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13.
わりかし混んでいる昼過ぎのカフェの1席で、杉原の思い出話は幕を閉じた。おかわりで注文したアイスコーヒーは、氷が溶けて色が薄く変わっている。
人の口から語られた自分の思い出を聞くというのは、奇妙な体験であった。追体験ともまた違う、自分が主人公の物語を読み聞かせされるような、恥ずかしさがあった。
すべてを話し終えてリラックスしている杉原に対して、丸山は両手で顔を覆い、視線を合わせられずにいる。
「……そんなこと言ってたっけ、俺」
「言ってたよ。それだけ恥ずかしがるってことは、思い出したんじゃないの?」
思い出話は杉原の黒歴史でもあったはずなのだが、彼女はそんなことで微動だにしていない。
「耳まで赤くなってる」
平然とした口調で指摘されて、慌てて手のひらで両耳を隠せば、目のやり場に困って、仕方なしに裏返された伝票を凝視している丸山の顔が現れる。
「えー、でもショックだなあ。私は全部ちゃんと覚えてたのに。丸山君は何も覚えてなかったんだ」
髪の毛を手でまとめあげて、指の輪でポニーテールを作ってすぐに離す。ほどけた杉原の髪が、彼女の肩の上で跳ねるのを視界の隅に捉えながら、丸山はゆっくり目を閉じてから言った。
「違う……いや、違わない。忘れてた部分が大きかったのは認める。でも、聞いてくうちに全部思い出した」
「私と抱き合ったことも?」
「抱き合っ……てはいなくない?」
「そうだね、抱き合ってはいないね」
「ちょっ……」
なんでそういう揶揄うようなこと言うかなぁ、なんてぼやきながら丸山はようやく耳を隠していた手を下ろして、膝の上に並べる。
「いやー、死ぬほど恥ずかしかった」
吹っ切るようにわざとすこし大きめの声で宣言する。
「スウィート・イミテーション」
しかし杉原が真顔で呟いたせいで、丸山は再び顔に手を伸ばす。
「頼むからやめて……なにその中二病っぽいネーミングって自分でも思ってるから」
「やっぱりあれは作り物だったんだ」
丸山の白状に、杉原はほんの少し遠くを見つめて笑う。
「でも、作り物でも悪くなかった。甘い偽物を生み出す術を、あの日から私は知ることができたから」
だから今日まで生きてこれたんだよ? そう言って杉原は今度は丸山の顔を見て微笑む。そこには偽りのない感謝が込められていると、誰が見てもわかるような微笑み。
「……あんなんでも、少しでも助けになったんならよかったよ」
手で顔を伏せたままで丸山が言う。観念したかのように顔を覗かせ、杉原の目を見ながら丸山は続けた。
「あんな時に嘘ついていいのか、悩んだ覚えがある。切羽詰ってる時に嘘をつけるほど器用な人間じゃないって自分では思ってたけど、俺って結構狡いんだな」
顔を覆っていた手のひらを滑らせて、前髪をかきあげながら丸山は肩を落とす。彼は自分で忘れていた自分の一面に驚きとともに失望していた。
「狡いっていうのかな」
そんな丸山に杉原はフォローを入れるというよりも、自身の感想を伝えると言った具合で話を続ける。
「でもそれで私は助かったよ。誰も来ないと思ってたら丸山君が来てくれて、甘い偽物をくれた。その甘さを糧にして、私卒業してから、家からも出れたし」
「すごいな」
杉原の言葉に驚いた丸山の感嘆に、杉原は首を振って否定する。
「すごいのは私じゃない。どうしようもなくなってた私に、高校生にして生きる術を教えてくれたあなただよ」
「でも実際に行動したのは杉原だ」
「そうかもしれないけど、元々の私じゃ出来なかったよ」
杉原は丸山のおかげだと言い、丸山は杉原の力だと言う。そんな優しい水掛け論が少しの間続く。
「杉原は俺を買いかぶりすぎだよ。ただ、その時が楽しくないなんてもったいない、生きていることを実感できる間に、損したくないってだけだよ、俺なんて。でも、そんな俺のアホな生き方に巻き込んじゃったけど、結果として杉原が良かったと思えてるなら、それでいいや」
氷が溶けて上の方がほとんど水になったコーヒーを飲みながら、丸山はそう言った。
「……丸山君は、どうだった?」
そんな丸山を黙って見つめていた杉原がふいに口を開いた。
「どうだった、って?」
丸山はその質問の意味がわからずにそのまま聞き返した。
「最初に言ってた悩み事。何か解決のヒントになりそうなものはあった?」
そう聞かれて、丸山は自分が今日ここに杉原を呼び出した目的がなんだったかを思い出した。
途中から恥ずかしさで頭がいっぱいになって、それをすっかり忘れていたが、今の丸山にはもうその答えは見つかっていた。
「ああ、それか。うん、大丈夫。いいこと思い出せたよ」
「いいことって?」
「俺がどうやって生きてきたのか、思い出せたよ」
丸山の言葉に杉原は首を傾げる。
「俺は……要は愛されたがりだったんだなって、ついこの前気付いたんだ。優しい、優しいって周りは言ってくれるけど、その優しさは相手のためじゃない。自分に優しくしてほしいからだ。そう思ったら、それまで『今が良ければいい』なんて言って生きてきたくせに、自分は狡猾に先を見据えて優しさを配って歩いてたんだなって思っちゃって」
ちゃっかりしてるよな、と笑いながら丸山は続ける。
「でも俺は自分が優しいだなんて自覚もなかったから、愛されたい、そのために優しい自分でありたいってのを無自覚でやって生きてたのかと思うと気持ち悪くなってさ。俺の知らない俺がいるみたいで怖くなって。ずっとどうやって生きてきてたかわからなくなった。全部嘘だった気がしてきたんだ。杉原に10年前に聞かれた『なんで生きてるの?』って質問に、なんて答えたかも思い出せなくて。それがわかれば、何かわかると思って、それで今日は杉原に会いたかった」
丸山の言葉に杉原はふんふんと頷く。
「それで、何がわかったの?」
笑わずに、真剣な顔で杉原が尋ねた。肩をすくめながら丸山は答える。
「わかったことは、なんにも。でも思い出せたのが『スウィート・イミテーション』のこと。自分で適当に作り上げた概念だったけど、18の俺が間違いなく大事にしてたこと」
そこで丸山は言葉を切って俯いた。杉原は両指を柔らかく組んで、テーブルの上に置きながら続きを待つ。
「嘘でいいじゃん! ってな」
下を向いていた顔を上げて、しっかりと杉原を見つめながら言い切る。
「嘘で何が悪いんだ、って。何が嘘でも、嘘じゃなくても、狡猾だとしても、俺は俺だ……って、18の俺ならきっと言うと思うんだよね」
我ながらガキだなぁと思うけどさ、と苦笑しながら丸山は続ける。
「だからね、今日は杉原と会えてよかったよ。忘れてたこと思い出せた。28にもなって思春期みたいな悩み持ってバカみたいだけど、俺はバカだから仕方ない。それでも生きていくよ。甘い偽物を辿りながらね」
甘い偽物を辿って、と言った時の彼のなんとも言えない表情に杉原は引っかかるものを覚えたが、本人がいいと言っているものを、こちらの勝手な解釈で掘り下げるのは意図的に相手を傷つけようとしているみたいに思われてやめた。
にしてもスウィート・イミテーションはダサかったなぁ。なんて呟きながら丸山はガシガシと頭をかいている。
「イミテーションなんて言葉知ってたんだから、充分すごいよ」
それを見た杉原は安心したように笑って言った。
「えっ、いや、それくらい知ってるの普通じゃない?」
「だって丸山君、おバカだったじゃん」
「ちょっと酷くない?」
苦笑いする丸山に、杉原はフフンと笑って見せる。
「それでいいと思うよ」
「バカでいいってこと?」
「違う。甘い偽物を辿りながら生きていくってところ!」
もう、と呆れながら杉原に訂正を入れられてしまう。
「……丸山君は、きっとそれを今まであんまり必要としてなかったんだね。でも、最近になって、自分に偽物のご褒美をあげないとやってられないようになっちゃったんだよ。それはきっと生きてる人間がみんな、いつかぶつかる壁なんだろうね」
ほんの少しだけの虚しさを匂わせながら、それでもそのまま消えてしまうようなことは決してないと思わせる力強さを込めて杉原が呟く。
高校時代に図書室で喚いた彼女も成長していたのだという当然のことに丸山は気がつく。
「俺も大人になったってことかな」
杉原だけではなく、自分も。
丸山の問いに、丸山のおでこを指で軽く突きながら杉原が答える。
「10年くらい遅れてるね、精神年齢の成長」
「うーん、でもまあそれが俺だから」
悪びれもせずに丸山が答えると、満足そうに杉原は頷いた。
「うん、よろしい。じゃあ、これからどうする?」
「これから? そりゃ普通に仕事は続けるし、石倉の結婚式も出てやらないとだしな。あっ、そうだ。あいつに写真見せたら杉原だって気付いてさ。同級生だし、俺の彼女なら友人の1人ってことで出席してくれないかって言われてたんだけど……どう?」
その質問に杉原はわかってないなといった具合で首を振りながら答えた。
「これからって、そういう意味じゃないよ。いまカフェを出てから何するかって話。今日は代行彼女でもなんでもなく、ただの杉原佳穂なんだからね、私。そんなの貴重だよ?」
「あ、そういう意味ね……うーん、杉原は何したい?」
少し考えてみても何も思い浮かばなかった丸山は、杉原に逆に質問してみた。
「わあ、嬉しいなあ。普段はお客さんが何したいかに合わせるばっかりだから、こんなデートみたいなこと久しぶりだよ」
それは意外にも彼女にとって嬉しいことだったようで、喜びながら彼女は話し始めた。
デートみたいなこと、ね。その部分に喜ぶのか、と丸山は思う。
彼女がどうしてこの仕事に就いたのかを丸山は知らない。普段何をしているのかも。高校時代の名残で、なんだか知ったような気がしていたけれど、杉原のことをほとんど何も知らないのに今更気づいた。
今日は杉原を知るために1日を使おう。自分のために黒歴史も含まれる思い出話を披露してくれたことへのせめてもの礼に。
丸山のそんな決意に気づくこともなく、杉原はスマホを弄りながら「ここも行ってみたくってねー」なんて言って、真新しい商業施設の写真を見せてくる。
いいね、行こうよ。丸山はそう答えてからカフェの伝票を手にした。
代行彼女のデートの時は「全て費用は客持ち」という契約があった。今の2人にはそんなものはないのだが、当然ここも丸山の奢りにするつもりだ。デートというのはそういうものだと格好つけたがりの丸山は信じていた。
しかし彼の頭の中からは、今日のデートのキャンセル料として差額分を杉原に奢る話になっていた事実がすっぽ抜けていた。
「ごめんね、ご馳走になっちゃって」
会計の時にそう言った杉原の言葉には感謝が含まれてはいたが、丸山はそれ以上に良いところを見せることができた気になっていて気分が良かった。
この男の残念なところが人知れず発揮された瞬間である。
この些細な齟齬に両者が気付くことはない。
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