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「神様が返してほしいって」
夜中に熱を出して寝込んでいた娘が、起きて開口一番そう呟き、景子はギョッと手を止めた。
「返してほしいって何を?」
突然の娘の言葉に戸惑いつつ、景子が聞き返すと、江美はキョトンとした顔で答えた。
「江美の〝使い過ぎた運”。足りないから、返してって」
「何それ……」
江美は未だ言葉を飲み込めていない景子を置いて半分体を起き上がらせると、まだ熱を有する指先でベッド横にある窓の外をそっと指差した。
「ほら、あれ。来てる」
「え?」
江美の寝るベッドに腰掛け、景子が半信半疑に同じよう覗き込んだ窓から見た団地の外には、確かに泥か水にでも濡れたような濃くハッキリとした足跡が点々と残され、それは真っ直ぐこちらに向かって来ているかのように見えた。
何より景子を青ざめさせたのは、それが過去についた足跡などではなく、刻一刻とリアルタイムに何も無い所から湧き出るように生じていた足跡だった点だ。
「え、江美!ちょっとベッドから動かないで!」
景子は江美にそう言い放って引っ込むと、裸足のまま玄関から数歩出て、
勢いそのまま階下が一望できる踊り場に軽く身を乗り出して、その足跡を覗き込んだ。
それは″ひた、ひた”という効果音がまるで目に見えるかのように、不気味に静かに確実に、その歩を止めずにこちらに変わらず進んでいた。
「ひっ……!」
ここの団地は五階建て。景子の部屋は四階。
あと三つほど階段を上れば、その足跡が来てしまう――。
慌て震える足で景子はどうにか部屋に戻ると、乱暴に玄関を施錠してチェーンロックをかけた。
「江美!江美!」
名を呼びながら江美の元に急ぐと、先程まで半分起き上がっていた江美の体は再びベッドに息荒く横たわっていた。
「江美!大丈夫?どっか痛いの?」
ベッドに飛び乗って抱き上げた娘の体は軟体動物のように項垂れ、その瞳は一途に心配する景子を捉えず、ジッと玄関の方に向けられた。
「多分あれ……、意味ない」
「え?!」
江美を抱きしめていない方の手でスマホを持ち、119を押そうとしていた景子の指が止まる。そして画面から江美の目先へと変わると、そこには障害物などものともせず、既に部屋の中に入り込んでいた足跡があった。
「ひぃぃ……!!」
それは緩やかに着実に、ベッドの鼻先にある廊下に瞬き一つする度に新しい足跡を刻み込んだ。
景子は、畏怖、恐怖、絶望、悲しみ――、どれとも言えないごった返した感情が溢れ出すのを抑えるように江美をギュッと抱きしめると二人で布団の中に潜り込み、年甲斐も無く大きな声で泣き叫んだ。
「お、お願いします!連れていかないで!″足りない運”は必ず納めますから!お願い!お願い!」
江美の体から出る熱気と、景子の泣き叫ぶ熱気で、布団の中が蒸し風呂のようになった頃、ふと「大丈夫ですか!」と問う微かな男の声が景子の耳に届いた。
布団を剥ぐことに恐怖と抵抗はあったが、ずっとこうしている訳にもいかない。一縷の望みと決死の思いで景子はバッと布団から顔を出し、迅速に周囲を見渡した。
そこには相変わらず誰かの〝姿自体”は無かったものの、ぐるぐると円を描いて地団駄を踏んだような足跡が、景子たちがいるベッドまであと数歩という
所で続かずに消えていた。
「聞こえますか!火事ですか?救急ですか?」
繰り返し声がする方へ景子が顔を向けると、布団に潜り込む前に放り投げてしまったスマホの画面には119の文字が表示されていた。
その後、事情を説明した景子の家には数十分ほどで救急車が到着し、江美は無事助かった。
返ってきた平穏な日々の中、景子は自分にしか見えなくなった何日、何ヶ月経っても消えずにある足跡を眺めながら、今日も奉納品についてぼんやり思いを巡らせ続けるのであった。
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