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9.
放課後の校舎の廊下は異様な色合いをしていると丸山はいつも密かに思っていた。
差し込む西日が、無駄にたくさん並んだ窓から惜しみなく注ぎ込まれ、窓枠の影が永遠に続いていくリノリウムの床が、茜色の照り返しで燃えているみたいで。
そんな所を歩いていると、朱色に染まって自分まで焼けてしまいそうな気分になって、ヤケになって望んでもいないことに手を出してしまうのではないか。
思春期の非行の原因は、全てこの狭い空間で生み出される、赤いガスを吸ったことで起こしてしまうのではないか。
そんな現実離れしたことを考えてしまうくらい、危ない景色が校舎のそこら中に転がっていると丸山は思っていた。
誰もいない廊下を教室に向かって進む途中で、通りがかった図書室のドアの窓から、見覚えのある横顔を見かけた。
同じクラスの杉原佳穂だ。
本を読むでもなく、ノートを拡げて勉強をするでもなく、彼女は図書室の椅子に腰掛けていた。
テーブルを挟んで誰かと面接でもしているかのような雰囲気であったが、ドアに近づいてガラス窓を覗き込んで見ると、部屋の中には彼女以外に人はいなかった。
彼女は無表情のままで椅子に座り、真っ直ぐと前を見ている。授業を受けている時の姿と変わらない。
なぜ彼女がそんなことをしているのか、丸山のには見当もつかなかったが、面識がないわけでもない人間が、普通とは違う様子でいるのを見過ごすほど、丸山は非情にもなれなかった。
「杉原じゃん、何やってんの。自習?」
図書室のドアを開けて部屋に入りながら、たった今、彼女の存在に気づいたかのようなふりをして声をかける。
杉原はドアの音と声に反応して、ゆっくりと丸山の方へと顔を向けた。少し伸びたショートボブの黒髪を持つ杉原の、機械仕掛けじみた動き。
——からくり人形みたいだな
失礼かもとは思いつつ、丸山はそんな感想を抱く。
「丸山君か」
彼女の漏らす声から、どこか残念がるような空気を感じ取った丸山は、空回りを覚悟してわざと戯けて答えた。
「残念、丸山君でした。誰か待ってんの?」
「別に。そうじゃないけど」
けど? けど、なんだっていうんだよ。
彼女の言葉の続きを待とうとしたが、杉原は再びゆっくりと前を向いてしまった。
「なに、なんで壁見つめてんの。ウケるんだけど」
嘲りや揶揄いのニュアンスが強く混ざらないように、気をつけながら浅く彼女を茶化す。
「うるさいよ」
それでも返ってきたのは不機嫌なお答えであった。気を遣っていたつもりだったが、あまり役には立たなかったらしい。
それならもう余計な気遣いは不要だと、丸山は普段教室にいる時と同じように好き勝手に話し始める。
「俺さぁ、いま中野に呼び出されてたんだよね。昨日出した進路調査票のことで。まさか3年になってすぐに、あんなもの書かされると思ってなかったからさ、白紙で出したんだよ。そしたら、そのお叱り」
「3年になってすぐに進路調査あるって、2年の終業式の時に先生言ってたよ」
数秒ほど気まずい時間が流れるが、丸山はめげずに話を続けた。
「……へー、忘れてたわ。まあ、過ぎたことは仕方ないじゃん? それでさ、俺はとにかく何もわかんなかったから、素直に白紙で出したのに。何も考えてないなんて非常識だっていうし、仮に決まってないなら未定って書いて出すもんだって、叱られちゃったよ」
「だろうね」
冷たい返事が返される。
「杉原はなんて書いたの、進路」
その冷たさに気づいていないふりをして問いかけた。
「大学行きたいから、適当にいくつか書いたよ。お金ないから公立しか目指せないけど」
中学時代から、行ける高校さえ限られるほどの低成績を長年叩き出していた丸山にとっては、公立大学など最初から眼中になかった存在なのに、それを「適当にいくつか書いた」なんて言える彼女に驚いた。友人の石倉も、成績は悪くないはずだが、郊外の私大を目指しているのを聞いている。
「お前すげぇな。うちの高校バカばっかじゃん。公立大学行けるやつなんて一握りじゃね?」
「だって、行きたい場所に行くために必要な手段がそれしかないなら、やるしかないじゃん」
仕方なしに選んだ選択という割には、力強い声で杉原は答えた。
「それに私、丸山君ほど成績やばくないし」
「お前それ、心配して声かけてやった奴に返すセリフじゃねぇだろ……傷つくわぁ」
胸に手をあてる仕草でオーバーに傷つきを表現した瞬間、いつの間にか再びこちらに顔を向けていた彼女の射るような視線が丸山に刺さった。
「心配?」
訝しむ、というよりは冷笑とでも表現した方が似合いそうな声色が浴びせられた。
「あっ、いや……教室帰る途中でここ通ったら、杉原がいるの見えたから。でも、何もしてないみたいだし、なんか、むしろ放心してるみたいだったから、気になって……」
別にやましい目的など何もないので、焦るいわれもないのだが、思いの外冷たい対応を取り続けるクラスメイトにドギマギしてしまう。
「丸山君、別に図書室に用があったわけじゃなかったんだ」
彼女の声に責めるような気配がなかったことに安堵する。
「ああ、まぁ。っていうか、この学校でここに用がある奴の方が少ないんじゃね?」
お世辞にも進学校とは呼べない丸山たちの通う高校では、図書室の本が自分たちの役割を忘れてしまっていても不思議ではないくらい、ここは人気がないことで有名なスポットであった。
「優しいね」
一瞬、機械が喋ったのかと錯覚するくらい、温度も抑揚もない声で、そう評された。
それから杉原は立ち上がって丸山の方へと歩いてきた。何かまずいことを言っただろうかと思案するが、思い当たる節はない。
まさかストーカーとでも思われてしまったなら、拗れて面倒なことになりそうだとも思った。だが、その予想はどちらも外れたらしい。
「ねえ、丸山君」
丸山の目の前。足を一歩踏み出せば、その額に唇がぶつかりそうな位置に杉原は立っている。
思いがけない展開に怖気付いた丸山は一歩後ろに下がった。するとすかさず杉原は一歩前に歩を進めて、離れていくことを許さない。そして彼女は口を開く。
「あなたは、なんで生きてるの?」
一体何を言われたのか、とっさに理解できなかった。
質問の意味がわかって、思わず杉原の顔を凝視したけれど、彼女の後ろに並ぶ窓から差す西日の逆光で、その表情はほとんど読み取ることはできなかった。
黙り込んだ丸山に、杉原は畳み掛けるように続ける。
「進路……将来のことだって、何もわかんなかったなんて嘘でしょ? 丸山君は狡いよ。本当はどうしたらいいかなんてわかってて、幾つも選択肢がある中で、最適だと思えるものを選んでる」
表情の読めないクラスメイトから投げつけられる、意図の読めない言葉たち。驚愕と、恐怖と、真意を知りたい好奇心で丸山は混乱していた。
「今だってそう。私のこと見てみないふりして教室に帰ることだってできたのに、心配だからって理由で声かけてきたんでしょ。自分がどうしたいのか、わかってるから、そんなことができるんだよ」
そして付け足すようにまた同じ言葉を呟く。「狡いよ」と。
相変わらず顔はほとんど逆光で見えなかったが、丸山は杉原の声のトーンで、彼女が泣きそうになっていることがわかった。
何を言えばいいのかはわからなかったが、杉原が普通の状態ではないことだけはわかった。
高校生にもなって、目の前で泣きそうになっている同級生の慰め方なんて知らないが、それでも黙っているわけにもいかなくて、丸山は杉原に語りかけた。
「杉原、お前、大丈夫か? 落ち着けよ」
丸山の月並みな言葉を鼻で笑うように一蹴して杉原は続けた。
「大丈夫な人間が、こんな質問するわけないじゃん。ねえ、教えてよ。なんで丸山君は生きてるの? 私はなんで、こんなこと聞いてるんだろうね。でも、わかんなくて苦しいんだ。ねえ、生きてることに意味なんてあるのかな」
酔いにかまけた思考癖のせいで、沈んだ気分になって帰宅した28歳の丸山は、電気もつけずにベッドに寝転がって天井を見ていた。ここまで暗い気持ちになっていると、帰り際に向けられた石倉の幸せと上機嫌で破顔した笑顔に申し訳なくなってくるくらいだ。
カーテンさえ閉めていないので、街の灯りで部屋の中はどこに何があるのかは判別できるくらいには明るい。ベッドの横には、杉原から貰った名刺と、着替えた服が放り込まれた紙袋が無造作に置かれている。
ただの愛されたがりの自分の存在に気づいた以上、丸山はこれまでと同じようには生きていけない気がしていた。自分が別の生き物になってしまったような気分だった。
楽しければよかった。不確かな先のことより、確かな今を大切にしたかった。自分はそれだけの人間で、とんだ楽観主義者もいたもんだと思っていたが、これからはそうじゃない。
大切にしたい楽しいことというのは、誰かからもらえる愛や情の類であった。自分は1人では生きていられない、弱い生き物であった。
偽物上等などと啖呵を切って、楽しむことに注力していたはずが、偽物でも構わないと目につくものを依代にしていた、切なく寂しい生き物であった。
——バカじゃねえ? 俺。いや、バカなのは知ってたけどもさ。
いくらバカでも、この歳になって自分の正体を知るというのは、さすがに恥ずべきことだと感じる。そしてそれに驚いて、落胆して、部屋の電気もつけずに不貞寝しているのだから尚更。
全部酒のせいにして、このまま寝入ってやろうかなと丸山は考えた。記憶は残るタイプだが、一晩眠れば酔った際の思想はリセットできるのを、身をもった体験で知っている。
でもそれでいいのだろうか。
せっかく何かの糸口を自分は掴みかけているかもしれないのに、それを手放すことになるかもしれない。
——そういえば、俺はあの時、杉原になんて言ったんだっけ?
石倉と飲んでいる最中に思い出した、杉原との「思い当たること」の記憶を読み返しても、その後のことはどうもよく思い出せなかった。
状況が状況だっただけに、柄にもなく真剣に悩んだことは覚えている。だからきっとそこに嘘や偽りはなかったと思う。
幸いというべきか、真剣になった時に嘘がつけるほど、自分は頭のいい人間ではないから。
杉原に聞いてみようか。
電話で予約すれば、1万5千円で彼女の時間を3時間借りられる。リピーター割引があると言っていたから、少しは安くなるかもしれないが。
偶然、高校の同級生であった代行彼女に、10年前のことを覚えていないか聞いてみるのはコンプライアンス違反になるだろうか。
——言いたくないことなら、言いたくないと言うだろう。恋人の代行をするのが杉原の今の仕事とはいえ、別に言われたことを全て聞く人形になるわけではない。
悩んだとき、暫定でも結論が出れば、すぐにでも行動に移れるのは自分の長所だと思う。
寝転んだままで、顔を横に向け、置きっ放しにしていた紙袋を引き寄せて、手探りで中の名刺を引っ張り出す。
明日電話して、なるべく早くに杉原と会う約束をしよう。名刺を手に持って見つめながら、そう決意する。
杉原が自分との青春の1ページを記憶から抹消してしまっている可能性も充分あり得るけれど、覚えている可能性だってゼロじゃない。
そして彼女の言葉で何か思い出せたなら、昔の自分が彼女に何を言ったのか、その時の自分になったつもりで、もう少し深く考えてみよう。
若い日の自分が、若いなりに悩んで出した言葉なら、自分が別の生き物になってしまったかのような、この奇妙な感覚から脱却する手立てが見つけられるかもしれない。
今よりずっと純度の高かったはずの自分に会いに行く。
格好つけた言い回しで、丸山は自分のテンションの維持に努める。
虚勢、痩せ我慢、空元気。相応しい言葉はどれだろうか。「かもしれない」なんて言葉で未来に希望を託すのは好きじゃないが、今の自分には、それが1番の薬になる気がした。
今のこの状態こそ、偽物と呼べるべきものだと少し自嘲してしまいそうになる。けれど無意味じゃない。そう信じなければ、どこへも進めないじゃないか。
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