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数時間前
「……ちょっと待って!!」
いつもなら跳ねることのない髪の毛が、濡れて無作為に乱れている。雪のように白い肌にところどころ赤い花が咲いている。切れ長の目はのぼせたように儚く弱弱しい。普段は柔らかく微笑む彼女なのに、今日は息を切らしてこちらを睨んでいる。
俺の目の前にいるのは、ある種等身大の彼女かもしれない。
俺は彼女をベッドに沈めた。
遡ること数時間前。
俺は白と黒とかわいいものが好きだ。そして好きなものには執着する質だ。
だから姿見として使えそうな黒い冷蔵、黒いカラーボックスを探したし、7.5畳の部屋で収納スペースを確保するため、白を基調とした壁面テレビボードで、最大限納得のいくインテリアにしてみた。キッチン回りも、お風呂道具、トイレ用品、ベッドにデスク、普段使う小物に至るまで、なるべくモノトーンで揃えた。
ただ数日前、たまたま親と電話中に壊れてしまって、急ごしらえで親が買ってくれたデスクチェアが今しがた届いたのだが、背もたれの色が蛍光オレンジだった。
「……いやあ、まあ、いいか。買ってくれたものだし」
自然と顔の筋肉がひきつった気がする。でも電話越しの親の声や、その後のあーでもないこーでもないと言い合いしながら、きっとパソコンと向き合ってポチっとしてくれた様を想像すると、自然と捨てるという選択肢はゴミ箱に捨てることができた。
「きたよー」
俺が思考を停止したちょうどその時、扉が開いた音とともに透き通った声がした。そうだ、今日は彼女が来ると言っていたっけ。彼女の足音は迷うことなくこちらへ向かってくる。そして目立つアイツと俺を交互に見つめて、開口一番、何その色と言われてしまった。
「んー?明るい椅子だよね」
「そうね。いやそうじゃなくて」
「親からのプレゼント」
俺は自然と笑っていた。一瞬間が空いたような気がしたけど、すぐに彼女もそっか、とふんわり笑い返してくれた。
彼女が笑ってくれると俺も救われたような気がする。今もこうして笑ってくれる彼女はとてもかわいいものだ。だから今日もかわいいと思う。
俺が改めて彼女の瞳を捉えると、白く透き通った頬がほんのり赤みがかっていた。
「どうしたの?」
「な、なんでもない!」
なんでもないことはないと思うのだが、目を合わせてくれないそんな彼女もまた俺を笑顔にする。
「……笑ってる」
「んー?そうかな」
そうやって口をとがらせて拗ねてる顔をもっと見たいと思うのは、俺のダメなところだ。俺は彼女の視界に入るよう身体を動かした。
「そうだよ!」
少しむきになったみたいだ。彼女に隙が生まれてようやっと目が合った。少し潤んだ瞳が俺を映している。俺は自然と彼女の後頭部に手をやり、一気に距離を詰める。そして息つく余裕なんてないように彼女の口を塞いだ。
「いらっしゃい」
彼女は、今日一番の赤みを帯びつつ、首を縦に振った。
彼女は大学の講義でたまたま隣に座ったことがキッカケで知り合った。俺はたまたま友人と唯一被らない講義を履修していて、教室に入ったはいいものの、グループがいくつも出来上がっており居場所がつかめずにいた。そしてわりと人が少なそうな前の席へ座った。
この講義はわりと人気らしく空席ができない。始業前ギリギリになると、友人同士でも隣同士で座れないことが多いようで、あとは後ろの席と俺の隣しか空いていない状況になった。そこへ彼女はやってきた。隣いいですか、とそう言って。
どうぞ、と言いながら俺は彼女のことを頭の中の記憶と照らし合わせていた。友人が言っていたのだ。同じ学科の子で可愛いと評判の子がいると。その子はすらっとした手足、透き通るような白い肌と切れ長の目。でもキツイ印象はなく、美人という言葉が似合う子らしい。間近で見るとその評に間違いはないと確信できる。それにちょっといい匂いだ。
「始めるぞー」
いつの間にか教室に入っていた教授の声で、俺は我に返った。
教授の抑揚のない声が響き渡る教室で、俺は隣の彼女のことが気になっていた。どうにも落ち着きなくカバンを漁っている。
俺の友人評には続きがあって、彼女は入試の成績も上々で、入学後の成績も上位で講義態度も真面目で教授たちからの評判もいいらしい。ちなみに吹奏楽のサークルに入っているらしいが、そこでも才能を発揮しているようだが、彼氏がいるという噂はなく、この間もすごい目立つ先輩に告白して玉砕したらしい。
「えー、32ページを開いて……」
友人評を思い返しているうちに講義は淡々と進む。映し出されたスライドのページがどんどん変わっていくのに、彼女は見向きもしないでカバンに手を突っ込んでいる。今にもひっくり返しそうだ。
真面目だと評判の彼女にしては、ちょっとおかしいのではないか。
「どうしたの?」
あ、やばいと思ったが口にした言葉はもうどうしようもない。彼女の手が止まった。しかし彼女は睨むわけでも無視するわけでもなく、俺の目を捉えた。
「教科書忘れちゃったみたいで……」
バツが悪そうに目を逸らす彼女。俺は思わず笑ってしまった。ちょっとむっとした顔をする彼女をしり目に、俺は開いていた教科書の位置を俺と彼女の間に移した。
「どうぞ」
自然と笑みがこぼれた。それにつられたのかはわからないが、彼女も笑ってありがとうと言った。流れる空気が変わった気がした。
「今日はここまで。お疲れさん」
ブチっとマイクの電源が落ちた音が聞こえ、教授がパソコンを閉じた。教室が騒がしくなるとともに、俺は彼女との間に置かれた教科書をしまう。後ろ髪惹かれる思いとはこのことかもしれない。
「あの」
彼女の声とともに、俺の服が彼女の方へ少しだけ引っ張られる。
「ん?」
俺の意識も彼女の方に引っ張られる。
「さっきはありがとう」
深々とお辞儀をしてくれた。それすら様になっていて、なんというか眩しい。
しかし彼女の足元でバサバサっと音がした。
お辞儀をしたときに、カバンも一緒に傾けたようだった。災難だったのはカバンを閉め忘れたことと、そのせいで中身をぶちまけたことだった。
友人評と微妙にずれが生じてきた。友人評だと隙なんてなさそうなのに、目の前の彼女は隙だらけだ。ちょっと心配なくらいに。
彼女はしゃがみこんで慌てて拾い始めた。白い肌を真っ赤に染めて。俺はなんだかほほえましくなって、しゃがんで一緒に拾い始めた。
「ごめん……」
「いいよ、全然」
俺は拾ったものを渡した。その中には音楽プレーヤーもあって、触れた拍子に画面が明るくなってしまった。そこに映し出されたのは吹奏楽の音楽でもなく、女の子たちが好きそうなイケメンのバンドでもなく、自分が生まれるより前の超有名な洋楽バンドだった。そして偶然にも俺がいつも聞いているバンドでもあった。これはチャンスだった。
「そのバンド、いいよね」
俺にとって賭けでもあった。見えてしまったものに触れるのを嫌がる子もいるけど、直感で彼女は大丈夫だと思ったのだ。
「え、このバンド知ってるの?」
彼女の顔が一段階明るくなった気がする。声も少し大きくなった。
「ん?有名じゃない?俺、よく聞くけど」
「え、聞いてるの?」
俺は気にいってる曲名をいくつか挙げた。すると彼女の顔はみるみる笑顔になっていく。俺の聞いていた友人評がどんどん掠れていく。
「ほんとに?ねえほんと?」
「いや、ほんとだけど。あ、じゃあ見てみる、俺のも」
初対面の俺でもわかるくらい嬉しそうな顔をしているくせに、どうやら疑っているらしい。俺は証拠となる自分の音楽プレーヤーのプレイリストを見せた。
彼女は俺の顔を覗いて見てもいい?と聞いてくるので、俺は頷き音楽プレーヤーを渡した。彼女が画面をなぞっていく。1回、また1回となぞっていくうちに、彼女の顔はますます笑顔になっていった。
「すごい!こんな人初めて会ったよ!」
「……それ、褒めてる?」
彼女の表情、態度を見れば褒めているとはわかったが、それでも直接聞きたくて俺はあえて茶化してみた。
「褒めてるよ!」
彼女の一際大きな声に俺は笑い、彼女も照れくさそうに笑った。
俺と彼女はこうして出会った。そのあとお互い講義がなかったこともあってずっと話をし、連絡先を交換した。
そして何度かご飯に言ったり、デートしたりして晴れて俺の彼女になった。
俺の友人からは散々馴れ初めを聞かれる羽目になったけど。
ただ彼女が「彼女」になる前も、なった後も、彼女は表向き隙がない。だから俺の友人評でみんな彼女を見ているから、他の男から言い寄られることも少なくなかった。
彼女も慣れているのか適当に流していることが多かったし、俺もちょっと嫉妬したけど、取り立てて何か言うこともなかった。
そして数時間前。俺の中の何かが切れた。
彼女が俺の家に来て、ひとしきりからかった後改めて彼女を見ると、少し落ち着きがない。もうからかいも終わっているし、顔色もいつもの白い肌だ。それなのに妙にそわそわしている。
「ん?どうしたの?」
すると彼女は、口を噤んで何か考えているようだった。こういう風に言いよどむのは珍しい。俺は彼女に触れようと手を伸ばすが、触れられなかった。彼女が一歩後ろに下がったのだ。
俺は彼女の表情や仕草から読み取れるものはないか探した。
「あ、えっと」
彼女は俺から目を逸らし、また一歩後ずさる。
「えっと、その」
「なに」
気付けば彼女は壁にぶつかっていた。横にずれようとするので、俺は思わず彼女の進行方向に手を置いた。自然と彼女との距離が近くなる。
「なに、ちゃんと言って」
「……また告白された」
またか。俺は肩を落とした。なんというか日常茶飯事なのだ。彼女には隙が無いし、彼女自身周りからの詮索を嫌っている節があり、彼氏がいることをあまり話したがらない。そういうこともあって、未だに告白する男が絶えない。
「で」
俺だって聞きたい話題ではないから、自然と態度に出てしまう。こういうところは大人げないと思うが、生理現象だと思ってあきらめてほしい。
「ちゃんと断ったよ、当たり前じゃん」
彼女は俺の胸を押し返す。そう彼女はちゃんと断っている。それは俺も知っているし、今回もそうなのだろう。告白されたことを隠す女もいるが、彼女は妙に律儀というか、隠し事をしたくないようで、きちんと報告してくれる。
でも今日はちょっと様子がおかしい。ちゃんと断ったって言いながら、俺と目が合わない。それにさっきからずっと眉間にしわを寄せて渋い顔をしている。押し返すその仕草が気に障る。今の俺にはこの言葉しか浮かんでこなかった。俺は押し返そうとする腕を掴むと、壁に押し付けた。
「なにかあった?」
「……」
何も言わない彼女に、俺の手にも力が入る。表情が少し歪んだ気がしたが構ていられるほどの余裕がなかった。
「ちゃんと言って」
「……キスされた」
彼女の頬を涙が伝った。いつの間にか彼女の目が真っ赤になっている。誰に、どうして、どこで、という言葉が浮かんでは消えていく。
「……告白されて、断って。でもしつこくて」
俺の力が弱くなったからなのか、か細くなった声はいつの間にか俺の足元から聞こえてきた。小さくなっている彼女は、さっきまで笑いあっていた姿からは想像できないくらい弱くて。俺は目線を合わせようとかがんだ。そして静まり返った部屋に彼女の嗚咽交じりの言葉を紡いでいく。
「手、掴まれて。逃げられなくて」
「……もういいよ」
「口に手、やったけど、はがされて」
「……もういいって」
もう聞きたくなかった。でも彼女はまるで懺悔をするようにつづけていく。
「顔が近づいてきて、き、きもちわる―」
今にも折れそうな彼女を俺の腕の中に閉じ込めた。正直俺も湧きあがっては消える熱をどうしたらいいかわからない。でも俺の中で何かが切れて、何かが湧き出してきた。
「じゃあ全部、俺がもらってあげる」
俺は再び彼女の口を塞いだ。
俺は白と黒とかわいいものが好きだ。そして好きなものには執着する質だ。
俺の切れた何かは、俺の執着心を押さえるリミッターだったのかもしれない。彼女が俺の胸を何度も叩いてくるが、そのたびに少しだけ隙間を作って、また塞ぐ。その繰り返しだった。
叩く力が弱くなってきたところで、彼女を抱えてバスルームへ直行し、全部脱がせてシャワーを垂れ流した。
彼女を隅々まで見て、堪能して、廊下からベッドに移るまでの動線上には、彼女と俺の足あとが残り、濡れて揺れていた。
足あとがすっかり乾いたころ、横で眠る彼女を見て俺は後悔の念に駆られていた。乱れてぐったりしている姿が激しさを語っている。
息を吐いた俺に気づいたのか、彼女が重たそうに瞼を開いた。
「ごめん」
今度は俺が謝る羽目になった。彼女は笑って首を横に振る。俺はいたたまれなくなって、もう一回謝った。一方的に思いをぶつけて、こんなにして、自責の念しかない。
俯く俺の頬に彼女は手を添えてきた。
「……なんかね、私うれしかったかも」
出会ったときからそうだ。彼女はいつも予想外。
そう言って笑う彼女に、俺は一生叶わないかもしれないと思った。
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