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足あとに大きな関心を注ぐのは、もちろん若者ばかりではない。
大人だって、真面目に足あとには関心を注いだ。
大学では、足あとについてさまざまな角度から研究する、いろいろな学問が早々に確立された。
足あとに関する歴史を研究する学問や、形などにより細かく分類する学問、また社会とのかかわりについて研究する「文化足あと学」が流行った。
また殺人現場なんかに残された足あとの解析はものすごい精度で行われ、それでまさに「足がついた」透明人間の犯人も多く検挙された。
そしていわゆる知識人のあいだでは、足あとについてどのくらい知っているかが一つの大事なステータスになった。
そんな人々は、ラジオやポッドキャストなんかでその知識を自慢げに披露した。
また(主に若手の)知識人どうしで、そんな知識を競い合う番組も人気になった。
こうして、皆、必然的に足元ばかりを見ながら生活するようになったのである。
足元に注意しながら歩くので、うっかりガムや犬のフンなんかをふんづけることはめったになくなったけれど、しかし代わりに、少し困ったことも起きはじめた。
足あとから知りえないことに、まったく鈍感なのだ。
たとえば、ご先祖様の幽霊が、たまにこの世に遊びにくる。
その手の感覚に敏感な人であれば、その存在には気づいたものだ。
しかし透明人間の世の中では、皆足あとばかりに注目し、そこに表れないものは信用できなくなっていたから、もう足のないご先祖様の幽霊はまったくもって無視された。
そして気づいてもらえない哀しさからか、あるいは気づかれる心配のない気安さからか、世の中には幽霊がより頻繁に現れるようになった。
さらには、世にも不思議な動物、たとえばスフィンクスやミノタウロスが突然この世に表れて足あとを残したとしても、その足あとがただの獣のそれだったり、人間のそれだったりしたおかげで、誰からも関心をひくことはなかった。
こうして、足あとだけをじっと見つめる透明人間の考える世界と、実際の世界とはどんどんかけ離れていったのである。
この話を、とっぴょうしもない絵空事だと思うだろうか。
そんなことはあるはずがない。むしろこの話は、これ以上ないノンフィクションだ。
われわれはいつだって、目に見える不完全な情報だけに頼っては、それぞれの意見を戦わせている。
そんな知識というものがどれだけ、真実とは無関係でも。
そしてSNSが発達し、だれもがスマホを見つめる今、そんな傾向はますますとどまるところを知らないのだ。
(完)
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