第三章 不穏な曇天

11/11
前へ
/60ページ
次へ
         *  どこもかしこも禁煙の時流につき、警察官の喫煙者は悩んでいる。公務員が堂々と歩きたばこをするわけにもいかず、ましてやポイ捨てなんか言語道断。となると、吸えるところは限られてくる。大抵は、警察署の駐車場の隅だ。片山仁志は中野東署の暗い駐車場の端を静かに歩き、煙草の吸い殻が集中的に落ちている場所を見つけていた。  中野東警察署の駐車場は二ヶ所。正面玄関前は来客用で、裏手が捜査車両専用。吸い殻が落ちているのは当然裏手の方で、ちょうど木が生い茂り、暗い場所だった。  好都合だ。冷え込む夜空の下、片山は煙草をくわえて待つ。  三本目の煙草に火をつけたとき、一人の中年の刑事が現れて、「お疲れさん」と煙草をくわえた。  片山は長野県警にとっては部外者だが、相手から何の疑いも持たれないのは、こんな場所で煙草を吸っている男はこの署の刑事に違いないという先入観に他ならない。場所も暗くて顔も見えない相手には警戒してしかるべきだが、警察官は組織の人間だからこそ、自分たちのテリトリーにいるとつい安心しきってしまうのだろう。そもそも、長野県警だけで約三千人の警察官がいる。一人一人の顔や素性なんか覚えていなくて当たり前。だからこそ、警察と言う組織は、内部に対して不用心なのだ。 「お疲れさん。こっちは窃盗の捜査だが、一日歩き損だ。そっちは強殺の捜査か? 調子はどうだ?」  片山が尋ねる。相手は完全に気を赦した口調で、「いやあ、さっぱりだ」と答えた。 「防犯カメラもない。目撃者もいない。まさかあんなところで強盗事件が起こるなんて、盲点だったなあ」 「ハイリスクハイリターンってとこか?」 「まさにそれだ。獲物が偶然大物だったってことだろう。何せ、田島記念病院の院長だからな」 「なあ、本当に怨恨の線はないのか?」 「そりゃ、田島秀子は今や院長代理だし、息子たちもあまり父親のことを好いていなかったって話だし、先代の院長は婿養子である被害者に対して冷たかったという話もあるし、同機はあるんだ。でも、アリバイがなあ――」  アリバイか。昼間、西岡夏帆が捜査情報を集めに来たときには、東京の事件とのつながりの不明確さを理由に、表面的な情報しか得られなかった。  だからこそ片山は、こうして内部情報を得ようとしているのだった。警察のスパイ的な職務を担う公安部の捜査員だった片山は、情報収集のプロだ。  なるほど、アリバイか。いい情報だ。 「アリバイ、崩れそうにないのか?」 「長男と次男は二人で、自宅で飲んでいたらしいから、共犯説ならあり得るが。もちろん証拠はない。先代の院長は足が悪いから直接の犯行は無理だろう」 「誰かにやらせた線は?」 「まあ、ありえなくもないが。夫人のアリバイは確実だ。浮気相手との密会を写真に撮られてるからな」 「写真か。誰が撮ったんだ?」 「佐々野って看護師だよ。田島秀子は、事務長の大石と不倫してやがってな、大石は被害者との折り合いが悪かったらしいから動機があるんだが――もちろん、その大石と不倫をしていた秀子にも動機はあるが」 「佐々野は?」  片山は吸い殻を携帯灰皿にしまう。 「彼女は被害者のお気に入りだ。もしかしたらデキてたかもしれんと言う噂もあるが。だとしても、彼女には動機がない」 「佐々野が写真を撮ったのはなぜだ?」 「本人が言うには、院長夫人と事務長の密会現場を目撃してしまって、被害者に知らせるつもりで、思わず写真を撮ったらしいが。まさかそのとき、当の院長本人が殺されているなんてな」  刑事は煙草の吸殻を落として踏み消し、「しかし、今日は冷えるな。お先」と署内に戻っていった。一人目から口の軽い男でツイていた。  しかし――たった一枚の写真が、三人のアリバイを証明している。片山はそのことに小さな違和感を抱きながら、四本目の煙草に火をつけて歩き出す。
/60ページ

最初のコメントを投稿しよう!

169人が本棚に入れています
本棚に追加