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12.
泣きそうになりながら迫る同級生に、高校生の丸山は頬を掻きながら答えた。
「生きてることに意味があるのか、なんて聞かれてもな……」
考えながらと言った具合で、ゆっくりと言葉にしてみたが、それが杉原には気に入らなかったようだ。
「じゃあ意味もないのに生きてるの?」
相変わらず顔色が読めないままの彼女の口から、咎めるように次の言葉が放たれた。
「そもそも意味なんて、必要か?」
怯みながらも、会話を続けようと試みる。丸山としては一生懸命考えて答えているのだが、どうもそうとは受け取ってもらえない。
それならどうして杉原が、生きることに意味があるかどうかなんて聞いてきたのかを知ろうとした方が早い気がした。
「それは……意味もなく生きてたら、ムダじゃん」
逆に問われる形になるとは思っていなかったようで、戸惑いながら答えが返ってきた。
「ムダでいいじゃん。何が問題なんだよ」
丸山はそもそもの問いの必要性がわからないといった具合で答えた。
というか、実際に「人生の意味」なんてものが必要であるとはこれっぽっちも思うことができなかったので、彼女が言うところの「ムダ」の何が悪いのか理解できていなかった。
「ムダなのは……だって良くないことじゃん」
だんだんと杉原の歯切れが悪くなってきた。丸山はそこに突破口を見つけられると思った。
「良くないって、誰が決めたんだよ。っていうか、仮に誰かに決められたからってだけで、自分の人生なのに『ムダ』とか言っちゃうの、もったいないじゃん」
丸山は普段から思っていることを口にするだけなので淀みなく答えることができる。
それに対して杉原は、少しずつ戸惑いながら、目を泳がせて返事に窮しているのがわかった。
別に彼女を追い詰めたいわけじゃない。丸山は助け舟を出すことにした。
「もし他人に自分がやってることをムダだって言われて、杉原はそれを聞いて、わかりました、ムダならやめます。って、できるの?」
彼女が探しているものは、自分の中にはなくて、彼女の中にしか存在しないと思ったから、杉原が杉原に問うことができるような質問を投げかけた。
杉原は固まって動かない。考え込んでいるようだ。
「それは……ムダなことだったら、やめるように努力するべきだと思うよ」
絞り出すように答えたが、その答えに彼女が自分で納得していないのは誰が見ても明らかであった。
「じゃあ、やめたとして。やめて、その次はどうするんだ?」
杉原が自覚なしに隠していることが、たぶん杉原が1番知りたいことだ。
丸山は直感的にそう思って、そこを突いた。
杉原は黙り込んで答えない。
「やめて、そこで終わりだなんて、そっちの方がもったいなくない? 何も残らねえよ」
その言葉が杉原のスイッチを押してしまったらしい。次の瞬間、丸山は平手で頬を打たれていた。
「えっ、痛っ」
「何も残らないね。そうだね、その通りだね。だから私は、こんなになっちゃったんだろうね。でも別に好きでなったわけじゃないもん。私だってやりたいことくらいあったよ。でもそれがムダだって、そんなことしても意味ないって、ずっと周りから言われて、それに反抗して厄介ごとを引き起こさないように、細心の注意をはらってきたのに、これじゃまるで私バカじゃん。多少頭いいことだけが唯一の取り柄だったって思ってたのに、それさえも取り柄でいさせてくれないんだよ。みんなが。じゃあ一体どうすれば良かったの。私が何をしたって、私がしたことってだけで不正解だって認定してくるなら、私は一生正しいことなんてできないじゃん」
立て板に水の如し。正直にいえば引いてしまうくらいの勢いで、杉原は一気に捲し立てた。
「ちょっと待てよ」
ひりつく頬に手をあてて庇いながら丸山は杉原を遮る。自分の世界に入り込んでいたのか、丸山の静かな声だけで、彼女はびくりと身を震わせて、我に返ったように静かになった。
普段、優等生として一目置かれていた彼女の意外すぎる姿に驚きが止まらなかったが、それ以上に聞き捨てならない言葉があったので、丸山は彼女を止めた。
「正しいことなんてしなくていいじゃん。っていうかさ、人にそんな価値観を押し付けてくるような嫌な奴らのいう『正しいこと』に従う必要、全くないだろ」
丸山の言葉を杉原は身動ぎもせずに聞いていた。
「なんでそんな自分を責めるんだよ。誰が何を言ったのか、俺、杉原のこと何も知らないけどさ。俺は少なくとも、さっきこの部屋に入ってきてから10分くらいお前と喋ってるけど、1度も杉原を責めてもいないし、悪いとも思わないし、間違ってるとも思ってないからな」
正直、平手打ちされた頬はまだ痛いし、その辺りは謝って欲しいところではあったけれど、今それはさほど大事なことではないと思えた。
こんな風に錯乱してるとも言える状態になるまで、彼女を追い詰めたものが何なのか、丸山には見当がつかなかったが、今こうして彼女と向き合っている人間が自分1人である以上、できることは全てしたいと感じていた。
それは丸山という男が、ただ単にクラスが一緒になったというだけで普通なら抱かないくらいの大きさの情を、彼女に抱いていたから。
当時の丸山は自分が情深いとも思っていなかったし、なぜそんな風に自分が生きていたのかわかっていなかったので「クラスメイトである杉原に対して誠実でありたい」という純粋で単純な彼の信念があっただけだった。
下心も何もなく、実は自分のためでしかないけれど、優しさによく似た丸山の持つ情。
そんな純粋で単純な情と信念だからこそ、この時の杉原に届くものがあったのだろう。彼女は俯きながら小さな声で何か言葉を漏らした。
「えっ? ごめん聞こえなかった」
「ごめん、叩いたの……」
我に返った彼女の最初の言葉は謝罪だった。そしてそれだけで丸山は杉原を全面的に信頼できるほど単純であった。
「いいよ。別に痛くもなんともないし」
嘘である。いくら体格差があるとはいえ、たぶん全力で引っ叩かれた。痛くないはずがない。
「でもちょっと赤くなってる」
そこでようやく顔を上げた杉原は、眼に涙を潤ませていた。そのことに丸山は驚く。さっきまで杉原が泣きそうだったのは、杉原のことでいっぱいいっぱいだったからなのに。今の涙は丸山のために泣きそうになっているのかと思えたから。
「丸山君、優しいから甘えちゃったね。でも本当にごめん」
そう言って杉原は丸山の頬に手を伸ばしてきた。先ほどの平手打ちとは全く違う、いたわるような手つきで、その頬をさする。
丸山は少し変な気分になってくる気配がしたので、即座に一歩下がって杉原のその手を引き離した。
そして西洋人のリアクションのように両腕を大きく広げて、自分がなんともないことをアピールする。
「大丈夫だって。ケガもしてないし、それに本当に痛くもなんともないから」
そう言ってへっちゃらな顔をして杉原を安心させようとする。
そんな丸山を見て、杉原はクスリと笑った。
「全然似合ってないよ、その仕草。でも、わかった。ありがとうね」
そう言って杉原は前に踏み出し、そのままの形で丸山の胸の上に倒れ込んできた。
予想外の出来事に丸山は目を丸くする。
「丸山君は優しいな」
囁くような声でそう言って、頬を丸山の胸にあて、背中に腕を回そうとする杉原を丸山は引き剥がし、彼女の肩に手を置いて丸山は杉原の顔の位置を一定距離に保ち、慌てたように話し始める。
「あのさっ、『スウィート・イミテーション』って知ってる?」
突然なんの脈絡もなしに用いられた横文字に、杉原は怪訝な顔をする。
「? 聞いたことない」
「俺も最近、本でちょっと読んで知ったんだけどさ、甘い偽物って意味なんだけど。人間は辛いこととか、耐えられないことがある時に、その甘い偽物を作り出す力があるんだって」
やけに饒舌に話し始める丸山の様子が、必死に何かを弁明するバカな男のように見えて、それが面白かった杉原は黙ってその話の続きに耳を傾ける。
「でもそれは悪いものでもないんだよ。だって自分を奮い立たせて、苦しい今っていう時間を乗り切るためのものなんだから」
「ふーん、それがどうしたの? 急になんの話?」
何かに焦る丸山の姿が面白くて仕方がないけれど、話の内容に興味を惹かれた杉原は続きを促した。
「だから、さっき言ってた『生きる意味』ってやつ! 生きるために今を生きるんだよ。将来とか、未来のために生きるとかじゃなくてさ。ただ、生きて、明日を迎えて、そんでまあまあ楽しくやれてたら、それでいいじゃん。そのために、偽物でいいから、今の自分が苦しいってことも忘れちゃうくらいの、甘くて夢中になれるものを探せばいいんだよ」
ああ、なんとなくこの男の言いたいことがわかってきた。自分では気づいていないだろうけど、どこまで真面目で誠実なんだろうか。
「スウィート・イミテーション」なるものが実在するかどうか知らないが、自分を平手打ちした女のために、必死で考えた救済策を、今この男は話して聞かせてくれているのである。
「好きになれるものを探すんだよ。人生がさ、80年くらいの時間潰しをしなきゃいけないっていうんなら、そのうちの5年くらいでも夢中になれるものがあればいいじゃん。で、今好きなものに飽きたら、次に好きになれるものを探すんだよ。その繰り返しでいいんじゃないの?」
なっ? と言って自分の肩を軽く揺する姿は、若い父親が幼い娘に言い聞かせているみたいだった。彼ならば、きっといい父親になれるんだろうなと、杉原はなんとなくそう思った。
「そんな数年で消えちゃうものは本物じゃないよ」
少しだけ意地悪な気持ちになって、しても仕方がない反抗を試みる。それでも丸山は決して諦めないといった勢いで、杉原の肩を掴む力にさらに力を込めて続けた。
「本物じゃなきゃダメだなんて、誰が決めたんだよ。いいじゃん、偽物でも。それが自分の支えになったんなら。」
その言葉が決定打になった。杉原は1番知りたかったことを知った。自分は救われたかったのだ。そして報われたかった。
1番欲しかったものを、まやかしかもしれない言葉で丸山が贈ってくれた。丸山にその自覚はないだろうが。
そもそも「さっき言ったスウィート・イミテーションってやつだよ」なんて言ってるけど、この人は本なんて読むことがあるのだろうかと杉原は内心で疑う。
ああ、でもそれも含めて甘い偽物のつもりなのか。ただの思いつきに過ぎなくても、それが癒しになるのであれば、全力でそれを使おうとする。
「変なところだけ大人みたい。狡い」
そう言い返して笑うのが杉原の精一杯だった。それでも丸山は満足そうに頷いて、杉原の肩をポンポンと叩いて一歩後ろへ下がった。
さっきまで拳1つが入るくらいの隙間でしかなかった2人の距離が、手を伸ばしてもギリギリ届かないくらいになった。杉原はそれが切なかったけれど、これ以上丸山に甘えるのは自分が狡くなってしまうと思い、丸山の取る距離を受け入れた。
図書室はいつしか陽が落ちて暗くなっていた。電気がついていなくても、教師の誰も気にかけないような人気のないスポット。
そこに男女が2人きりっていったら、ちょっとロマンチックなこと期待してもいいじゃないか。
杉原はそんなことを思ったけれど、どこまでも純真に見える丸山の眼を見たら、それで満たされたような気がした。
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