足跡の池

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 私の暮らす家は、マンションやビルの見える街には不似合いな昔ながらの古い家屋で、更に広い庭には周囲の街並みの景観に合わない池がある。  目印の池なのよ、と母は言っていた。  母には若い頃からずっと、大切に育てている植物があった。それは我が家の庭の池にひとつきりで咲く花だった。 「大切に想うひとに託された花なの」  と病床、息を引き取る前に語り始めた母に、私は「初めて聞いた」と言った。母は「初めて言ったもの」と弱くなる呼吸の中で笑った。  恋とは違う感情だけれど、父親ではない相手との思い出話なんて聞かせるものでもないと思うから、と言った。父はとうに亡くなっているし私ももう四十歳を過ぎているというのにそんな気遣いをしていたのかと、呆れるような気持ちで笑った。母は花についての思い出話を語ると、静かに息を引き取った。  私には家と池のある庭と、母の花が残された。  池の中に咲く花は、私がどんな図鑑やネットを駆使して調べても正体のわからない植物だった。透明かと見紛うほどに薄い青の、水に溶けてしまいそうな花だった。  母はひとではないものに好かれる性質だったから、これもそのような存在に託された花なのだろうと思う。彼女の語る話から考えてもそうであった。  母が娘時代だったある日、頭上から大きな足が下りてきて家の庭に足跡を作ったのだという。足跡を付けた主は木々の隙間より顔を覗かせて、掌を差し出してこの花を母に渡したのだそうだ。巨大な体躯に合わぬ小さな花を潰さぬように気をつける様子がおかしく、可愛かったと語っていた。  彼は花を母に渡すと、何も話さぬままに空に溶けなじんだ。おそらく姿を消すことが出来たのだろう。母は見えなくなったその大きなひとに向かって問いかけた。 「この花、どうすればいいの?」  単純に考えればそのひとからの不器用な贈り物だろうに、鈍感な母はそんなことにも気付かずに純粋に質問したのだそうだ。その場所には彼がまだいるようで、空間がずれたようにぼやけていた。それで母は彼に一方的に話しかけた。「綺麗な花ね」とか「でも、少し弱っているみたい」とか。その言葉に透明にぼやけた彼が慌てたような動きを見せたので、母は「私がこの花を元気にするね」と言ったのだそうだ。 「この庭で預かっておくから、また見に来てね」  大きなひとの付けた足跡は庭を大きくへこませていた。そこに雨水が溜まり池になったので、母はその形が崩れることのないように家とともにずっと守ってきたのだそうだ。  ーーあの池が目印だから。  周りの景色がどれほど変わってこの場所が分からなくなったとしても、己の足跡は見紛うまい。ここで花を預かっていますよと、母はそれを示すために足跡の池を残した。  すぐに来ることはないだろうと思っていたわけではない。ただ、寿命は異なっているだろうから時の流れの感じ方も違うだろうと、そう考えてのことだった。  じっさい、大きなひとはなかなか花を見に来なかった。預かった花が元気になっても、その花の種が水に沈み育ち次の花を咲かせても、足は天から下りては来ず、木々の隙間からおそるおそる顔を覗かせることもなかった。  母が結婚して子どもを産んで家族が出来ても、やはり来ることはなかった。  父は古びたこの家をあまり好きではないようで、特に池を怖がった。それもそうだろう、父には見えてはいなかったろうが、池の周囲には母に懐いたひとではない小さなものたちが賑やかに集まるようになっていたのだ。ころころと転がる小さなものたちは私の目にも見えており、幼い頃は遊び仲間でもあった。母はそのこらを膝に乗せて歌ったり、背を撫でてやったりしていた。  そういう時ふと気配を感じて空を見上げるけれど、屋根の向こうにも木々の合間にもあの大きなひとはやっぱりどこにも見当たらなかった。  母が娘時代だった頃はまだ田舎の風情のあったこの地域も、年月が経つにつれて商業ビルやマンションなどが立ち並ぶようになった。  本当はこの家も時代の流れに合わせて建て替えるなり引っ越すなりした方が良かったのだろうが、母はそれをしなかった。池を潰すわけにはいかないし、ここを離れるわけにはいかなかったのだ。  池が目印だから。  その理由を、母は死の間際まで私に語らなかった。だからなぜ母が生前そんなにも頑なにこの家を守ろうとしていたのか、父にも私にもさっぱり理解できなかった。池のあるのは贅沢だ、家も新しくした方が暮らしやすくなると説得しても一向に聞く耳を持たなかった。柔らかな性格のひとなのにこのことに関してだけはとにかく頑固であった。 「花を見せるため、か」  縁側で池を見ながらひとりごちる。  あなたが持ってきてくれた花、元気になったよ、綺麗に咲いたよ――と、ただそれだけを言うために、母はこの家で生きてきた。  ぼんやりとしていると、母に懐いていた小さなものたちがころころと転がるようにして私の元に寄ってきた。 「いないのよ」  私は教えてやる。 「みんなが大好きだったあのひとはね、もういないの」  言葉を交わせる仲ではないから、通じたのかどうか。  背を撫でてやると、小さなものたちはよく分からない様子で、けれどどこか寂しそうな様子でふわふわと庭に下りた。  そのまま池を取り囲んだ小さなものたちに、私はとっさに「帰るの?」と訊いていた。恋しいひとのいない場所にいるのは寂しい?  小さなものたちは少し振り向いたけれど、そのまま足跡の池に飛び込んで消えた。私の見も知らぬ世界がその底から続いているのだろう。波紋が生じて花が揺れる。  ……母の待っていたひとが来なくって、この池を守っていた母もいなくなってしまったのなら、私がここを守る意味はあるのだろうか。  それでも花を預かっていたいという気持ちがあり、あの小さなものたちに教えたように、母がこの世にいなくなってしまったことを伝えなければという思いもある。  私はサンダルをつっかけると、足跡の池を覗き込んだ。波紋によって揺れる花から粉がはらはらと落ちていく。  粉の浮かぶ水を掬い上げようと手を伸ばした時、空から大きな掌が下りてきた。  振り仰げば、その手の主はビルの隙間にーーもう街中に木々はなくなっていたーー顔を少し覗かせて、悲しそうにこちらを見ていた。 「母の――」  話しかける。 「母が大切に預かっていた花です」  そっと花を手折る。このひとが母に贈り、母が育てていた花を。おそらくもう、このひとは母の命がここにないことを知っている。 「……お返ししますね」  大きなひとはこくりと頷くと、掌で花をそっと包んだ。もう片方の掌が私の頭に触れて、ほんの束の間幼い子どものように撫でられると、彼は空に溶け消えていった。  ……渡せるだけで良かったのだと、それだけで満ち足りていたのだと――そういうことだったのかもしれないし、違うのかもしれない。母とあのひとにお互いどんな想いがあったのかなど、私には知りようもない。  私を撫でてくれたあの掌の心地を懐かしいような気がするのも、私の願望が作り出した思い込みに過ぎないのかもしれない。母に気付かれないようにこっそり会いに来て、私をあやすこともあったーーそんな日々がもしかしたらあったのかもしれないけれど、探るべきことではない。  母を大事に想うひとが花を贈って、長年美しく咲いていたその花が元の持ち主の元に戻ったというだけの物語だ。  それがこの家にある足跡の池についてのお話。  ただそれだけの、物語。
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