0人が本棚に入れています
本棚に追加
リーチ・フォー・ザ・スピリット
僕はお婆ちゃん子だった。
――妙に絵になるよね、チビ助と年寄りって。
――距離が近い同士、時間の肌目が合うんじゃない?
――あー、離れ際と、着く間際、か。
――うん。
なんのことだか、わからないままだった家族の声が意味になって腹に落ち着く。
なるほど、だから、僕は空に足跡をみつけた。着く、間際の一等賞として。見上げた空に、黒く点々と歩いて行く透明。
――う、わーー。
目で追ううちに、いつしか、逆さまになって空の足跡を踏んでいた。髪がバッサリ後ろ髪が顔に近くてシャンプーを変えようと思った。
逆さまにみる世界は僕にとって初めて見る正しい向きの世界だった。ここでなら、邪魔にされないと、足跡を追い越したくなる。けど、できない。
――ちょっとお。
え。
空で声を聞いた。
――この足跡は、こっちからそっちへの足跡なんですけど。そっちからこっちに来てどうするのよ。
知らないよ。
女の子のような声だった。果実に例えるなら緑のプラム。お日様がうっかり落っことした声。
――でも、僕が先、だったんだから。
――当り前じゃない、誰も下から来るだなんて思わないじゃない。こっちで一番になればいいって、思ってたんだから。そして、私はこっちの一番なんだから。どきなさい。そこ。
嫌だね。
――僕は初めて、世界をしっくり見ている。どくことはできない。このまま、足跡を追って行くんだ。
――なにを言ってるんだ、逆さまバカ。見なさい、足跡が困ってしまって往生しているわ。階層を徐々に下げていくはずだったのに、あんたが重くてそれができないのよ。どきなさい。
嫌だって、言っているじゃないか。
――それならそれでいい。ずっと、この高さのまま。下へも上へも行かなくていい。むしろ、それがいい。
――そんなことは許されない。そろそろバグのハレーションが起きるわ。
声は井戸に垂らした足から血を絞るようなことを言う。僕は空の逆さま歩行のまま、笑った。鼻の奥に血の臭いがした。
――ほら。始まった。
女の声が始まりを告げる。
足跡が混じり始めた。鳥の足、獣の足、人間の足。縦横無尽。無数の足跡が空を一枚に剥いていく。
僕の踏むべき足跡は……。一瞬迷った。けれど、踏んだ。それは……。
――斬首だ。
は。
――あーらららら。それは月面の足跡よ、盗品のね。バレちゃった。怖いぞ~。
逆さまに鎌が光る。反射に三日月がいると思ったら、鎌自体が鋭利な三日月だ。
――ほら、首、斬られる前にどきなさい。私なら、平気なんだから。
声が、あんぱんを割って大きい方をくれるみたいに言う。
僕だって、平気だ。
首が、飛んだ。
ダッシュ。三秒ルールを広辞苑で引いたことがある。
こう出ていた。
辻斬りで首を斬られた際、三秒以内に胴が頭をみつけて据えればくっつく、しかし、傍らの頭と見比べて迷い三秒を越えると手遅れ、比較に負けない頭を持とう。
――誰に、醜いと罵られようが、僕は一度もそんなこと思ったことはないんだ。いーち、にーい。ほい。
マトリョーシカの継ぎ目のように、首がキュコンと空に音として駆けた。足跡は、いっそ、乱れる。もう、どれが踏むべき足跡か、これまで踏んで来た足跡か、わからない。
――構わない。
僕は次々に足跡の夢をみた。
吸着自慢ヤモリの足跡は平面自慢窓ガラスに永久を生む覚悟だったのに、無粋な引き分け嫌い審判に石を投げられてしまう。砕けたガラス、が僕の頬を切った。
――カ・イ・カ・ン。
――バーカ、美談にするな、危ねー。
女の声がついてくる。
僕がいつか夢に怯えて逃げ帰ると思っているんだ。
生憎、僕には帰るところの方が怖いんだ。
――面白いよ、足跡の見せてくれる景色は、どれも。飽きない。
――強がり。下の者がこっちのイメージに耐えられるはずないんだからね。キャパが違うんだから。悪い事言わない。今のうちに、戻りなさい。
嫌だね。
僕はお婆ちゃん子だった。
世界は丸い、前と背中と、あるから世界。見る者、あるから、世界だ。足跡がグルグル、空を埋める。走ろう。ステップ、僕は、気持ちがいい。砂漠で足にハメられた鎖は骨を喰った。プールサイドの偏平足は体育教師に嘲笑された。古い旅館に住みついた座敷童の足跡は村おこしに祭り上げられるも、利権をめぐってミステリー小説の元ネタになった。
――いい気なもんね。
――あー、いい気分だ。
凄くいい気分だった。僕が一番にみつけた足跡を、また踏むまで、遊んでればいい。世界を何周したとしても、いつかは踏むんだから。
――ご愁傷さま。
まだ、それは早い。一番だけど、近いだけで、まだ、届いてはいない。
――僕はまだ死んじゃいない。
――だから言ったのよ。ご愁傷さま。生きてるなんて、ご愁傷さま。
――なんだって?
――さよなら。
声が消えた。
と、同時に足跡が全て消失した。
病室。
の、
天井に、
足跡が、みえない。
――トモくん。
なんだ、お婆ちゃん。世界の背中は、面白かったよ。
――帰りな。
――厳しいね、お婆ちゃんだけだ、そんな優しいこと言ってくれるのは。
――あれだけのイメージに怯えないんだ。大丈夫。
――かなぁ。
――きっとよ。
――かなぁ。
どうかなぁ。点滴を僕は数える。翌朝、ベッドのシーツに無数の足跡をみた。
最初のコメントを投稿しよう!