第三章 不穏な曇天

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         *  もともと曇っていたせいか、十七時ごろには町は夜の帳が下りていた。ホテルや旅館の灯りがほんのりと湯田中温泉の町を照らす。  湯田中駅のすぐそば、旧駅舎を改装した温泉施設があり、旅の終わりに気軽に立ち寄ることができる。とは言え、いつ新たな情報が入るかもしれない携帯電話を手放すわけにはいかず、ましてや警察手帳も拳銃も携帯したまま気軽に温泉施設を利用するわけにもいかず、夏帆と葛木は施設の前にある足湯に浸っていた。 「足だけしか浸かってないのに、身体全体が暖かくなるのって不思議よね」 「確かに」 「身体って、全部つながってるって実感するわ」  夏帆はうーんと伸びをした。足湯を囲うように、何本かの木がそびえ立っている。風に揺られて、枝に積もった雪がドサドサッと落ちていく。雪下ろしのされていない近くの建物の屋根の下には、大小たくさんのつららがぶら下がる。凍った道を人も車もゆっくりとしたスピードで行き交う。滑らないように慎重に、というのもあるだろうが、こんな風景を見ていると、そもそも日常が慌ただしく急ぎ過ぎなのだとも感じる。東京は時間すら早く感じる。  先に足湯に浸っていた浴衣姿のカップルが立ち去っていったタイミングで、夏帆と葛木の会話は事件の話に戻った。  田島孝輔殺しの捜査本部が置かれている中野東署での収穫は、結局、ほぼゼロに等しかった。長野県警の捜査方針としてはあくまで強盗殺人。もちろん、闇雲にその線だけを追っていたわけではなく、怨恨の線も当たったようだが、関係者全員にアリバイがあり、消去法的に強盗殺人の線で一本化したという話だった。夏帆たちにとってもっとも重要な情報である、田島孝輔及び田島記念病院と尾形哲夫との接点については、長野県警の返答は《現時点では把握していない》だった。その返答からも、被害者の周辺捜査が不十分なまま強盗殺人に一本化したのだと察しが付くが、《現時点では》の但し書きを付けて、捜査に落ち度はないと予防線を張っているように思えた。  情報提供はそこまで。長野県警としては警視庁からの正式な捜査協力依頼を受けてはいるが、あくまでそれは尾形哲夫殺しに関する捜査についてであり、二つの事件の関連性が定かでない現段階で、自前の事件情報まで事細かに提供する必要はないというのだ。関連性が定かでないからこそ情報共有が欠かせないと夏帆は真っ向からぶつかっていったが、刑事として長野県警の主張は解らなくもない。無理なゴリ押しをせずあっさり引いたのは、双方譲らぬまま無駄な時間と労力が削られることは避けたかっただけだ。  ちなみに昨日逮捕されたチンピラ二人は、案の定、すでに釈放されていた。二人とも暴力団吉富会の元構成員。夏帆を襲撃した件については、《ナンパしようとしたが失敗し、腹いせに威圧したら反撃された》との一点張りだったという。そして二人の身柄を面倒みると言って引き取っていったのは、他ならぬ児島警部補だったらしい。それでは自分の関与を大っぴらに認めているようなものだが、そこにあえて深入りしようとしなかったのは中野東署の署長の判断もあったようだ。組織の上の方の人間はどこでも、自分の在任中に自分の部下の不祥事が発覚することを嫌う。組織の自助作用が機能しないわけだ。 「でもま、児島の関与が確定的になったんだから、それはそれで良しとしましょ」  夏帆は湯から足を引き抜く。温まった皮膚が冷たい空気に晒されて気持ちいい。  そうして中野東署をあとにした夏帆と葛木は、町役場や地域の学校など、そこで生活していれば誰もが関わるだろう場所を手分けして当たったのだが、尾崎哲夫の痕跡を見つけることはできなかった。  逆に言えば、尾崎哲夫の接点はこの町の生活ではないということが明らかになったということでもある。夏帆の捜査は直感的な決め打ちがほとんどだが、あらゆる可能性を一つずつ潰していくのは捜査の鉄則ではあった。  電車の音が近づいてくる。この電車に、和泉と片山が乗っているはずだ。
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