の友達なんですけど。怖い顔なんてしてました? 目悪くなったかなー、字小さくて見づらいんですよね」
「いやだぁ、まだ老眼なんて歳じゃないでしょう?」
そうだといいんですけどねー、はっはっはっ。なんて笑いながら、頭の中ではどう返事するか考える。
——行かないわけにもいかねえか。どうせいつか会うんだし、丁度いいや。
OK、空いてる
始業だから、また後で
それだけ返して、スマホをスラックスのポケットにしまい込んだ。
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