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第九話
環君が行きたいといったのは、東京タワーの展望台だった。
その前に、駅のトイレに寄り、環君に待ってもらって母へと連絡をした。
「もしもし?」
「あぁ、どうしたの?」
「少し遅くなりそうだから、今日私が帰って直接泊まるよ」
「え?あぁ、朝も言った通り別にいいわよ。こんな時ぐらいしかゆっくりできないんだから。明日幼稚園があるわけじゃないし」
でも、と言葉を紡ごうとしたが、母が璃子に"やっぱり今日ママ遅くなりそうだから、ばあば達と寝よう"と言っているのが聞こえた。そして璃子の"やったー!"という声も。璃子の明るい声が、少し罪悪感を消してくれた。
「じゃあ、そういうことだから切るよ。楽しんで来なさい」
プツッと電話が切られた。もう切られているとわかっているのに、スマートフォンを耳に当てながら、
「お母さん、ごめん」
と呟いた。『朝、迎えに行きます』とメッセージを打ったところで、強めにノックをされ、慌てて私はトイレを出た。
こちらに背を向けるような形で、トイレ近くの柱に体をもたれて待っていた環君に声をかけようとすると、環君も誰かと電話をしているようだった。
「今日は無理だよ、出かけてるから。誰とって…お前には関係ないだろ。とにかく今日は困るから。じゃあ」
声をかけるか迷った。盗み聞きされていたと思われたら嫌だろうし、ともう一度トイレへ入ろうとすると電話を切った環君が振り返って、
「綾子さん」
と少し焦ったように言ったので、話は聞いていない体で、
「行こうか」
と言った。
赤羽橋駅を少し歩くと、東京タワーの入り口が見えた。
考えてみると、東京に住んでから数えるほどしか来ていなかった。
環君は、いつもより少し早歩きな気がした。楽しみなのだろうかと思うと可愛くて、少し引っ張られるような形の腕に嬉しさを感じた。
チケットを買って、展望台のメインデッキへ上がった。
家族で見る景色は、いつだって昼間だった。だから、知らなかったのだ。ここから広がる夕暮れの世界がとても美しいことを。薄桃色の明るい光が、だんだんと闇に溶けていく姿に、息を呑んだ。
ほんの数分だったかもしれない。いつの間にかビルのライトが星のかわりにきらきらと光っていて、夜が訪れていた。
「綺麗ですか?」
「うん、とっても」
「それなら、良かった。俺も、一緒に見れたらいいのに」
環君の言葉で、現実へと引き戻される。結局、私一人で楽しんでしまっていた。なんて言葉をかけたら良いか考えていると、環君が言葉を続けた。
「ぼんやりだけど、俺も見えるんですよ。でも出来ることなら、綾子さんと同じ様に見たかったな…」
気づけば、環君は私の後ろに回り、抱きしめていた。
「綾子さん、好きです」
初めて結ばれた時と、同じだった。あの時は、何も返せなかった。回された環君の大きな手にそっと自分の手を重ねると、微かに震えていた。きっと、こんな風に長く一緒にいれるのは今日限りかもしれない。機会があったとしても、数えるほどだろうと思う。それならば、今日だけは自分に素直になろうと決めた。
「私も、環君が好きだよ」
手を重ねたまま、環君を見上げると、少し驚いたような表情をして、そのまま笑顔になった。それが嬉しくて、私も笑った。
「今日は、泊まっていってくれますか?」
断る理由は無かった。頷くと、環君は、私を抱きしめる腕に力を込めた。
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