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生徒会発足の顔合わせ。
そのために向かった生徒会室のドアを「失礼します」と声をかけてから引き開けた。
始まる時間よりだいぶ早めに来てしまったからまだ誰もいないだろう。そう思ったのに、室内には1人、私よりも早くに来ていた人物がいた。
すらりと背の高いその相手が振り向く前に、回れ右をしたくなる。
「早いね、幸田さん」
窓際の席に座っていた田ノ上周は、机の上の本をぱたりと閉じた。
その流れるような所作はとても優雅で、女子たちに人気な理由がわかる気がした。
「田ノ上くんこそ。あ、ごめんね、本。続きどうぞ」
なんとなく距離を置きたくて、ロの字型になっているテーブルで田ノ上くんから一番離れている角の席へと近づいた。
「ずいぶん離れたとこ座るね?」
本の上に手を置いたまま、田ノ上くんが小さく笑った。
なんだか変に動揺したのを隠して、「邪魔したら悪いかなって」と返すと、田ノ上くんが立ち上がった。
「じゃあ、オレがそっちに行ってもいい?」
「えっ?」
できれば遠慮してほしい。
はっきりそう伝えた方がいいのに、口に出すのを迷ううちに、田ノ上くんは本とテーブル下のスクールバッグを拾い上げて、ためらうことなく隣に来た。
「ずっと話したいって思ってて、だから生徒会で一緒になれて、オレすっげえ嬉しい」
極上の笑顔で言うから、思わず、遠慮してほしいと言おうとしていた言葉をのみこんでしまった。
確か、めったに見られない王子のキラースマイルがあると、アーちゃんが言っていた気がするけど、今のがそうだろうか。
「そ、それはありがとう……」
「どういたしまして」と笑いながら、田ノ上くんは隣の椅子を引いて座った。
「に、入学式の日に少し話、したよね」
スクールバッグからノートと筆記用具を取り出しながら、変な沈黙を避けるように口を開いた。
「そう。オレも覚えてる。桜もきれいだったけど、それ見てる幸田さんもきれいだったから」
ん? と動きを止めた。
なんでもないことを言ってるようだけど、けっこうファンだったら卒倒しそうな言葉を織り込んできた気がする。
「あの時できなかった自己紹介の続きさせてもらえない?」
「あ、うんそれはもちろん」
「じゃあ改めまして。オレ、田ノ上周。よろしく、真尋」
ん? とまた驚いて動きを止めた。
今までは名字でさん付けだったのに、いきなり呼び捨てにされていることに気づいた私が横を見ると、田ノ上くんは頬杖をつくようにして隣の私にその端正な顔を向けていた。
「オレのこと、周でいいから」
「いや……なんか、田ノ上くんのことはちょっとそう呼びづらいかも」
田ノ上周ファンの女子たちの顔が思い浮かぶ。あまり親密になるのは避けた方がいい。
「そう? 別に普通でしょ。名前でいいよ。オレ、真尋と仲良くなりたいし」
思わず息を飲んだ。
仲良くなりたい。
それってどういう意味だろう。
友達?
校内一の王子とまで言われる人気の男子が仲良くなりたいって、普通に言うものなんだろうか? それまで恋愛とかカレカノとかたいして興味がなかったせいで、田ノ上くんが言う意味がわからない。
混乱して、机の上のノートの字を無駄に見つめた。
「そんなかたくなんないでよ。もっと気楽に、友達なんだからさ」
友達、と言われて、ようやく緊張していた糸が緩んだ。
ホッとはしたものの、やっぱり田ノ上周ファンの顔がちらつく。
「でも田ノ上くんにそういうふうに呼ばれると、ほら、ファンの子たちにいろいろ誤解されそうだし、言い方少し気を使ってくれるとありがたいんだけど……」
「誤解したい人は誤解させておけばいいよ。真尋だって、よく男バスのやつと一緒にいるでしょ? カレシなの?」
「唐沢のこと?」
「たぶんそう、彼だって真尋って呼んでるし」
「カレシじゃないけど、でも唐沢とは中学からずっと一緒だったし、って、いやそういうことじゃなくて」
つきあってきた年数は全然違う。
それと比べられても困ると思っていると、田ノ上くんは体を正面に向け直して、小さくため息をついた。
「別に困らせたいわけじゃないんだけど。ただ……真尋とずっと話してみたいって思ってたし、普通に仲良くなりたいんだよね。……それ、迷惑?」
ちらりと横目でみられて、ばちりと目が合った。
どきっとして、慌てて目を逸らした。
同い年のはずなのに、大人びた目つきはこれまで出会ってきた男子のどれとも違って、なんだかそのまま見ていたら目を離せなくなるような、今まで知らなかった自分を目覚めさせられるような怖さ。
そんなの、同じ学年のたいして知りもしない男子に感じるなんておかしいのに。
「迷惑じゃ……ない、けど」
「よかった」
ホッとしたように田ノ上くんは息を吐くようにして机に伏せた。
誰に対してもいつも背筋を伸ばしてきちんとしているイメージの田ノ上くんが普通の男子みたいにしているのがなんだか意外で、ちょっと心配になった。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃない」
腕の中で反響しているような少しこもった声に力がない。
「どっか痛いとか?」
田ノ上くんが、腕のまんなかに伏せていた顔を私の方に向けた。ちらりと大人びた目つきが流れ落ちた茶髪の前髪からのぞいて、私はそれに囚われたように息をつめた。
「これでも真尋に話しかけんの緊張してたから、嫌がられなくて今マジでホッとした」
甘えるような響きに、心臓が変なふうにきゅっと縮んで、息が苦しくなった。
なんだろう、この感じ。
嫌なようなそうでないような複雑な気分で、パッと顔を正面に向け直した。
「そうなんだ。田ノ上くんでも緊張、するんだね。ちょっと意外」
「そう?」
柔らかい声がやけに近いような気がして、居心地が悪い。
思わずノートを開いた。
「せ、生徒会まだかな。私、少し様子見てこようかな」
「大丈夫じゃない?」
「田ノ上くんはここにいて。私、見てくるから」
立ち上がると同時に手を掴まれた。
「田ノ上くん、」
手を離してという言葉をのみこんだ。
真剣な瞳で田ノ上くんが私を見上げていた。女子たちが騒ぐその顔をまともに見られなくて、うつむいた。
田ノ上くんは黙ったまま、ただ掴まれた手ばかりがやけに熱く感じられた。
「田ノ上くん、……離してくれる? 手、を……」
変な汗で手のうちがぬるりとしてそうで、それを知られたくなくて、私は言葉を押し出した。
「周、って呼んでくれたら」
かすかに笑いながら、田ノ上くんは手を揺らした。どうやらからかわれたらしい、と気づく。
「呼ばない」
手を振り払って、ストンとイスに座り直した。
「手強いなー」
やっぱりからかわれている。
少しむかつきながら田ノ上くんの方を見ないように、スクールバッグから教科書と問題集をとりだした。
田ノ上くんとのおしゃべりにつきあっていたら、何かがまずい気がして、出されていた課題が載っている数学の問題集を開いた。
とはいえ、数学は平均点はとれるけれど、あまり得意ではない。
問1でそうそうに教科書をにらみつけるはめになった。
「オレ、数学得意だけど?」
学年トップレベルのテスト結果なのは知っている。でも、今教えてもらうのは癪だった。
教科書と配布されたプリントとで頭を必死で回転させる。
正直なところ、隣でにこにこと見られていたら集中できるわけがない。
途中までなんとか数式を解いて、はたとつまづく。
「そこはさ、左辺にあるルートの中を先に計算したほうがいいんだよね」
教えてとも言っていないのにヒントを出されて、言われたとおりにすると解き終えられた。
「……ありがとう」
悔しいけど、どこにつまづいているかすぐにわかって、しかも正解を言うのではなくさりげないサポートレベルのヒントを出せるというだけで、やっぱり頭がいいのだとわかる。
「お礼は、周って呼んでくれれば十分」
にっこりと田ノ上くんが笑みを浮かべた。一瞬、そんなに呼んでほしいなら、と思いかけて頭を振った。
「よ……ばないから!」
「だめかー」
がっかりした風もなく田ノ上くんは屈託なく笑って、「じゃあ次の問題やろうよ」と促した。
「いいから、田ノ上くんは読書の続きでもしてて」
「一緒にやった方が早いでしょ。生徒会終わった後、家で課題やんのとかかったるくない?」
それはそうだけれど。
「ほら問2、解いて」と急かされて、私はしぶしぶ目の前の問題集に向き合った。
同じ問題集を隣のイスから身を乗り出すようんしいてのぞきこむ田ノ上くんの顔がやたら近い気がする。
なんとなく問2の問題からちらりと横を見ると、思いきり田ノ上くんの大人びた目と合った。
それが予想以上に近くて、優しくて、思わずのけぞるようにして立ち上がった。
なんだか、自分が変だ。
「真尋、どうしたの?」
「う、ううん、やっぱり集中できないし、ちょっと水泳部の様子も」
言いながらその場から離れようとした。
その瞬間、手首をまたとられた。
「だめ」
柔らかく静かな声はくすぐったいような恥ずかしくなるような甘さがあって、一気に心臓がばくばくと鼓動を早くした。
いつもなら男子だろうと誰だろうと、適当にいなせるはずなのに、思考停止したみたいにうまく動けない。
「課題、まだ終わってないじゃん?」
優しくて、甘く低めの声。
背後で田ノ上くんが立ち上がる気配がした。
自分の体中、感覚が田ノ上くんばかりに集中するような気がして、思わず目をぎゅっと閉じた。涙がこぼれそうで、自分で自分のコントロールが効かない。
なんでこんなふうになるのか、なんで普通に接せられないのか。なんで、田ノ上くんの声がひどく甘く響くのか。
全然わからない。
誰かと沈黙になろうと平気だったのに、今は全然どうしたらいいのか、混乱して考えも感情もちりぢりだった。
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