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3.
丸山は見慣れない廊下を歩いていた。運動靴がキュッキュッと音を立てて、嗅ぎ慣れない、けれど懐かしい匂いがするなかを、どこかへと進む。
なんの素材でできているのかわからない、薄緑色をした引戸の前に立って気がついた。ここは学校だ。ドアに嵌め込まれた窓から、制服を着た男が机に座っているのが見える。
ガラガラと音を立ててドアを開けると、机に座っていた男子生徒が顔を上げた。
「遅えよ」
「悪い、説教が長引いた」
抗議の声を上げたのは石倉であった。といっても、今のスーツを着た姿ではなく、2人が高校生だった頃に着ていた制服のポロシャツとズボンを身につけて、今より少しだけ幼さがある顔をした石倉であった。もっとも最後に顔を合わせたのは2年近く前のことなので、今の彼がどんな風になっているかは丸山は知らないのだが、大人になってからの2年では、それほど変化するものもないだろう。
抗議の声に釈明したのは丸山自身の声であった。石倉が高校生に戻っているのだから、たぶん自分も高校生になっているのだろう。そう思ったのは、やけに代謝良く滲み出る汗と、張り上げているわけでもないのに、クリアに通る声をしているから。28になった今では感じられない若さが、そこにはあった。
だから、これが夢だと気付いたのは比較的早かった。 自分は今、中小企業に勤めるサラリーマンだし、明日の土曜日には大人になった石倉とのサシ飲みがあって、その時に写真を見せる羽目に陥るかもしれないことを危惧して、いもしない恋人との偽造写真を撮影するために、午前中を使って彼女代行業者から派遣してもらった偽彼女と写真撮影のためだけに特化したスピードデートをこなさなければならないことも、ちゃんと覚えている。
それでも今しばらく、微睡みに任せて、この夢の続きを観たいような気が丸山はしていた。 こんな夢をみるのは、数年ぶりに聞いた石倉の電話越しの声に触発されたのだろうか。まあまあ楽しい高校時代だったとは思っているけれど、夢にまでみたのは、これが初めてだった気がする。
「夏休みどうすんの」
丸山が戻ってくるまで弄っていた携帯電話をポケットにしまいながら石倉が尋ねる。
「なんか進学希望にもかかわらず赤点取った愚か者たちには特別講習あるからほぼ毎日登校しなきゃならなくなった」
石倉の腰掛けた机の隣の椅子に腰を下ろしながら丸山は答えた。
「うわっ、カワイソウ」
「別にいいし。家にいてもすることもないから」
「勉強しろよ」
友人からの辛辣な言葉にふて腐れたように、丸山は机に突っ伏して悲しげな声をあげる。
「いいなぁ、お前は赤点ないから特別講習なんてないんだろ?」
「進学希望だから講習は受けるよ。月水金で登校して国数英。お前が毎日受けなきゃならねぇのは特別講習っていう名前のただの補習だよ、補習」
親しさゆえに遠慮のない、痛い所を突き続ける石倉の言葉に、丸山は顔をあげて抗議する。
「自分が余裕だからって、友達にその態度はないと思いまーす」
それを聞いた石倉は眉間に皺を寄せ、丸山を見下ろすようにして言葉を返す。
「あのな、俺はやらなきゃいけないことはやってんの。お前はやってないから赤点を全教科でとってんの。大体、3年になって1学期の期末で全部30点以下ってなんだよ。それで大学進学希望って、頭おかしいだろ。舐めすぎだ。一体どこの大学行くつもりだよ。Fランからもお断りされるぞ」
容赦のない猛攻に丸山は全精神力を削り取られ、再び机に突っ伏して現実から目を逸らした。
「おい、不貞寝すんなや。帰るぞ。っていうか、マジで進学希望なら、本腰いれないとまずいって。ボーダーフリーでもいいから滑り込めよ。一緒に大学生やろうぜ?」
精魂尽き果てた素振りの丸山に、石倉がフォローを入れるが丸山は動かない。
「なあ、お前どこ志望してんだっけ?」
突っ伏したままで石倉に尋ねる。
「俺はA大だよ。郊外、っていうか地方だけど電車で家からもギリ通えるし、模試でもだいたいB判定出てるから、いけると思いたい」
頭の上から石倉の声が降ってくる。
「A大って難しいの?」
「偏差値52とかだから平均よりちょい上くらいじゃね?」
「俺もそこにしようかな」
「お前この前の模試で偏差値いくつよ」
「覚えてないけど40くらいだった気がする」
「やめとけ。もう半年でセンターだぞ。浪人目指すつもりかよ」
「やってみなきゃわかんねえじゃん」
「お前何もやってねえじゃんかよ!」
「だって勉強嫌いなんだもんよ」
しょうがねーじゃーん。などと言いながらゴロリと頭を動かして、石倉へと顔を向けると、もはや憐みに近い目で丸山を見下ろしていた。
「なあ、丸山。そんな自暴自棄になるなって。お前にも合ってる大学はあるよ。それでいいじゃん。お互い違う学校でも、会えるわけだし」
「自棄にはなってないけどさ。なんか俺、置いて行かれてるみたいで寂しい」
そう言って石倉の膝に甘えるように手を伸ばしたら、バシンとその手を払われてしまった。
「置いて行かれてるのはお前が立ち止まってるからだろ。なんで何もしなかったんだよ」
払われた手を悲しそうに見つめていると、それには構わず呆れた口調で石倉が聞いてきた。
「何もしなかったわけじゃないよ。ただ勉強は俺に合わねえんだよな……苦手なんだよ。だから進学校でもなんでもないこの高校選んで入って来たのにさぁ。そこでも勉強しなきゃいけないってのは、ちょっと詐欺に遭ったような気分」
払われた手を頭の下に持ってきて枕にしながら丸山はのらりと答えた。
「じゃあなんで進学希望にしたんだよ。就職する奴もいっぱいいるじゃん」
「就職組はマナー講習とか商業科目の授業取らなきゃいけないって言うじゃん。そんなの俺わかんないよ。それが嫌だったから進学希望にしたんだよ」
「消去法で逃げてきた先で、さらに逃げ道を探すなよ。お前卒業したらどうするつもりだよ。野垂れ死ぬぞ、マジで」
「野垂れ死ぬのは嫌だな……」
クーラーなんてあるはずのないボロい公立高校の教室は、暑さはますます増してきている。意義のある時間とはいえない問答を繰り返しながら、2人の男子高校生は涼しくなる夕方が来るのを待っていた。
夢はいつしかそこで醒めてしまった。ずっと目は開いていて、高校生の石倉の顔を見ていたはずなのに。意識が浮上していくと同時に、暗い色が目の前に広がる感覚に、ずっと自分の瞼が閉じられていたことを知る。
まだ足だけが眠りの中に突っ込んだままのような気分で、ゆっくりと目を開けると、時計は午前6時ちょっとを示していた。恋人代行業者との待ち合わせは午前10時だ。普段より身だしなみを整えて出発するにしても、早すぎる時間である。
ああ、夢の中みたいな光景が、実際に確かあったな、と丸山は記憶を反芻する。二度寝しても問題ない安心感から、今見た夢をゆっくりと思い返す。目が覚めたそばから、砂が手から零れ落ちていくように忘れてしまう夢も少なくないというのに、今朝の夢はなぜだかちゃんと記憶をたどることができた。
高校3年の1学期の終業式だっただろうか。進学希望で出した2年の時の進路調査票を基に決められた新しいクラスは、親しかった石倉と同じクラスになれて嬉しかったけれど、進学校でもないはずなのに連日の小テストラッシュや、強制ではないといいながらも暗黙に進学組は全員参加と化している放課後の講習と、想定外の日常に丸山は振り回されていた。
進学を希望していたけれど、どこに進学するかを決められないままに3年生になり、担任からも、数少ない友人だった石倉からも色々と言われたのを覚えている。
——まあ、思い返せば、あれは俺があまりに呑気過ぎたな。
今なら笑えることも、当時は笑えなかった。
夢の中で石倉に語った言葉は、丸山が実際に言った記憶があるもので、誰からも置いて行かれてるような気分になって、滅入っていたものだった。何もしていないと言われても、何をすればいいのかわからなかった。問題集や単語帳を開いて、いくらそれを頭に入れたところで、そのモヤモヤが晴れることはなかったから、勉強も得意ではなかったし、意味があるとも思えなかった。
——夢に見た場面の後、自分は何を言ったんだっけ。
夕方になって、少しだけ暑さがマシになったのを見越して、街に繰り出したのも覚えている。石倉に引きずられて本屋に行き、参考書か何かを買わされたのも覚えている。そしてその後はファストフードかファミレスに行って、石倉とダベりながら、買ってきた本を開いて、勉強してる気分を味わってから、夜になって帰宅したはずだ。
でもその前に、夕方のあのうだる様な暑さの教室で、自分は何かを言っていた気がする。こんなに引っかかるのであれば、どうせなら夢でそこまで見れたらよかったのに。それとも自力では思い出せないから、夢の中に出てくることができなかったのだろうか。
時刻は午前6時半前だ。アラームはまだ先の時間にちゃんとかけてある。貴重な休日の二度寝のチャンスを逃すのも惜しい気がして、丸山は再び眠りの中へと戻っていく。浅過ぎた2度目の眠りでは、夢の続きをみることはできなかった。
「野垂れ死ぬのは困るなぁ……」
そう言って遠い目をしながら、机に頬杖をついて体を起こした丸山に、石倉はフォローを入れる。
「いや、野垂れ死ぬは冗談だけどさ。でも将来のために今やっておかなきゃいけないことってあるだろ。最低限やりゃいいんだよ」
石倉の言葉に、気を遣われているとわかった丸山は苦笑いしながら、わかってるよ、お前の言うことは、と答えた。でもさ、と続ける。
「将来のために今があるのか? 今があるから将来があるんじゃないのか? 今やっておかなきゃいけないことっていうのは、全部、将来とやらのためだけにやるのか。今のために、今を生きてちゃいけないのかよ」
丸山のこぼした言葉に石倉は黙った。呆れただろうか。
窓の向こうから差し込む夕日のせいで、石倉の顔は逆光になって、表情がよく読み取れなかった。
「哲学っぽいことを言って逃げようとするなよ」
怒っているとも、笑っているともわからない声で石倉は答えた。
「別に逃げようとかじゃ……」
「でも、まあ一理あるかもな」
怒らせたか呆れられたかと思って弁明しようとした丸山の言葉を遮って石倉は話し出した。
「将来のためって、よく使われる言葉だし、来年にはもう就職して働いてる奴がいるんだと思うと、将来が見えないなんて言って、ぼやかしていい話じゃないんだろうなともわかってるんだけど。今できることを繋げた先に将来があるっていうなら納得もできるけど、なんだかよくわからない将来のために今すべきことを探すっていうのは、正直よくわかんなくなる」
石倉から発せられた意外な言葉に、丸山は驚いていた。
「今と未来、どっちが先にあるんだろうな。どっちが本物なんだろう。俺たちはどれを信じればいいんだろうな」
どう返していいかわからず、数秒間の沈黙を作ってしまったのに気がついた石倉が慌てたように続けた。
「なんか、俺もよくわかんねえけど。でもまあ、お前の言ってることもわかる気がするよ、っていうだけの話だ」
そう言って手をヒラヒラさせる姿に、丸山は申し訳ないような気持ちになった。上手く言葉にできるかわからなかったが、それを伝えたくて丸山は口を開いた。
「……俺さ、今が楽しければいいなって思うんだよ。そこそこやってられたらいいなって。お前みたいに頭いいわけでもないし、っていうかむしろバカなんだろうけど。でも、今を一生懸命生きてれば、それでいいって思うんだよ。見えないし、得られるかもわからない未来のために、今を犠牲にするなんて、もったいないって思うんだ。そんなの偽物の幸せだって、前に人から言われたことがあるんだけど。偽物でもいいんじゃないかって思うんだよ。だって、それでちゃんと生きてるんだからさ。生きる糧になるっていうなら、偽物上等だよ。だから俺、自分が間違っているとは思ってない……まあ、それが勉強しない理由にはならないってのも分かってるんだけどさ」
そう言って笑って話を締めると、いつの間にか太陽が教室の窓のところを通り過ぎたのか、逆光は消えて、また石倉の表情が見えるようになっていた。石倉は少し笑って俯いていた。けれどすぐに膝を叩いて、気を取り直したように言う。
「うっし、じゃあ本屋に行って、お前でもわかるレベルの参考書買って、腹も減ったからなんか食って帰るぞ!」
「勝手に決めんなや」
「腹減ってねーの?」
「そっちじゃない」
そう言って床に置いてあった鞄を拾い上げて、石倉は机から降りて歩き始める。ゲラゲラ笑いながら、2人の男子高校生は夜の始まりに手をかけだした街へと繰り出した。
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