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遠く遠い磯の香りが漂う。
深く吐いた息は沈み、沈殿された漆黒と共に深く鈍く落ちる。
淡く鮮やかな蒼(そのいろ)は、清々しさを変える事は無い。
そして何かの声が聞こえる。
懐かしくて、身近で、とても大きな声。
その聲は。
紛れも無い、”猫”でした。
七日町(なぬかまち)
古めかしい住宅街と、其処に点在する中古店が印象的な、古典的な街。
全体的に趣を漂わせており、それは書籍の分野でも小物雑貨の分野でも。そして、何より。町一番の名物に関しても変わる事は無い。
歯触りが楽しいフランスパンに、これまた新鮮な野菜や生ハムを挟んだその一品は、限定五食の限られた一品。開店と同時に殆ど完売が確定するほどの絶品な品。だが、店の雰囲気から新しい洋食店という印象は無い。
殆どが常連の中での取り合いになる為、知る人ぞ知る幻の逸品だという価値を失わせない。テレビ局の取材の中で、その味わいに感動したリポーターが絶賛の感想と共に、非公式ながら隠れたリピーターとなった程。
それは格別な朝食の一つだ。
「相木(あいき)くん。朝早くからご愁傷様です。今日は、私の方が一足二足早かったらしいですね。大変清々しい朝になりました。そして、おはようございます。」
「……鴎さん、おはようございます。貴方様の晴れやかしい表情が頭に来ましたので、強硬手段に出てもよろしいでしょうか?」
膝まで伸びる艶やかな黒髪が印象的な彼女は、わざとらしい言葉を以て戦利品を見せびらかす。
洋食の麺麭を用いて、さっそくと言いたげに齧り付くその姿はその雰囲気さえも崩さない。彼女の家元である神社の箱入り娘という定義を崩さず、しかしておてんばな印象を与えるように悪戯好きの顔を隠さない。
十数回の咀嚼の跡、彼女はそれを飲み込みながら此方を見る。こちらの手元には、それなりに人気なメロンパンが一つ。値段は手ごろで、学生の身分としては懐に優しい逸品として知られている。
「もうすでに私の物ですよ、相木君。残念賞ですね」
「食べ歩きとは。……父方に怒鳴られるのでは?」
「相木君も共犯です。その時は仲良く怒られることといたしましょう」
季節は冬を過ぎ、春というには名物の枝垂れ桜が散り始めた頃。
五月蠅は見えないけど、静かに降りゆく雪の代わりの雨音が、だんだんと頻度を強めるような、何とも言えない季節に差し掛かる。
顔見知りがそろう学校生活には不満が無いが、それでも、所々に進路の話がちらちらと語る事とが多くなる二年目に入った。
休日。何時も通りに朝食として、定番の一品を買おうとしていた所。
何の因果か、好物の因果か。名護さんと俺はこの場所で出会う事が多い。もともと中学から名前や顔は知っている程度の知人ではあったけど、その好物に対して張り合いのあるライバルとなってからは、そんな関係が続いている。
休日に顔を合わせたら、お互いの戦果に軽口の応酬をする程度の中だ。それも嫌悪からではなくジョークの反中でそんな会話を時折する。
彼女の名前は、名護鴎(なごかもめ)。
名護神社と呼ばれる神社の一人娘。
「そういえば、相木君」
「何でしょう?」
「バイトに励んでいると聞き及んでいるのですが?」
丁寧な口調が崩れない彼女に引っ張られるように、稚拙な言葉でしか表現をしてこなかった自分でさえそれは形となるらしい。
自分自身の言い方さえ改善されるような名護さんの所作に、背筋が伸びるのは気のせいではないようだ。
厚紙を畳み、何時もの公園でゴミを捨て、彼女は少しばかり落ち込んでいるような気を感じさせていた。
「例の、骨董店に」
「……そうですね。一応店員としては」
例の骨董店。
その言葉を、俺は初めて彼女の言葉から聞いた。
例の、噂の。そういった名詞が付け足された我がバイト先は、確かに彼ら彼女らの語る通り普通ではない。……いや、外見上、昨日場としては確かに別段不可思議は無い普通の店だ。
だが、物事には裏がある様に。
俺のバイト先も、普通ではない。
「……それでは、相木君は」
「はい?」
噂は噂として広がっていることを知っている。
だが、それは所詮噂に過ぎない。興味本位の話が物語として綴られ、そういうものがあったのだとひっそりと幕を終えるのはいつもの事だ。
小さく建てられた骨董店の噂話など、七十五日も日を跨ぐ事無く、別な噂に埋もれていくだろう。情報は新鮮である事が話題としての義務だ。
そして、我が骨董店の噂は、ここ最近聞こえなくなった話題である事を知っていた。
「魔法。……いえ、そういう類の物。を、信じていますか?」
だから、名護さんからその言葉が放たれた時。
俺は少しばかり、驚きの表情をしたのだと思う。
「魔法。……ですか?」
「……どちらかというと、呪い……の方が近いでしょうかね?」
「呪い。……神社で何か?」
「……」
その顔に。
その表情に。
彼女は、俺をどう見たのだろうか?
「こんな事を話すなんて、馬鹿馬鹿しいと思います。……でも、相木君」
意を決した。
そんな心情を含めながら、名護さんは語る。
「話を聞いてくれませんか?」
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