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18.エピローグ
「今週末でもどうよ?」
「悪い、その日は結婚記念日だ」
電話越しとはいえ「結婚記念日」なんて単語を、あの石倉が口にしたことに丸山は恐れ入る。
「今週逃したら俺しばらく繁忙期なんだけど」
「じゃあ楽しいお酒は当分お預けだな」
ちくしょう、そりゃあ結婚したとなれば家庭が第一になるだろうし、自分を優先してくれないから拗ねるなんていう思考回路を持っているわけでもないが、なんとなく悔しいような気がしてくる。
「1周年の結婚記念日忘れてましたとか、洒落にならねえだろ」
「……知らない。俺独身だもん」
拗ねるなよ、という石倉の宥めに唸り声で返事をして、じゃあまたお互い空いた時にな、と通話を切る。
「1周年か……」
石倉の1周年の結婚記念日ということは、最後に杉原に会ってから1年が過ぎたことになる。石倉夫妻の結婚式が、彼女と最後に会った日だったのだから。
彼女は元気にやっているだろうか。連絡先くらい交換しておいてもよかった気がするが、あの時はそんな頭が回らなかった。というか、こんなにも容易く人とのつながりは切れるものなのだということを忘れていた。なんだかんだで機会があって、また再会でもするんじゃないかと思っていた。
「そんなわけないか」
職場のビルの共用の自販機コーナーで、通話が切れて真っ暗な画面になったスマホを見つめる。彼女からここに連絡がくることもなければ、この端末から彼女へと電話をかけることもできやしない。
「どうしたの、怖い顔してる」
突然声をかけられて丸山は飛び上がりそうになった。手から滑り落ちたスマホを床に落とすまいと、必死になってキャッチする。声がした方向には斜め向かいの席に座る目敏い先輩女性社員が財布を片手に立っていた。
「お疲れ様です」
「いま面白い動きしてたね」
触れないようにしていることを、この人は無自覚にえぐってくる。仕方ないのだ、こういう人なのだ、と丸山は何度も自分に言い聞かせて社内で暴行事件が起きるのを防ごうとする。
「いやー、ボーッとしてたんでびっくりしちゃって」
はっはっはっ、と笑う丸山の目は全く笑っていない。
けれどそんなことはどこ吹く風といったところで、彼女は自販機でブラックコーヒーを買って、休憩スペースに置かれたソファに腰かけて飲み口を開けた。
「苦ーい」
そして口に含んだと思うやいなや、舌を出して悲痛な叫びをあげる。ブラックを買って苦いも何もないだろうと丸山は思ったが、それは口に出さないでおく。
「やだー、微糖買ったつもりだったのに、間違えちゃった」
彼女は缶に印字されている文字を眺めていまいましげに呟いた。
「見た目似てますもんね」
丸山の適当な相槌に先輩社員は苦々しげな顔のままで頷いた。
「本当だよ。もっと色とか変えてわかりやすくしてほしいよ」
ただでさえ最近は小さい字が読めないんだから、と続ける言葉に、視力がいい丸山は老眼の恐ろしさを思い知る。
「こんなの飲めなーい。でももったいないな……そうだ、給湯室にあるお客さん用の砂糖入れて飲もう」
いいことを思いついたと言わんばかりの様子で、間違えて買ったブラックの缶コーヒーを片手にいそいそとオフィスへ帰っていく先輩を見送り、丸山は自販機に近寄って彼女が買い間違えたブラックコーヒーと微糖コーヒーの缶を見比べていた。
「甘さが違うのに、見た目はこんなに似てるもんなんだな」
スウィート・イミテーション。そんな言葉が脳裏によぎる。
彼女と過ごしたのはたった3回だ。でもその全てを今でもはっきりと覚えている。こんなにも本物のように存在感を放つ偽物があるのだろうかと疑うほど。
「あれは本物だったのかもしれないな」
自販機に軽く背中を預けてため息がてら呟く。何が偽物で、本物かなんてわからない。どちらでもいいから自分が幸せになれる方を選べばいいと思って生きてきた。そして自分にとっての幸せを選択して、杉原に告白して、優しく振られてしまったのが1年前のこと。
けれど今でも疑っている。あれは自分が振られたのだろうか、と。杉原の幸せの選択肢の中に交際や結婚というものがなかったゆえに振られただけなのではないか。だとしたらそれもそれで哀しいものがあるが、こんなのはただの負け惜しみだ。
「本物でも苦かったら意味ねえな」
「丸山君も間違えてブラック買っちゃったの?」
先ほど給湯室に向かったはずの先輩がいつのまにか隣にいた。ちょっと格好つけてたのを目撃されたかと動揺して「うぉおっ!?」と声をあげて、自販機にもたれかかった体勢を立て直したら、手にスマホを持っていたのを忘れていた。驚きで広げられた手のひらから精密機械が滑り落ちていく。
バキッ、嫌な音がした。裏面が上を向いて地面に落ちているスマホを恐る恐る拾い上げる。ひっくり返すと画面に放射状の薄いひびが走っていた。
「ごっ、ごめんね。急に話しかけてびっくりしたよね」
無言でそれを見つめ続ける丸山を見て、先輩が謝罪をする。悪意があってやったこととは思えないから責めることもできない。
「いや……ボーッとしてたの俺なんで、大丈夫です」
とりあえず大丈夫だとは言ったものの、そんなわけない。今日は早めに上がってショップ行って修理出さなきゃ、いくらくらいかかるんだろう、保証パックみたいの入ってた気がするけど、保険は効くだろうかと頭の中で落ち込む。
「あ……それでね。課長が丸山君を呼んでるの。それ伝えに来たんだけど……本当にごめんね」
先輩も落ち込みながら何度もごめんねと繰り返し戻って行った。このままずっと休憩していたい気分だが、呼ばれているならそうもいかない。丸山はヒビの入ったスマホをスラックスのポケットに入れて、重い気持ちを抱え仕事場へと戻って行った。
やや長引いた自主休憩を咎められたというわけではないだろうが、普段より多めに頼まれた雑務をこなすうちに定時を30分ほど過ぎてしまった。19時には閉まってしまう携帯ショップにどうにか今日中にたどり着きたい。その一心で会社から走り続けた丸山は閉店10分前に見事すべりこんだ。「いらっしゃいませ」という店員の声に面倒くささが感じ取られたが許してほしい。
膝に手をついてゼエハアと息を整える丸山に店員が寄って来て声をかける。
「お客様、本日はどうされましたか?」
「スマホのっ……ハァッ、画面ヒビ入っちゃってっ……修理出したくて」
荒い呼吸の音がまぎれて途切れ途切れになっている丸山の言葉に動じることなく「かしこまりました」とクリップボードにスラスラ文字を書き留めていく店員。
「こちらでお待ちください」
カウンターの席を指し示して、応対したスタッフはバックヤードへと戻って行った。どうやら担当者ではないらしい。閉店間際にすべりこんで来た面倒な客の相手を新人などに押し付けなければいいのだが。
椅子に座って乱れた息を整える。呼吸は落ち着いてきたが、心臓がバクバク脈打っているのが聞こえる。来年で30になる体には会社からここまで走り続けることは少し厳しかったようだ。
「お待たせしました、本日担当させていただく杉原と申します。ご来店理由は画面ひび割れの修理依頼でお間違いありませんか?」
下を向いてゆっくりと呼吸を整えていた丸山に、上から丸みのある女性の声が降り注ぐ。
驚いて上を見上げると、弱った体のせいでクラクラして目の前にチカチカと星が散って目を硬く瞑るはめになった。
「お客様、大丈夫ですか?」
先ほど入口で応対したスタッフと違い、この担当者はずいぶん優しい。それはそうだろう。
だってたぶんこの人は。
目の前の星が収まってからゆっくりと目を開ける。テーブルの上には名刺、そこには予想した通りの名前。確信を得るためにそのまま目線を上げる。正面に座ったスタッフとばっちり目が合った。
「私たち、またスタッフとお客様ですね」
営業スマイルなのか、そうじゃないのかわからない100点満点の笑顔を浮かべた杉原佳穂がそこにいた。
電気の消えたケータイショップなんて何度も見たことがあるはずなのに、今日は特別に見えてしまう。
カウンターでヒビの入ったスマホを見た杉原は
「これでいっぱい写真撮ったことあったね」
と懐かしそうにつぶやいた。それを聞いて丸山はまだ自分の恋は終わっていないことに気づいた。
杉原は終わらせたのだとしても、自分はまだ彼女に好意を抱いている。それだけはどうしても伝えたくなった。
杉原の仕事が終わったら話がしたいと持ちかけると、自分は丸山の対応が終わった後も残っている作業があるから少し待ってもらうけどいいかと杉原は聞いた。
チャンスを貰えた。丸山は肯定的にそう考えた。近くのコンビニでコーヒーを買ってきて、道路を挟んだ店の向かいで待った。
1時間弱そうしてるうちに店の電気が消えた。
そして話は元に戻る。信号が青に変わったと同時に道を渡って、ショップへと歩き始める。店の横からバッグを肩にかけた杉原が歩いてきた。裏口から出てきたらしい。丸山に気づいて手を振って合図してくる。
「お疲れさん」
「丸山君も。1時間くらい待たせちゃったね、ごめん」
「謝るなよ。仕事だったんだから」
丸山の言葉に杉原は嬉しそうに答える。
「変な感じ。去年の私は仕事といっても出勤して退勤するような職場じゃなかったから、こんな風に丸山君と話せるようになるなんて」
杉原は肩にかけたバッグの紐を両手で握って、少し照れたように俯いた。
丸山には、そんな些細な仕草もかわいく見えて仕方がなかった。自分でも思ってた以上に彼女への思いは1年かけてつのっていたらしい。
とりあえずどこか落ち着ける場所に行こうかと、この辺りの地図を頭の中で広げてみる。職場の近くなので多少は詳しくはずだ。
「丸山君、私あなたに話したいことがある」
考えを巡らせていた丸山に、杉原の方が先に話始めて主導を握ろうとしたので、まさかここで再び振られるのかと怖気付いてしまう。
「先にどっか入らない? 飯、俺奢るよ」
丸山の言葉に首を左右に振って杉原は拒否をした。「今ここで言いたい」と言って。
これは無理なやつかもしれないな。と丸山は覚悟を決めた。
「1年間丸山君のこと考えてた」
丸山を見つめたままで杉原はそう切り出した。その目は1年前に見たような悲しみも滲んでいなければ、何か強がるような気配もなかった。
「去年、10年ぶりにあなたと会えて、10年前の自分の思いを清算できた。それで終わりだと思ってた。終わりにしていいんだ、終わりにしなくちゃ、って思い込んでた」
でもね、と彼女は続ける。
「そんなのは私が勝手に決めたルールだったの。私は結局、1年前のあの時も、今を生きることなんてできてなくて、10年前の過去を歩いてた。それにやっと気づいたよ」
杉原の目に少しだけ涙が滲んで見える。強がることをやめた人間は、こんなに脆くなってしまうのだろうか。
「もう高校の思い出にとらわれず、対等に初めて丸山君を好きになれる気がするの。偽物の方がいいこともある、本物にしないことでずっと味わえる思い出にできるなんて言って、自分の本音から逃げただけの1年前を後悔してる」
丸山は杉原を抱きしめた。もうそれ以上言わなくてもいいと言わんばかりに。杉原は驚いたようだが、バッグの肩紐を握る力をギュッと強くして踏ん張るようにして続けた。
「丸山君、あなたが好き。1年前に遠回しに言った通り私はバツイチで、成績だけはちょっとよかったかもしれないけど、臆病でバカな選択ばかり繰り返しちゃって、そしてあなたを振り回した自分勝手な人間なの。それでも、今の気持ちは嘘じゃないよ……丸山君、好き」
丸山は返事の代わりに力を込めて彼女を抱きしめた。壊してしまわないように細心の注意をはらいながらも力強く。杉原もそれにこたえて、丸山の背中に手を回して抱きしめてきた。国道沿いの携帯ショップの真前で繰り広げられる微笑ましいラブシーンをひっきりなしに走る車のヘッドライトが照らしては遠ざかっていく。
「たとえひとときの偽物でも俺は受け入れるぜ」
杉原の肩に顎を乗せて耳元で囁いた。
「甘い偽物なら大歓迎だ。今が幸せならそれでいいんだ。杉原もそれで幸せになれるなら、死ぬまでだって享受するよ。その甘さをな」
死ぬまでなんてプロポーズみたい、と鼻声で笑う杉原の声で心に火がついてキスしそうになる。
だがしかしここは公衆の面前で路上だ。1年前の俺より、多少は大人にならないと。と丸山は自制心を総動員する。
だけどこのまま離れてしまうことは惜しくって、1秒たりとも離したくないなんていう映画みたいなことを本気で思ったりして。でもとにかく、どんな形容詞や修飾語がついても腐っても「紳士」と呼ばれた男のプライドは守って丸山はその夜を越えた。
翌日、朝早くに起きてしまったので少し早めに出勤した丸山は、スマホのヒビの間接的な原因となった先輩が自分のデスクを拭き掃除しているのを見つけた。
「おはようございます。なにしてるんですか、そんなことしなくていいのに」
「丸山君、おはよう。うん……でもわざとじゃないとはいえ、昨日丸山君のケータイ壊れちゃったでしょ? それが申し訳なくて、罪滅ぼしにもならないんだけどやってたの」
肩を落としながら彼女はそう言った。しかし結果としてあれがなければ携帯ショップにも行くことはなかったから、つまり昨日の杉原との再会もないわけで。
「いや、本当にいいですって。保険入ってたから金もかからなかったですし」
そう言って丸山は先輩の手から布巾を取り出した。
「それにちょっとおかげで良いことあったんで、むしろ俺が感謝しないといけないかもです」
丸山の言葉にさっきまでのしおらしさを放り投げて彼女は好奇心を丸出しにして丸山に擦り寄ってきた。
「ちょっと、なに、なにがあったの? そういえば私が言うのもなんだけど、あんなことあったわりにやけに血色がいいっていうか、機嫌良さげで安心してたんだけど。どうしたの?」
自分の罪が少しでも軽くなったことと相まって、得意の目敏さを発揮するチャンスとばかりに途端に水を得た魚になった先輩から質問責めにされる。彼女の予想通り、気分のいい丸山は機嫌良さげに答える。
「いや、実は修理に行ったショップで高校の同級生に会ったんですけど……」
詳細は省くが杉原との顛末を聞かせると「ちょっとなにそれドラマみたいじゃなーい!」とテンションが最高潮になった彼女にバシバシと何度も背中を叩かれるが、それも全く気にならない。
これも一種の偽物だよな。丸山は惚気ながらそんなことを思う。杉原との交際は嘘じゃない。昨日の告白だって本当にあったことだ。でもそこに至るまで、いくつもの偽物を通り過ぎてきた。ということは、昨日の本物も、偽物の上に成り立った脆い存在だと言えてしまうし、もしかしたらやがて偽物だと思ってしまうものなのかもしれない。
でもそれでいいのだ。だって丸山は今とても幸せな気持ちだったし、たぶん杉原も同じだから。
偽物かもしれないし、本物かもしれない。そんなものを何度も拾い集めて、時に騙されながらも、人は生きていくのだろう。今が楽しければ、幸せならば、甘い偽物に身を委ねてもいいじゃないか。もしかしたらそれが、いつか本物になることだってあるかもしれないのだから。
(了)
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