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もう下校の時間だというのに、空はまだ明るい。18時を過ぎたのだから、さっさと陽が落ちてくれればいいのに、夏ばかりはそういうわけにもいかない。
落ち込みかける気分を押し隠して、正門までの坂を下り始めた。その向こうに青々と葉を茂らせている桜並木が見える。
桜が咲いていた季節には、まさか自分がこんなふうに泳がずに帰宅する日が続くなんて思わなかった。
「確か、中学の県大会で個人3位だよね。結果残してても、肩が故障だときついよね……」
「そうそう、ジュニアの時からけっこう知られてたけど、うちの高校も水泳部は強豪だし、ここでだと差開いちゃうかもねえ……。かわいそうだけど、こればっかはさー」
更衣室で聞こえた先輩のひそひそ話にシャワー室で息を殺すしかなかった。
肩の違和感は拭えないまま、それを両親に言うこともできないまま、来週から夏休みだ。
特別水泳で将来身を立てるという意志があったわけじゃない。むしろ両親は家のことをして、千尋の世話を望んでいただろう。それでも仕事を優先している両親の負い目につけこむようにして、自由にやらせてもらっていた。
単純に泳ぐのが好きだったからはじめた水泳も、いつのまにかそれなりにジュニア、中学と成績を残せるほどになった。
スポーツ関係の治療で知られる整骨院に行ったら、小さなころからの練習の積み重ねで、疲労が蓄積して、それが今になって故障につながってきていると言われてしまった。
スポーツ障害というらしい。
つまりはこの先、過度な練習はだめだということ。
そんな状態で新人戦に出られるわけがない。
顧問の先生と話をした結果、当然、新人戦に出場するのはできない。まして、部活の練習に加わるのもだめ。
やれるとしたら、体幹を維持するトレーニングだけ。それもみんなとは違う別メニューにせざるを得ない。
そんな状態で、めきめきと力をつけている同じ学年の子たちののびのびと泳ぐ姿をプールサイドで見ていられるほど強くはない。
このまま部活に所属して、マネージャーとして動くという選択肢もある。みんなの役に立てるならそれもいいかもしれない。
そう思うのに、どこかで納得できない。
ついため息がこぼれた時、「真尋」と呼ばれた。
唐沢がちょうど自転車で坂を降りてくるところだった。
「今帰り?」
「そう。唐沢も、部活終わったの?」
スピードを緩めて唐沢が私の隣に並んだ。
「うん、なんか、大丈夫か?」
「え?」
「落ち込んでんのかなって思ったから」
あまり人にそういう姿を見せないようとしているのに、鋭いなと思わず苦笑した。それとも自分で思ったよりも落ち込んでいるのかもしれない。
坂の下の方に視線を移した。
「そう見えたか―」
「見えた見えた。ほら、いつもならこういう時も、ちょっと疲れたーとかそんな返しばっかなのに、今日はどしたよ?」
かすかに自転車のタイヤが回る音を聞きながら、少しだけ言葉を探した。
「唐沢って、けっこう人のことよく見てるよね……」
「そうかな。別にそういうつもりねえんだけど」
自転車のかごからはみ出る大きなスポーツバッグを見ながら歩いていく。
「なんかちょっと今、調子が悪くて。新人戦無理かもーって」
「マジか……。それって体?」
「そう」
「肩? 腰?」
「肩」
「痛いの?」
「時々」
「ならさ、整体通う気ない?」
「整体?」
「スポーツ整体でさ、かなりいい先生なんだよ。オレ、親父が社会人スポーツやってるから、そういう関係の情報けっこうもってて。オレも知ってる先生だし、紹介するから、一度診てもらえよ。スポーツ障害とかになったらマジで笑えねーぞ」
もうスポーツ障害になってるらしい、とは言えなかった。
まだ初期だから治る可能性は十分にある。でも正しい運動方法と正しい筋トレをしっかりしていても、再発する可能性がないわけじゃない。
それに、なによりお金のことが頭をよぎった。
両親にとって習い事程度でしかない水泳のことに、そこまでお金を出してもらえるか、正直自信はなかった。
娘がいくら結果を残していても。
「オレ真尋が泳いでるとこ好きだしさ。中学ん時だって、県大会で結果残せてんだし、このまま諦めんのもったいないじゃん」
唐沢が自転車を押す手をとめて、スマホをとりだした。
そして「ここなんだけど」と言いながらスマホの画面を私に向けた。それをのぞきこむ。
アスリートも通う、スポーツ整体。
軽く見ただけで、一般的な人が通う整体よりも、専門的な単語が並んでいる。
「……すごそうなんだけど」
「だろ? けっこうその筋じゃ有名なとこなんだよな」
唐沢も同じようにスマホをのぞきこんで、画面の一角を指でタップした時だった。
「周くーん!」「田ノ上くーん!」
黄色い悲鳴が響いて、思わず唐沢と同時に正門の方を振り返った。
「すっげえな……」
唐沢が半ば呆れたような声でつぶやいた。
ちょうど帰るところらしい田ノ上周が正門から出てくるところだった。
男子生徒と3人でいる彼に数人の女子が遠巻きに手を振って、それに手をふるではなくかすかに頭をさげている。
そのうち、女子生徒の1人が田ノ上周に駆け寄って何かを差し出した。でも頭を小さく振って、少し先で待つ2人の方へと足早に向かった。
その後ろ姿に正門のあたりでたむろしている女子たちがまた手を振ったりきゃあきゃあ声をあげている。
一介の高校生だろうにすごい扱いだ。
「まるで芸能人だね……」
「だよな……」
田ノ上周は友人らしき他の2人に合流すると、少し話をするような感じで歩きながら、顔をあげた。そして近くで見ていた私と唐沢に気づいたのか、まっすぐにこちらを見た。
その瞬間、その顔がふわりと柔らかな笑みをたたえた。
「さよなら、幸田さん」
私と唐沢の横を通り過ぎながら、田ノ上周はさらににっこり、まるで許された人だけが持つかのような極上の笑顔で通り過ぎた。
あまりに唐突で言葉を返せないうちに、田ノ上周は坂を友人と下っていった。
「……真尋、あいつの弱みでも握ってんの?」
「……まさか。全然心当たりない」
なんとなく狐につままれたような気分で、私は唐沢とただそこに立ち尽くしていた。
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