15.

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 水の落ちる音で、ぼんやりとしていた意識が浮上する。そこは見知らぬ場所だった。一瞬「あれ?」と思うけれど、慌てるより先に、自分がなぜここにいるのか記憶が蘇ってきた。  杉原に「キスして」なんて言われて、キスをしてしまった。それも2回も。しかも公衆の面前の路上で。  そしてその後は当たり前のようにその続きができる場所を探して2人で入って、色々と楽しんだあとに、酒も入っていたからか一眠りしてしまい、そして目が覚めた。  水が叩きつけるような音はシャワールームだろう。杉原がたぶん使っている。終わった後に放ったらかして眠ってしまうなんて、大変よろしくない男である。  ベッド傍の床に、自分のズボンが落ちているのを見つけた。誰もいないけれど一応シーツで下半身だけは隠しながら、それを漁ってポケットからスマホを出す。  日付はとっくに変わって月曜日になっていた。終電がちょうど駅を発車したくらいの時間だろう。「あー」なんてゾンビみたいな唸り声を上げて、ベッドにボスンッと倒れ込む。  それと同時にガチャリと立て付けの悪そうな音がして、ドアが開いてタオル地の安っぽいバスローブを着た杉原が戻ってきた。 「あっ、起きたんだね」  カフェでお手洗いから帰ってきたような気軽さで杉原が丸山に声をかける。それがおかしくて丸山は噴き出してしまう。 「なに笑ってるの」  杉原が丸山に抗議の声を上げてのしかかってくる。そしてそのまま2人でベッドの上で重なって、クスクスと両者が笑う。 「いや、トイレから帰ってきたみたいな気軽さだったから、なんか面白くて」  丸山は正直に笑った理由を言った。杉原もそれを聞いて噴き出しそうになった。 「まあ、トイレから帰ってきたようなもんだったからね」 「ごめん、俺。すぐ寝たろ?」  杉原の髪に指を手櫛で通しながら丸山が謝る。 「お酒入ってたし仕方ないよ。しょうがない人だなぁ、とは思ったけど」 「杉原もお酒入ってたはずだけど、しっかりしてるな」 「私は自分の限界を知ってるもん」 「俺も節度持って飲んだはずなんだけどな」  そう言って丸山は苦笑する。そんな丸山に杉原は思い出したように尋ねる。 「そういえば終電もう終わっちゃったね。明日、っていうか今日仕事でしょ? 大丈夫?」  杉原の問いに丸山は「うーん」と両腕を組んで考える素振りを見せてから、大の字になってベッドに寝転がって答えた。 「いいや。このままここで始発まで寝て、それで帰るよ。間に合うと思う」 「そっか。じゃああと5時間くらいだね」  杉原も一度起き上がって、丸山の隣に横になる。 「早く寝た方がいいよ。少しでも睡眠はちゃんと取らないと」  丸山の頬を指で突きながら杉原が言う。 「うん、でも俺もシャワー浴びなきゃな」  このまま会社行くわけにも行かないし、なんて言って起き上がる丸山に、杉原はタオルの場所を教えてやる。 「目敏い先輩社員に何言われるかわかんないもんね」 「うん、何言われるかわかんない。俺デリケートだから、そんなことがあったら出社拒否しちゃうよ」  そう言って笑いながらシャワーに向かう丸山を見送る。立て付けの悪そうな音が響いて、杉原はダブルのベッドに1人きりになった。  サイドテーブルに乗った水のペットボトルを開けて、喉を潤す。  そして杉原は立ち上がると、床に散らばったままの丸山の衣服を拾い集めて、部屋の隅の小さいソファに軽く畳んで置いた。  ヨレヨレのトランクスを拾い上げた時は笑ってしまった。コンビニで売っていそうな、何模様と言えばいいのかわからない紺色に灰色や緋色のの細いチェックがいくつも走った量産型の模様。  丸山君、下着とかに無頓着そうだもんな。履ければいいって思ってそう。そう思いながら、そのトランクスも畳んだ衣服の1番上に乗せる。  自分の荷物はシャワーに行く前にまとめておいた。狭いホテルの一室で、やれることはもうなくなってしまった。  杉原は丸山が使うシャワーの音を聞きながら、広いベッドに1人で横になった。雨の音にも似ている音を聞いていると、油断すると寝入ってしまいそうになる。  丸山が戻るまでは起きておこうと思った杉原は、自身が眠ってしまわないようにさっきまでのことを思い返してみた。  それはどういう行為をしたかとかいう話ではなく、彼との関係性を一歩進めてみた結果、自分の中にある彼への名前のつけられない意識の正体を探る、哲学的な旅である。  10年前の自分が彼の腕の中に飛び込んだ時は拒絶されてしまった。10年経ってもう一度飛び込んでみようと「キスして」なんてねだってみたら、彼はそれを受け入れてくれた。  その違いはなんだろうか。自分があの日と違うから? それとも彼があの日と違うから?  同情でそういった行為がなされることがあるのも杉原は知っている。けれど今日の2人を結んだものは、そういうものではないような気がした。  男だったら、据え膳を用意されたら遠慮なく喰らうのだろうか。そんなことも考えたけれど、頭の中の自分が否定をする。願望に近いかもしれないが、丸山がそういった類の男であるとは杉原には思えなかった。  もしもそこまで彼が身軽であったなら、最初から代行彼女なんて頼んだりせずに、軽くデートする女性くらい自力で手配できただろう。  彼は不器用なままだ。そして優しい。高校生だったあの時と変わったところは杉原には見つからなかった。  ならば変わったのは自分の方であろうか。  自分がこの10年で変わったことは思い当たる節がありすぎて、杉原は思わず1人で苦笑する。そして慌ててシャワールームの方を見ると、まだ水の音が響いていて、丸山が戻ってくる気配もなかったので安堵する。  丸山がくれた優しい嘘で、いくつも甘い偽物を作り出してきた。そしてそれを糧にして今日まで来た。  あの息が詰まりそうだった家を出たことも、そのあと進学したことも、1人暮らしをしたことも、辛いことはそれ相応にあったけれど、それ以上に自分を生きている感覚が彼女を強くさせた。  修羅場と言えるほどのものをくぐってきてはいないけれど、そこそこ魅力のある女になったのだろうか。  そんな私に魅了されて丸山は今日、自分の求めに応じてくれたのか。  そんなことまで考えて、ないないと自分で否定をする。そこまで自分が魅力的な人間であったなら、代行彼女なんていう主観的な需要により左右される不安定な仕事より、もっと安定した職を探して落ち着いただろう。  なんで丸山は自分に応じてくれたのだろうか。  本人に聞いてみるか? そんなことまで思い至る。  杉原がベッドに寝転んで、丸山に「なんで私を抱いてくれたの? 10年前は逃げたのに」とド直球で聞いてみようかと真剣に思案している間に、シャワーの水音が止んで丸山が戻ってきた。 「ここのドア外れそうだな。壊して弁償とか嫌だから気をつけようぜ」  ガゴンガゴンと古くなった洗濯機が暴れるような音を立てて浴室のドアが開く。 「なんで私を抱いてくれたの? 10年前は逃げたのに」  考え事の最中に丸山が登場したものだから、思わずそのまま口にしてしまった。  股間だけをタオルで隠して、ポタポタと頭から水を垂らした丸山が呆気にとられた顔をして杉原を見つめた。  ああ、しくじったかもしれない、っていうか間違いなくやらかしてしまった。杉原は胸中で頭を抱えた。酔いはとっくに覚めたつもりだったが、まだ残っていたのだろうか。そうとでも思わなければやっていられないレベルの間違いだ。 「なに言ってんの」  「風呂あがり」というタイトルがつけられた彫刻のようになった丸山が、口だけ動かして問いかけた。 「ごめん、忘れて」  杉原はなかったことにしようとした。だが丸山は当然納得しない。 「いや、忘れられんわ」 「とりあえず服着なよ。拾ってそこに置いておいたから」  杉原の言葉に自分が全裸だったことを思い出した丸山がいそいそとソファに向かって歩いていく。  みっともなくて情けないその姿がかわいいと思えてしまう杉原は、自分が何かしらの情を丸山に抱いていることがわかった。 「で、どういうこと。今の話は」  ヨレヨレのトランクスだけを履いてから、こちらへと向き直り丸山は聞き返してきた。着替えてる最中の人をジロジロ見るのも失礼な気がして、杉原はそちらには目を向けないようにしながら返事をする。 「いや、ごめん。口が滑っただけ。本当に忘れて」 「いや、無理だよ。そんな不安にさせるようなこと何かしちゃってたか、俺?」  やっぱり丸山は丸山だった。自分が何かしでかしたのではないか、そのせいで杉原が傷ついているのではないか。気にかけているのはいつもそんなことばかり。 「本当になんでもないよ。私がちょっとナーバスになってただけ」 「理由もなく、そんな風になるのかよ」 「なるよ。女の子はミステリアスなんだから」  そういっておどけてみせても、いつの間にかズボンも身につけた丸山はこちらをしっかりと見据えてたたずんでいた。 「……そうしたいと思ったからだよ」  ポツリとこぼすように漏らされた丸山の言葉に杉原が顔を向ける。 「杉原が、かわいいと思ったからだ。デートも楽しかった。キスしてって言われた時、好かれてるのかと思った」  丸山はそこまで言うと、手に持っていたシャツを体に通した。杉原はそれを黙って見ている。 「でもさ。わかったんだ。杉原、俺のこと思ってくれてはいたのかもしれないけど、好きなわけじゃないだろうって」  服を着終えた丸山が杉原を見つめながらゆっくりとそういった。その目は責めるような色を含んではおらず、むしろ優しいくらいである。 「お前、たぶん10年前から動けなかったんじゃないか?」  言い当てられてしまった。おバカなくせに、こんな時には鋭いんだね、と杉原は丸山に嫌味の1つでも言いたくなった。 「高校の時の俺は、どうしたらいいかわからなかった。自分がどうしたいかもわからなかった……いや、正直に言えば、ヤりたいな、とかは思ってたよ? でもそれをあの状態の杉原にぶつけるのは絶対ダメだってことはわかってた」  この男はそうなのだ。変なところで紳士。無自覚な優しさで相手をダメにする。  ああ、自分は10年前にとっくに彼の毒牙にかかって、その優しさで骨抜きにされていたのかもしれない。杉原はそんなことを思う。  丸山が杉原にくれたのは、甘い偽物だけではなかったのだ。彼は彼も気づかぬうちにしっかりと私を甘やかして優しさでダメにしていた。  そこまで気づいた杉原は、自分の中で渦巻いていた診断をくだせない丸山へと向かう感情が、少しずつ薄れていくのを感じた。  正体がわかったら、なんてことはないお化け屋敷の仕掛けのように。 「10年間、丸山君のことを思ってたよ。もちろん他の人と恋もしたし、色々あった。でも心の奥底では、ずっとあなたがいた気がしてる」  杉原は大したことじゃないかのように、自身の心中を吐露した。 「それを丸山君のせいにするつもりもないよ。私が選んでいたことだもん。でも、その思いっていうのが、恋とか愛とか、そういうのとは違ったのかもな、って今わかった気がする」  杉原の告白を丸山はただしっかりと受け止めようとしていた。いま、自分にできることは、それくらいしかないと彼にはわかっていた。 「丸山君との繋がりがね。甘い偽物なんかじゃなくて、本物なんじゃないかって、ちょっとだけ期待してた。でも違ったね。これもスウィート・イミテーション、甘い偽物だったんだ」  スウィート・イミテーションの部分にアクセントをつけた言い方に、丸山はほんの少し杉原の悪意を感じた。悪意というにはささやか過ぎる、せめてもの抵抗とでも呼ぶべきとっかかり。 「その名前は恥ずかしいからやめてくれよ」  罠とわかって丸山はそのとっかかりに引っかかりに行った。杉原は笑って何も言わない。丸山がわざとその罠に嵌りに来てくれることがわかっていたかのように。 「やめてあげない。私は横文字の方が気に入ってるもん」  そう言って杉原はベッドから起き上がるとバスローブを脱ぎ捨てた。突然全裸になった杉原に丸山は驚いて声をあげる。 「なに考えてるんだよ!」 「着替えるだけだよ。そっちこそ、なに焦ってるの?」  笑いながら裸のままで杉原はまとめて置いた自分の荷物のもとへ向かい、衣服を身につけ始めた。そししてそのまま上着まで身につけてしまった彼女に、丸山は尋ねる。 「始発まで寝るんじゃなかったの?」 「それは丸山君がでしょ。私はタクシーで帰るよ」 「えっ、そんなの悪いって」  驚いて引き留めようとする丸山に杉原は腰に手を当てて少し気取って言い放つ。 「女は切り替えが早いの。冷めた相手といつまでも仲良く寝てるほど暇でもないんだよ、私?」  呆気にとられた様子の丸山を置いて杉原は部屋を出ようとする。 「危ないって。タクシー捕まる所まで送るよ」 「アプリでもうこの近くまで呼んじゃったもん」 「嘘だろ、いつの間に」  嘘だ。タクシーなど待たせていない。それでも杉原はここから去りたかった。ちょっと格好つけてドラマチックに別れて、自分が悩み続けた10年分、彼の思い出に陣取ってやるのも悪くない。 「あっ、結婚式!」  しかしその杉原の企みは、丸山の間抜けな叫びで中断させられた。 「結婚式?」  そういえば何かそんな話があったような気がすると思い出して、思わず杉原も足を止めて振り返る。 「石倉の結婚式。ほら、杉原も呼んでいいかってやつ……」  大変言いにくそうに丸山が答えた。そうだ、そんな話を聞いたけど、その時は後で話せばいいと思って、流してしまっていたのだ。 「……」 「……」  無言のまま見つめ合う2人。気まずさというよりも、どうすればいいのかわからない途方に暮れた雰囲気がホテルの室内には満ちている。 「……名刺」 「えっ?」  杉原の思いつきに丸山はついていけず反応が鈍くなる。 「名刺あげたでしょ! あれに電話して予約して! 出てあげるから」 「あっ、マジで? ありがとう。あいつ友達少ないから喜ぶよ」  こんな状態でも心配するのは親友のことなんだ、と、もはや慣れてきた丸山の独特の情のかけ方に杉原は恐れいる。 「無自覚な怖いくらいの優しさだね、相変わらず。変な紳士」 「? どういうこと」  この男はやっぱり鈍い。 「ずっと考えて眠れなくなっちゃえ! じゃあね、丸山君。今日、というか昨日は私も楽しかったよ。嘘じゃなくね」  そう言って杉原は部屋のドアを開けて去っていった。部屋には丸山だけが残る。 「なんか嵐みたいだったな。これでよかったのか?」  丸山の呟きは丸山しか聞いていない。  自分の無自覚な怖いくらいの優しさとやらで。また誰かを傷つけたのか。それとも、10年前に傷つけたことが今になって明るみになっただけか。丸山にはよくわからなかった。  ただ、気取るようなタイプじゃなかった杉原が、あんな風にここから退場しなければいけないくらいに思い詰めさせてしまったことだけはわかった。  でもきっと彼女は大丈夫だ。10年前に俺が口から出まかせで伝えたスウィート・イミテーション、甘い偽物を糧に生きてきたのだと言っていた。彼女は強い。 ——俺も見習わなくっちゃな。  甘い偽物を今度は丸山が杉原から与えられた気分だった。提出期限のない宿題みたいで、非常に居心地がよろしくない。彼女はこれに10年耐えたのかと尊敬する。  そういえば自分はあと数時間で出勤しなければいけないのだということを丸山は思い出した。スマホで始発の時間を調べて、アラームをセットしベッドに横になる。 ——眠れそうには、ないな。  当たり前と言っては当たり前だが、いろいろなことがありすぎた1日だった。頭の中がゴシャゴシャになっているのがわかる。  でも石倉の結婚式には来てくれると言っていた。そう思うと気が楽になる。それが少なくとも、もう一度杉原と会うことができるということを意味しているのが、丸山にとっては心地いい約束であった。
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