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11.
忘れられるはずもない。
「あなたは、なんで生きてるの?」
そんなことを聞かれたのは、後にも先にも18歳の時のあの1度きりだ。
もっとも、その言葉が強烈すぎて、それ以降のことはよく覚えていないというのが正直なところであるけれど。
「覚えてるに決まってるだろ」
28歳の丸山が杉原の向かいで呟く。
「そっか、よかった」
そう言って28歳の杉原が少しだけ目を伏せる。そしてそのままテーブルに沈黙が訪れる。
その間、数十秒ほど。大した時間ではなかったけれど、待ちきれなくなった丸山から切り出すことにした。
「あの時、俺そんな酷いことしたっけ?」
記憶があやふやなのも確かだったから、自分の覚えていないところで彼女に酷いことを言っていたのではないか。そんな懸念から、単刀直入にそう聞いた。
「違う。丸山君は酷いことなんてなにも言ってないよ」
顔を上げた杉原の否定で、丸山は安堵のため息をこぼす。
「じゃあなんだよ、俺との『濃厚な思い出』って」
杉原を傷つけたという話ではないようで、ふざける余裕が戻ってきた丸山が、わざと「濃厚な思い出」の部分にアクセントを置いて尋ねてみる。
杉原はそんな丸山の悪ふざけは意に介さない様子で、残りが少なくなってきたアイスコーヒーに刺さっているストローに唇をあてて、すぐに離してから話し始めた。
「さっきも言ったけど、私の精神的な柱になってくれる言葉を丸山君はその時くれたんだよ。丸山君はそこまでは覚えていないみたいだけどね」
言い切ってから、杉原はもう一度ストローを咥えて、今度はコーヒーを少し口に含んでから、口を離した。
「正直にいうと『なんで生きてるの?』なんて聞かれたことへの衝撃がデカくて、それ以外はあんまりよく覚えてない。ごめん」
丸山は正直に話すことにした。覚えているふりをして、彼女から聞けることが少なくなってしまっては自分としても当初の目的が果たせなくなってしまう。
こういう時は自分にできるのは誠実でいることくらいだと丸山は理解していた。それ以外に策を巡らせて、思い通りにことを運ぶような器用さは自分にはない。
「いやいや、そりゃそうだよ。今自分で思っても、あの時の私おかしかったもん。黒歴史だよ、黒歴史」
思春期に特有のやつかなー、なんて笑いながら答えるけれど、本気で恥ずかしがっているのか、丸山の方を見ようとしない。
杉原にそんなつもりはないだろうが、焦らされているような気持ちになってきた丸山は、自分から1番聞きたいことを切り出すべきか迷った。
そんな丸山を見て、もしや杉原は楽しんでいるのだろうか。そんな気がするほどに、杉原は柳の枝のように照れた素振りで間を延ばしている。
でも、私だけじゃなかったよねー、なんて関係のない思い出話まだ持ち出してきたところで、丸山はしびれを切らした。
「そんなもんだろ、高校生の時なんて」
決して威圧的にならないように慎重に切った口火で、杉原は髪を弄りながらヘラヘラと笑っていた手を止めた。
「そうかもね」
指に髪を巻き付けたまま、杉原が返す。その目はやはり笑っているように見えた。小悪魔的である。丸山は初めて杉原に対してそんな感情を持った。
「ひょっとして俺、オモチャにされてる?」
浮かんだままの疑問を、そのまま問い掛ければ、そんなことないよ、とわざとらしい甘い声が返ってくる。
たぶん杉原は楽しんでいる。杉原にとって重要だった18の思い出を、丸山がすっかり忘れていることに少し意地悪な気持ちになっているに違いない。
こちらから入ろうとして脚を出しても、目の前で波が引いて踏み入らせてくれない海のように。
彼女は丸山で遊んでいる。丸山は頭を抱えたくなった。誠実でいようと決めたばかりであったが、紳士の皮を被り続けるのは、あくまでも互いが対等な立場にある時でなければ難しいようである。
そもそも忘れているのはこちらなわけだし、暴くような口振りで、彼女の口から2人の過去を引き出すのは気が進まないことには変わりないが、焦らされ続けた丸山は気づかぬうちに少しずつ身を乗り出して、テーブルを挟んで座る杉原に食い入るような姿勢になっていた。
「丸山君近いよ」
そのせいで余計に杉原にからかう材料を与えてしまった。どんだけ焦ってるの、とケラケラ笑う杉原の声にバツが悪くなり、尻が浮きかけていた自分の体勢を、腰掛け直して元に戻す。
「でも、ちょっと意地悪だったかな、そろそろ思い出話をしようか」
杉原が楽しんでいると思ったのは気のせいではなかったようだ。小悪魔的だなんて思ったが、前言撤回する。彼女はしっかりと小悪魔だ。見た目は清楚なOLのようなナリをしているから気づかなかったのも無理はないと丸山は自分を納得させる。
「18歳の丸山君はね、本当に紳士だったよ、変なところでね。そしてとってもおバカだった。そのおかげで、あの時の私は救われたんだよ、間違いなくあなたに」
なんで生きているのか、そんなことは当時の丸山はそれまで考えたことがなかった。
今日がそこそこ楽しければよくって、明日も同じように過ごすことができればラッキーだな、くらいのことを漠然と言葉にせずに考えていただけ。
一般的な思春期というものに入れば、その方向性は各々個性が出るものの、いわゆる哲学的な問いを抱くことは稀なことではない。
しかし、そのあたりの意味では丸山は少々異質な高校生であっただろう。
幸か不幸か、彼が自分の生き方に疑問を抱くことはなかったし、仮に抱いたとしても「まあ、いいか」と受け流してしまうことができる、よく言えば大らかな青年であった。
その大らかさは自分へと向けられるだけではなく、他人へも惜しみなく向けられていたため、結果として石倉をはじめとする何人かの友人たちを、思春期の迷路から救ったことがあったのだが、丸山はそれを知らない。
杉原も丸山に救われた1人であった。あの日、図書室で半分泣いて、半分怒りに身を任せて酷いことを言ったのは、むしろ自分の方だと杉原は語った。
「あなたは、なんで生きてるの?」
これは杉原が自分で自分の生きる意味がわからなくなったから発した言葉だったのだという。
相手が偶然丸山だっただけで、あの日のあの場所に誰も来てくれなかったら、きっと誰にも向けずに自分の奥底に無理やり沈めただろう言葉だったのだと。
でも別の誰かが来たとしても、やっぱりあんなことは言わなかったかもしれないな、と28歳の杉原は言った。
丸山はみんなに人気があったから。頼りにならなさそうだけど頼りになる、というのが当時の丸山の知らぬところで、彼を評価していた同級生たちの声だったらしい。
杉原も当然それを知っていたから、もしかしたらあの時丸山が偶然来てくれたことは、とても運が良かったのかもしれないと笑いながら言う。
「私ね、家が苦手だったんだよね。別にうまくいってないとかじゃなかったはずなんだけど、親がね、口癖みたいに言う人だったの。『あんたにそんなことできるはずないでしょ』、『あんたには無理なんだからやめておきなさい』って」
ずっとその通りだと信じ込んでいたから、親の言葉に疑問も持たずに、杉原は高校生まで親の許可したことだけをしていたのだという。
それが変わったのが、個人面談で担任に「杉原の成績だったら、地方なら国公立大学も狙えるぞ」と言われて後押しされてからだった。
その日の夜に、初めて親に自分の意見を話した。結果はいつもと同じだった。
「あんたがそんなことできるはずないでしょう」
「地方ってことは一人暮らしになるんだろう。そんなことお前にできるわけがない」
そして初めて親子喧嘩をしたのだという。できるかもと先生が言ってくれた、私の未来を決めつけるのはやめてほしい、私の可能性も信じてほしい、と。
「それからね、家がおかしくなっちゃった。腫物に触るみたいになったっていうか、ギスギスし出してね。姉がいたんだけど、姉からも叱られたの。『父さん母さんの機嫌を損ねないで、空気が悪くなるでしょ」』って」
そう言って杉原は残りわずかだったアイスコーヒーをズーッと軽く音を立ててストローで飲み干した。
「いっぱい喋ったから喉渇いちゃった。もう一杯頼んでもいい?」
「いいよ」
丸山は即答した。
「忘れたの? ここ丸山君の奢りなんだよ?」
笑いながら話す杉原に対して、丸山は笑わない。
「続きが聞きたいから、いいよ」
「……本当に変なところで紳士だね。面白いな」
店員を呼び出して、アイスコーヒーのおかわりを注文してから、杉原は再び丸山の方へと向き直って話し始めた。
あまり進学に力を入れたわけでもない高校で、国立大学に受かるかもしれない成績を出す生徒の登場に教師陣は喜んだ。
当時の杉原も、期待に応えたい気持ちと、自身の成績をあげるために、そんな教師陣と積極的に交流した。そのうち授業でもあてられる回数が増えたり、休み時間に教師と談笑している姿が同級生たちの目につき始めたらしい。
噂が立ち始めたのだという。
「あの子、ウザいよね」と。
その話を教えてくれたのが、その時の杉原が1番の友達だと思ってた子だった。「佳穂、こんなこと言われてるよ」と。
最初は親切だな、と杉原も思っていた。
けれど、それが何回も繰り返されてくうちにわかった。その子は親切心でもなんでもなく、杉原を揺さぶりたいだけで、そんなことをしているのだと。
そう思い至ってから、わけが分からなくなったのだという。
自分は自分のやりたいことに向かっているだけで、それは他のみんなと同じはずなのに、どうして私だと、こんな風になってしまうのか。
両親がいうように私には無理なことだったのだろうか、だとしたらなんで先生たちは私に「大丈夫」なんて言うのだろうか。
幾つも階層が重なった矛盾が、杉原の頭の中で、永遠に登れる騙し絵の階段みたいに広がり続けて、そんな折に進路調査票の提出が重なった。頭がパンクするかと思ったという。
親の言葉や、同級生たちの見る目、教師たちからの目、自分がやりたいこと、できること、やめろと言われること……何も決めれてなんていないのに、何を決めろというのだろうか。
半ばヤケを起こして、自分の知る限り家から1番遠い大学の名前を書いて提出しようとした。
それが親の目に留まり、泣くまで叱られたのが図書室での出来事が起きた日の前日の夜のことだった。
「と、まあ、そんなわけで。あの時の私は『生きるってなんだろうか』って物凄く感じていたんだよね。みんなと同じようにしてるはずなのに、みんなみたいに上手くいかない気がしちゃって。そこにさ、頼りにならなさそうだけど頼りになると噂の丸山君が来てくれたから、ちょっと勝手に運命とか感じてたんだよ」
そう言ってエヘヘと笑う杉原に丸山は何を言えばいいかわからなくなっていた。
どうして石倉にしても杉原にしても、なんでもないわけがないことを、なんでもないようにして話すのだろうか。
自身に照らし合わせれる経験がなかったので、丸山にはそれが理解できなかった。それが悲しいとなぜだか少し感じた。
ちょうどその時、2杯目のアイスコーヒーを持ってきた店員が、慣れた動作で杉原の前に紙のコースターを敷き、黒いコーヒーで満たされたグラスを載せ、その横にガムシロップの容器を置いて、空になってテーブルの隅に置かれていたグラスを回収して帰って行った。
シロップの容器をパキリと音を立てて開けて、透明な液体をコーヒーに注ぎ込みながら杉原は続ける。
「ごめんね。ちょっと私のこと話しすぎたね。今からちゃんとあの日の話になるから。丸山君、そこが1番聞きたかったんでしょう?」
杉原の見立てに丸山は驚く。
「ジェントルマンな丸山君は、どうもあの日に自分が言ったことを忘れてしまったみたいだからね。おおかた、それが知りたくて今日呼び出したんだろうなって、わかるよ」
代行彼女2年目のベテランを舐めるなよ! そう言って空になったガムシロの容器で丸山を指し示し、彼女はストローに口をつける。
黒い液体がストローの中を駆け上がって彼女の口に辿りつき、喉を潤した杉原は椅子に腰掛け直し、話の続きを語り出す。
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