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8.
2時間飲み放題コースの時間が終わり、回転率をあげたい店から無言の圧力で追い出され、丸山と石倉は店の前の路上にいた。
「悪いな、俺から誘ったのに奢って貰っちゃって」
「いいって。めでたいことなんだから」
財布をポケットにしまいながら丸山は当然のことのように言う。
「出たよ、無自覚な優しさ」
酔いがまわっているのか、ゲラゲラと笑いながら石倉が茶化してくるのが面倒だったので、目が覚めるように冷水をかけてやることにする。
「あのな、お前、結婚したらきっと小遣い制だろ? それに比べて俺は華の独身なわけ。優しさでもなんでもないの、おめぐみだよ、おめぐみ。これから今までみたいに好き放題できなくなるお前へのな」
それを聞いて石倉の顔が曇る。
「なあ、やっぱ財布は嫁さんに渡した方がいいと思うか」
結婚に関しては幸せそうな雰囲気しか出していなかったが、やはり気の進まないことがないわけではないらしい。
「そこは2人の問題だから。しっかり話し合えよ」
「いや、既にその気配なんだよ。今日も誰とどこに何時まで行くか聞かれて、小学生に戻った気分だ」
「人間2人で1つの家で生活してたら、そうなるかもな。まあ、そこはお前がさっき俺に言ったように妥協すべき点なんじゃねーの?」
やっぱりそうか、と石倉は頭を抱えて空を仰いだ。見上げた先の都会の夜の空は、むしろ清々しいくらいに薄汚かった。
あー、と唸り続ける石倉を、さてどうしたものかと丸山は見つめていた。こんな場所では、多少の奇行にも道行く人は関心も示さない。
広い場所というのはいいものだ、と思う。学校みたいな狭い場所では、多少の何かで、意味もなく暴力がまかり通るのだから。
先程の石倉から語られた話を思い返して、そんなことを考える。
こんなことを考える自分も多分酔っている。 石倉は喋り上戸だが、自分は黙り上戸だ。酒が深くなるにつれて、自分の思考に意識がとらわれて、意味があるのかないのかわからないことを考え込んでいるうちに、二次会の会場へ移動するのに置いていかれるタイプ。
「そういえば結婚式の招待状送ってもいいか?」
石倉からの言葉にハッとする。全然聞いていなかった。
「招待状? うん、もちろん貰うし、行くつもりだけど」
「そっか、よかった。俺の友人席ガラガラでさあ。お前と杉原さん来てくれたら、ありがたいよ」
「ちょっと待て。杉原も呼ぶのか? お前親しかったか?」
「同級生なだけだけど、お前の彼女だっていうなら何かの縁じゃん。2人で出席してくれよ」
お前さては聞いてなかったな。と抗議の声があがるところから、どうやら黙り込んで考え込んでいるうちに、石倉の中で進んだ話に、俺は深く考えずに「うん、もちろん」などと返事をしてしまったようだ。
「向こうの都合がわかんねえから、確約はできねえけど」
「それでもいいよ。名札とナプキン立ててあるだけで見栄えはつくからさ」
そう言って暗い影を顔に滲ませながら石倉は笑った。今の夜空のような笑いであった。
「俺は絶対行くつもりだし、杉原も嫌とは言わねえと思うよ。そんな顔すんなって」
「うん……悪いな。杉原さんの住所、彼女が良いって言ったら教えてくれよ。送るのに必要だから」
それはマズイ。代行業者である彼女が、プライベートな住所など教えてくれるとは到底思えない。
「いいよ、俺の所にまとめて送って来てくれて。その方が楽だろ?」
「いいの? じゃあ、そうさせてもらうわ」
自然な流れで危機を回避できたことに安堵する。
さて、でも実際に声をかけるかどうかはどうしたものか。代行彼女として規定料金を支払えば出席はしてくれると思うが、石倉をそこまで騙すことに気が進まないのも確かだった。
——写真とかさ、撮るだろ、たぶん。
「ご友人の皆さんで」なんて言われたら、杉原も俺の隣で一緒に写ることになるだろう。仕事だから、きっとやってくれる。けれど石倉の一生の晴れ舞台に、偽りの彼女と並んで写り込んでいいのか? 大事な友人の、大切なイベントに、シミを残すような真似をしていいのだろうか。酔いのせいかどうかわからないが、丸山の心には重石がかけられたようになった。
じゃあ、また会おうや。今頃になって酔いがピークになったのか、大声で叫びながら満面の笑みで手を振っている石倉を何度も振り返り、さっさと帰れとジェスチャーしながら駅で別れて、自宅へと繋がる路線に向けて丸山は歩き出した。
——どうしたものか、杉原のこと。
頭の中では考えなければいけないことが山のようにあるように感じられた。
楽観主義なはずの自分なのに、酒が入ると妙に深刻になる傾向がある。これは今夜一晩しっかり寝て、酔いを覚ましてから明日考えた方がいいかもしれない。
それでも考えることをやめることができないのは、体内に残っているアルコールのせいだ。
杉原に結婚式への代行彼女として出席してもらうかどうかは明日以降考えることとして、さっき居酒屋で石倉と交わした会話が喉に刺さった魚の小骨のように残っていた。
——本物とやらじゃないとしても、お前の無自覚な怖いくらいの優しさへの乾杯
酒が入っていた上での冗談の割には、少し湿気った空気の中で交わされた会話だった。話題が話題だっただけに、それもそうかと思うのだが、石倉から丸山へ向けられた、嘘も飾りもない評価が、丸山の胸の奥を力なくもしつこくノックし続けている。
気がつけば最寄駅へ向かう路線の駅に着いていた。そこでちょうどコインロッカーに預けていた荷物があったことを思い出した自分を褒める。
杉原との偽デート用に調達した服と、彼女の名刺が入った紙袋を取り出してから、パスケースを改札に当てて、ホームへと上がれば、ちょうど電車が来るところだった。速やかな移動のおかげで、ありがたくないことに思考も速やかに進む。
自分が優しいだなんて、丸山は思ったことがない。そう評される行動の多くは、後味が悪かったり、自分が納得できなかったり、全部自分のためであることが多い。
——そう考えたら俺、結構自己中な方だよな
相手がそれをどう受け取るかなど考えも浅いままで、自分のしたいままに振る舞っているということになるのだから。
最初にノートを持って行った時も、石倉は胸中で悪目立ちしたことで絶望を感じたと言っていた。
歴代の恋人たちも、自分なしではいられなくなるくらいに甘やかして、そのくせ気ままに男友達との付き合いを優先させて、結果として傷つけることが多々あったのだと、ずっと自分のそばで、他人の視点から自分を見ていた石倉の話を聞いて初めて知った。
——やっぱり俺、優しくもなんともないだろ。
自分の行動を振り返ると、そう結論せざるを得ない。なのにどうして、石倉は丸山のことを優しいだなんて言ったのだろうか。
ガタガタと揺れる電車の窓に映る自分の姿を見ながら、思案の海を深く潜り続けていく。
丸山は杉原に言われた言葉も気になっていた。紳士だなんて、彼女は一体自分のどこを見て、そう思ったのだろうか。
石倉の中学の話を聞いていた時に思い出した杉原とのことを丸山は思い返す。石倉曰く、恩着せがましくもない、サッパリした優しさとやらを注いでしまう丸山が、高校生の時に杉原と交わした会話が鮮明に浮かび上がってくる。
「あなたは、なんで生きてるの?」
高校生の丸山に、高校生の杉原が言った言葉だ。
杉原は丸山から見て「優等生」の言葉がぴったりな生徒だった。けれど人知れず、当時の彼女は進路やら、人間関係で悩んでいて、いっぱいいっぱいになっていたらしい。
放課後の図書室で、たった1人で虚空を見つめるクラスメイトが心配になり、声をかけた。
すると彼女は、淵ギリギリまで水を満たしていたダムが、とどめの一撃で決壊したかのような勢いで、丸山に向けて感情を爆発させた。
あの時の彼女は、彼女らしからぬ姿だったと、後に丸山は思ったけれど、あれこそが彼女の本性だったのかもしれないし、今となってはわからない。
ただ、丸山はそんな彼女にも、石倉が言うところの、優しさをもって接した。
それは丸山に言わせれば、様子のおかしい同級生を、見て見ぬ振りして何かあったら後味が悪いという自分本位な考えでしかなかったのだが、根気強く、支離滅裂にも近かった彼女の話に耳を傾け、励まし続けたその行為は、杉原には紳士的に見えたのかもしれない。
——でも、あんな状況なら誰だって同じようにするだろう。
丸山はそう考えるけれど、石倉にとっても、杉原にとっても、丸山の「当然」は「当然」とは限らないようであった。
杉原はあの時、声を荒げて言っていた。
「私のこと見てみないふりして教室に帰ることだってできたのに、心配だからって理由で声かけてきたんでしょ。自分がどうしたいのか、わかってるから、そんなことができるんだよ」
10年前の出来事を、たぶん一言一句違わずに思い出せる自分に驚く。自分の想像以上に、インパクトのある経験だったのか。
自分は杉原に優しくしたかったのだろうか。そんなつもりはなかった気がする。でも結果として丸山の行動は、彼女に10年後「変なところで紳士だ」なんて評されることになった。
石倉も丸山の優しさを形容して「マフィアのジェントルマン」と表現した。共通するものがある。自分は他人からどう見えているのか。そこから見える気がした。
そして丸山は気がつく。「優しい」と言われて、困惑はしつつも、決してそれが不快ではない、自分に。
その瞬間、外れていた部品が、あるべき場所に嵌められたように、頭の中で散らかっていた思考が、しかるべき結論にたどり着いた。
——なんだ、俺。単に愛されたがりって奴じゃん。
付き合った相手に優しくするのは当然だと思ったのはなぜか。優しくすれば優しくしてもらえる前提を信じていたからだ。愛や情の対象に惜しみなく自分の気持ちを注ぐのは、自分にも同じだけ注ぎ返してほしいからだ。
与えたものは返ってくる。
小学生でさえ「そんなわけない」と気がついて、信じることを途中でやめそうな信条を、丸山は28になるまで無自覚に信じてきていた。
そしてそれが大多数の人に裏切られても、それでも返ってくるものを信じて、与え続けていた。
日々が苦しくもなるはずだ。石倉の結婚の話を聞いてから益々浮上してきた言語化できなかった心に、やっと診断がついた。
寂しがり屋で、貪欲に手段を選ばず愛されたがる、そのために優しさを身につけた生き物。
職場の人間のような、愛されなくても構わない相手には、幾らでも攻撃的になれる身勝手で獰猛な生き物。
偽物でも構わなかったんじゃない。妥協するしかなかった。
本物かどうか突き詰めて、本物じゃないと知ってしまうことが怖かった。
——石倉、俺はとっくに妥協を知ってたよ。
先ほど丸山に妥協について説いた石倉に、心の中で呼びかけた。
笑える。
電車はちょうど丸山の自宅の最寄駅に到着した。プシューッと音を立てて開くドアをくぐり、改札を出る。そして駅から出て、駅前のわずかな賑わいから離れて、マンションのある道を曲がった。
「……ははっ」
周囲に誰もいなくなると本当に笑いがこみ上げてきた。
1人で笑いながら住宅街を歩く姿は、不審者とも間違われそうだが、酔って赤らんだ顔を見れば、誰も関わろうなどと思うまい。
自分のような、愛されたがりでお人好しを気づかないうちに演じているバカでもない限り。
酔ったことに胡座をかいて、笑いながら帰る。街灯の灯す点と点を結びながら、漂うように歩いてみる。遭難した船はこんな気持ちで海をさまようのだろうか。そんなことを考える。
幸か不幸か、すれ違う人は誰もいなかった。都心を少し離れたこの場所では、空の色もまだマシに見える。
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