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 並んで歩きながら横顔をチラリと覗き見る。まあまあ男前と言っても差し支えのなさそうな顔立ちが、最近の仕事の愚痴を面白おかしく話している。  この人は誰かを疑うということを知らないんじゃないだろうか、そんな願望じみた期待さえ抱いてしまいそうになるくらい、歳の割に少年のような眼をした高校時代の同級生。  杉原佳穂は自分で自分を嫌いになりそうな予感がしたので、思考をすぐに止めて切り替えて彼の話に耳を傾けた。 「斜め向かいの席の先輩が噂好きというか、なんというか。だからこんなところ見られたら、俺が女の子と並んで歩いてたって、週明けには会社中に広まってるだろうな」 「でもすごいね、その人。ファミレスで他の席の人の会話まで聞いてたんでしょ? すごい能力だよ、それ」 「そう。まあそのおかげで彼女代行業なんてものの存在を知ったから、その偶然には感謝なんだけどさ」  感謝した偶然ということが何のことなのか、詳しく彼の心を知りたいという思いが浮上してくる。 「それは結果として私と会えたから、って受け取っていいの?」  それを隠すように少し揶揄いを混ぜて問いかけてみれば 「うん。そりゃあな」 間髪を入れずに返ってくる言葉にドキリとする。 「だって杉原じゃなかったら、最初に写真撮ってそれで終わりの予定だったし」  ああ、なんだそういうことか。と納得すると同時に、少しだけ何かを期待していた自分に呆れかえる。  彼にはそういう感情を向けたってダメだ。そもそも私をそういうことの対象としてたぶん見ていない。どこまで行っても彼の中では、高校の同級生である杉原佳穂しかいないのだろう。    高校時代の図書室での出来事も、自分なりに彼に意識のベクトルを向けたつもりだった。抱きついて囁きかけるなんて、今振り返れば稚拙なやり方だったけど、自分に正直になった結果の行動だった。  しかし彼はそれを受け止めることはせず、けれど思春期に悩んでヒステリックになったクラスメイトである杉原にはしっかりと手を差し伸べた。  たぶん私はずっと待っていたんだ。自分を丸ごと受け止めて抱きしめてくれる誰かを。だからなのか「頼りなさそうだけど実は頼れる丸山君」と噂だった彼にずっと興味はあった。  けれどそれが恋愛と呼べるものなのか、そこはわからないまま杉原はあの歳から大人になってしまった。図書室での出来事から、彼のことを強く意識するようになったのも間違いない。  彼女代行業者として先週初めて丸山に出会った時は、驚くと同時に、いい機会だと思った。  仕事が終わってから、仕事抜きに彼と話せば、自分のわからない感情の正体がわかるかも知れないと思ったから。  けれどその計画は丸山の方から先に切り出した「友達としてまた会えないか」という提案を聞いて頓挫してしまった。  だって杉原の胸は高鳴ってしまったから。あとで食べようと楽しみにしていたとっておきのデザートに更におまけが付けられたみたいな。  このまま彼のペースに乗れば、自分はきっと履き違えたままで進んでしまうと確信した杉原は、極めて事務的に、けれど友情を壊すような無粋な真似はせずに、名刺だけを渡して彼から去ることに決めた。  それで終わるつもりだった。少しスッキリしないけれど、その思いも彼が教えてくれた甘い偽物の1つとして数えて生きていこうと思った。  なのにその翌日には彼から次回の予約が入った。プロとして必要とされることは、それはそれで嬉しかったが、胸中は複雑であった。  悩み事の相談なんていう、よくある利用理由の1つで、それが彼の本当の理由かどうかはわからなかった。同級生の石倉君と飲むのだと言っていたから、何か嫌なことでもあったのかと邪推した。  1週間後の日曜日に待ち合わせたカフェに現れた彼を見て、長らく代行彼女をやっていて身についた勘でわかった。  悩みというのは石倉君のことはたぶん関係ない。  何か決意したかのような雰囲気で、そのくせ最初は全然本題と異なる出だしで始めようとする。  そして私のことを窺っている。先週の彼にはそんなことはなかった。だから気づいた。  ああ、私に何か聞きたいんだ、と。そしてきっとそれは先週の話じゃなくて、たぶん10年前のことだろう、と。  私の予想は当たった。だから彼の欲しいと思っているだろう思い出の話を聞かせてあげた。  その思い出の、どの部分が必要なのかまではわからないけれど、彼は過去に何かを探している。  それなら、嘘や偽りのない過去の事実を教えてあげなければいけないと思った。彼が私だったら、そういう誠実さを持って人と向き合うだろうから。  私のヒステリックな黒歴史も話すことになるから、気乗りしない箇所もなかったでもないけれど、すべて話してよかったと思う。  彼は探していた答えを見つけられたようだった。  それを聞いても私なら納得できるか微妙なものであったけれど、見つけた彼なりの答えを掲げて「18の俺ならきっと言うと思うんだよね」とちょっと誇らしげに笑う彼の姿を見て、やっぱり相変わらずおバカだな、と思うと同時に、彼が彼のままでいたことに喜びを感じた。  ちょっとおバカで、変なところで紳士で、そんな自分の優しさを自分で信じられなくなっていた彼が、もう一度彼に戻れそうなら、よかったと思った。  私は彼へと向かう私の意識に名前をつけることをやめることにした。というより、彼が昔くれた「甘い偽物」という名前をつけて、私の糧にしてしまおうと決めた。  それでもやはり、仕事ではない普通のデートみたいなことを彼にエスコートされながら興じていると、勘違いしそうになる。  もう2年以上、私は仕事以外で男性と2人で道を歩いたこともない。  甘い偽物が、本当に偽物なのかどうか。もしかしたら本物なのかもしれない。それが知りたい。  砕けてもいいから、ぶつかってみようか。失うものがない状態で、人に寄りかかるのは狡いだろうか。  でもどうせ私に大人の恋愛の駆け引きの手練手管などない。彼の言葉を借りたら、狡くてもいいじゃないか、それが杉原佳穂という女なのだ。  あの時と、10年前の図書室とさほど変わらなくてもいいから、仕掛けてみようか。彼が私をどう思ってくれるのか。私が彼をどう思っているのか、確かめるために。  杉原のそんな心中を知る術もないので、丸山は呑気に「楽しいな」なんて思いながら彼女とのデートを楽しんでいた。気づけば時刻は午後6時になっていた。 「腹減ってこない?」 「そうだね、でも丸山君明日から仕事なんじゃないの?」  気遣う杉原になんてことはないと丸山は答える。 「終電までに帰れば平気だよ。繁忙期でもないからさ」 「そっか。じゃあ晩ご飯食べよっか」 「俺、焼肉行きたいな。匂いとか服につくの気にする?」  こんなことをちゃんと気にするあたり、丸山はやっぱり変なところで紳士だ、と杉原は内心で笑ってしまった。 「別にいいよ。私、明日は休みだし」  明日は休み。少しだけ含みのある言い方をしたつもりの杉原に、丸山は気付いた様子もない。スマホで焼肉屋を調べながら、ここ良さそうだね、なんて言いながら杉原に見せている。 「おいしそうだね。飲み放題もついてるのいいな」 「杉原は結構飲むの?」  丸山の問いに杉原は笑って答える。 「そんなに飲まないよ。楽しいなってところでちゃんと止めるよ」 「そっか、じゃあ俺もちょっと飲もうかな。あんまり飲むと黙り込んじゃうから、その手前くらいまで」 「静かになったら教えてあげるよ」  だから安心して飲んでいいよ、と杉原は言った。丸山はそれを聞いて、明日は仕事だが少し羽目を外してもいいかと喜んだ。  飲むと陥る思考の沼が苦手なだけで、酒が嫌いなわけじゃない。  肉も食えるし、デートは続く。今日はラッキーデイかもしれないな、そんなことを考えながら丸山は杉原を連れ立って焼肉屋への道を歩き始めた。  店を出た丸山はご機嫌だった。いつもの嫌な思考の沼に陥る数歩手前の、1番楽しいと感じる酔いを謳歌していた。  丸山に付き合って同じくらい飲んでいた杉原も少し上気した頬をしていたが、案外アルコールに強いのかもしれない。ニコニコ笑って、しっかりと立っている。 「杉原、お前結構飲むのな」 「そんなことないと思うけど」  杉原はそう言って謙遜するけれど、石倉などの男友達と飲む時と同じペースで飲んだ丸山とほぼ同じくらい飲んだはずだ。  石倉は飲めば飲むほどに陽気になるけれど、底は決してない。ザルだ。それにはさすがに敵わないが、丸山だって酒には決して弱くない。  その丸山よりもシャンとしているのだから、もしかしたら彼女もザルに近いのかもしれない。 「この後どうしよっか」 「丸山君、明日仕事なんでしょ? 帰んなくていいの?」  スマホを取り出して時刻を確認した杉原が丸山を気遣う。今の時間は午後8時半。大人の遊びにはまだ早い時間だが、すでにこれだけ出来上がっていて、明日からまた5日間仕事がある丸山を引き留めるのもしのびない時間だ。  これは最初に考えてたことは無理かもしれないな、と杉原は思い直した。  少しだけ距離を詰めてみようと思った。それで彼の心を揺さぶってみたかった。けれどヘラヘラ笑って、真っ直ぐ立ってるのも正直怪しい丸山の姿を見ていると、そんなことを今日したところで、全部酔いのせいになってしまうような気がした。  もし何か変わることがあるとしても、お酒のせいにされたらちょっと寂しいな。わがままだけど、そんなことを彼女は思う。 「まだ8時だろ? 全然大丈夫だよ、ちょっと歩いて酔い覚ましたら、静かなバーとか行かない?俺、デートでそういうところ行くの夢だったんだ」  丸山の答えに杉原はため息をつく。そんなことを言われたら、期待しそうになるではないか。 「丸山君、今までデートしたことないの?」  自身が酔っているという感覚は杉原には全くなかったし、実際彼女は飲んだ割には意識も理性も普段とさほど変わらない状態であったが、お酒の勢いということにして少し踏み込んだ質問をしてみた。  自分は彼の過去をほとんど知らない。この10年間の出来事は、ほとんど何も。それが気にならないと言えば嘘になっていたから。 「俺はね、付き合っても長続きしないんだよね。石倉にも言われたんだけど、相手を自分に依存させちゃうんだってさ。だからデートも最後には家デートしかしなくなんの。相手が嫌がるんだよ、ずっとくっついていたがるの。外ではできないだろ? そんなこと」  外でできないほどくっついていたがるなんて、バカップルじゃないのか。懐かしい言葉だ。でもそれを弁えて家でイチャつこうというのなら、バカでもないのか。 「俺はさ、今日みたいにいろんなところ行ったりしたいわけよ。でも2人きりがいいっていうんだよな。そう言われたら、嫌とは言えないじゃん? だから今日みたいなデートは俺もなんか新鮮」  まるで彼女代行業者をしている自分みたいなことを言う。優しいというよりか、相手の要望に従っているだけとも取れる彼の言葉。  自分は全て引いてでも、相手のために存在しようとするのか。丸山の「変なところで紳士」に見える行動の根本が垣間見えた気がした。  紳士であれば、するのはエスコートだ。でも丸山がしているのは、どちらかというと介護に近い。自力で立てなくなるくらいまで相手を甘やかして、そして動けなくなった相手に、自分が施す精神的な介護。  彼の優しさが怖いと表現できるのもわかる気がした。 「俺ももうちょっと楽しみたいなー。杉原は明日休みなんだろ? もうちょい付き合ってよ」  そんな男が、今グズグズに溶けたみたいになって自分に寄りかかっているのは、少し杉原に優越を覚えさせた。主にそれは丸山の今までの女たちへと向けた、ちっぽけな優越。 「いいよ」  杉原が告げた言葉に、丸山がよっしゃー、とガッツポーズを取って叫んでいる。  少し一緒にいるのが恥ずかしくなる気がしたが、道ゆく人は、この時間の繁華街にはよくあることだと気にもしていない。 「その代わりお願いがあるの」 「ん、なに」  なんでも言ってみ? なんて言いながら丸山が杉原の肩をポンポンと叩く。百万円が欲しい、といってもポケットから取り出してくれそうな勢いだ。でも杉原のお願いはそんなことではない。 「キスしてくれたら、いいよ。まだまだ付き合ってあげる」  そう言った瞬間、丸山の動きが止まった。  ああ、自分は狡いな、丸山よりもずっと。杉原はそう思いながらも、今の自分の言葉を取り消すような真似はしなかった。  狡くて上等だ。酒のせいにされたって構わない。  それでも私は知りたいんだ。10年前からあなたへと向いている、この名前のつかない感情の正体に。  これも甘い偽物のうちの1つに過ぎないのか、それとも初めて出会う本物なのか。  私は知りたいんだ。  そんな強い気持ちを込めて丸山を見つめた。彼は相変わらず動かない。  それでもめげずに彼の眼を覗き続けた。すると彼は口を開く。 「酔ってるのか?」 「あんまり」  こちらの冷静さを伺う彼の質問。杉原は正直に即答する。 「そっか、あんまりか」  そう言って彼は杉原の肩に両手を乗せて、そのまま流れるような所作で唇に唇を軽く合わせた。  肩に手を乗せられたのは高校生の時と同じだな。でもこんなライトにでもキスされたのは、あの日と違うか。杉原はどこか冷静にそんなことを考えていた。 「嫌じゃなかった?」 「全然」  かすめるようなキスをしてから、丸山は杉原にそんなことを聞く。そもそもキスしてくれと言ったのは杉原の方だというのに。妙な紳士がいるものだ、本当に。  杉原の答えを聞くと満足したのか、そうか、と呟いて丸山は再び顔を近づけてきた。  もう1回するんだ。杉原は少し驚きつつ眼を閉じて受け入れる。  2回目は、先ほどよりだいぶ深いものであった。仕方なしに顔を傾けて鼻で息をしないといけなくなるくらい。  紳士の皮は捨てたのかな? そういえば私、焼肉食べたんだっけ。でも丸山君も同じもの食べてるから大丈夫か。  杉原は頭でそんなことを考えながら、心で確かに喜びを感じている自分に気がついた。探してたものがやっと見つかった喜び。それが本物かどうか見定めるのは次のステップの話。  これから丸山君どうするつもりだろう。さっき言ってた行ってみたいバーに行くのかな。それとも違うことするのか。  一応キスされているというのに、こんな思考の自分が計算高い女みたいで嫌になるが、それが自分だと開き直る。  そのあたりまで考えたところで丸山はようやく顔を離した。途端に周囲の雑音が杉原の耳に飛び込んでくる。ここが道のど真ん中だということをすっかり忘れていた。  後味が甘いな。ああ、最後にアイスクリームを食べたからか。偽物か本物か、これでは区別がつかないじゃないか。  杉原はそんなことを再び考えた。
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