3月17日

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『黒瀬!』  スマホから聞こえた声は前からも聞こえた。目の前には石橋が居て、額は汗で前髪が少し張り付いている。思わず手を伸ばしたら、その手を掴まれて思い切り人混みに入っていった。その人たちは皆家電屋の方を向いており、道路なのに信号を無視して立ち止まっていた。中にはスマホを向けて撮影している人もいる。  今の状況をやっと理解する。いやしていたけど、しようとしなかっただけか。 「美咲ちゃん飛び降りようとしてるんだよ! 全力で止めろ!」  気付けば人混みの最前列まで来ていたようで、目の前にはコーンで囲まれた開いたスペースに救助用の大きなクッションみたいなものが引いてある。その周りには沢山の警察が居て、石橋の声を聞いて全員こちらを見ていた。  恐る恐る見上げてみると、首が痛くなるほどのほぼ真上に美咲らしき女の人が立っていた。寒い風と踊っている髪、俺らの高校と同じ制服、俺より低そうな背。明るい赤い光の上に立っていて、逆光で顔は見えない。 「美咲! 死ぬな!」  そう叫んでもその場から動こうとしない。叫んだ俺の声が震えているからダメなのか。俺にはそんなこと考える余裕もない。    何度か死ぬなと叫んだら、彼女は通学バッグを投げ落とした。通学バッグは目の前でコンクリートに当たって大きな音を鳴らす。教科書や弁当の包み、体操服が散らばる。目の前の大きなクッションはバッグに付いていた鍵型のキーホルダーで穴が開き役目を終えた。  そのキーホルダーは修学旅行の時、お揃いとして俺がプレゼントしたものだった。  もう一度上を見て彼女を見つめる。止めなきゃいけないのに言葉は一向に喉に突っかかって出てこない。 「美咲ちゃん! やめて!」  隣で石橋が叫んでいるのも、警察が止めているのも、周りの野次馬がざわざわしているのも気にならない。俺はただ、美咲らしき人物を見つめることしかできなかった。  見つめて何秒経ったのだろうか、10秒、30秒、1分経っているかもしれない。何も考えられなくなって見つめていると、彼女は横を向いて右足を宙に浮かせた。やばい。髪が風に逆らった方向を向き、さっきまで見えなかった顔は白いライトに照らされてハッキリ見える。やめろ、死ぬな、と俺も口にした無責任な言葉が次々彼女の体に刺さる。目を閉じて、口を少し開けたまま頭から落ちていく彼女は美咲だ。    パンッと液体のはじける音、泣きわめく他人、悲鳴を上げる石橋、頭に響くサイレン、その音の中に混じる動画を撮り終えた音。目の前に広がる光景は俺の脳を刺激する。変な匂い、赤黒い液体、バラバラになった細い体、大人でも頭のおかしくなりそうな地獄が三角コーンの先で起きている。抱えきれない現実を体で受け止めることができず、赤いコンクリートが写っている目から透明な涙が零れ落ちた。  周りの雑音がどんどん遠のいていく。おかしくなった頭では、飛び降りる直前の美咲の顔が浮かんだ。  美咲の顔は美しかった。
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