第三章 不穏な曇天

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 リストラか。恨まれる理由はあるわけだ。  殺された田島孝輔の息子は二人居り、どちらも医師だと言う。能川先生と言うのは田島孝輔と同年代の医師だそうだ。彼女がそうしたことをよく知っているのは、自分の母親が長年通院しており、その関係で詳しいのだと言う。 「そろそろ仕事に戻らないと」と彼女は言い、お食事処を去り際に、「絶対に私が話したことは内緒にしてください」と頭を下げていった。  暴力団関係と駐在の児島がつるんでこの町に入り込んでいる以上、彼女のように話をしてくれる人間がどれくらいいるだろうか。彼女はまだ、頑張って話をしてくれた方だと思う。明日は外堀を埋めるために町中の聞き込みをしようかと思っていたが、だったらいっそ、田島記念病院を再度直撃した方がいいかもしれない。  お土産物を見てくるという和泉と別れ、夏帆は一旦自分の部屋に戻ってから、衣服をまとめてコインランドリーに向かった。昨日の今日で何か仕掛けてくることはないだろうと思ったとおり、今夜は尾行さえなかった。向こうもこちらを警戒しているのだ。  洗濯を終えて部屋に戻る。隣の部屋に、葛木だけが戻ってきていた。「女将さんや板前さんに話を聞こうとしたけど、口が固くて――」と葛木は頭を掻く。収穫なし。仕方がない。夏帆は警察手帳と拳銃を葛木の部屋の金庫に預け、温泉に行ってみることにした。こうした出張のときに泊まるのは、普段なら良くてビジネスホテル。ネットカフェや車中泊だってざらにある。せっかく温泉地に来てるんだから、ちょっとくらいゆっくりしたって罰は当たらない。  警察官はいつ何時でも警察手帳を身につけておかなければならない。しかし、拳銃ももちろんだが、それらを紛失するほうが厄介だ。銭湯や温泉を利用するときには防水ポーチに入れて肌身離さず持ち込む真面目な警察官もいるようだが、さすがにそんなことはしたくない。  大浴場は湯船だけでテニスコートほど広さがあり、さすが老舗ホテルの温泉という感じだ。広々として気持ちがいい。平日だからか、他の宿泊客は入っておらず、貸切状態だった。広々した内風呂から、日本庭園のような露天風呂へ。足元には雪が残り、素足で踏まなければならず身体の芯まで冷たいが、我慢の甲斐あって湯に身体を沈めたときの快感はひとしおだった。オレンジのほんのりとした灯りに照らされた静かな時間。心地良くて現実を忘れる――のが普通だろうが、夏帆にとっては刑事が現実であり、片時も捜査のことを忘れることはない。  今回の事件で殺されたのは尾形哲夫と田島孝輔。今のところ、二人を結ぶ接点は救急車かドクターカーだと思われるが、まだ目に見えてはいない。  尾形哲夫の側の登場人物は、職場の同期の山本と藤川、その他仕事関係の人間。  田島孝輔の側は、ほとんどが田島記念病院の関係者。名誉院長であり孝輔の義父である田島幸三。孝輔の妻で現院長代理の田島秀子。事務長の大石。地域連携室長の看護師、佐々野彩音。それからまだ会ってはいないが、孝輔の二人の息子と能川医師。さらに、駐在の児島典安。  火照った身体を少し冷やすため、湯船のふちに腰かける。急激に冷やされた皮膚が、体内の熱を逃がすまいと収縮する。夏帆は凝り気味の首をぐるりと回した。
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