第一話

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第一話

お気に入りのルージュを唇に乗せるこの瞬間が好きだった。疲れのせいか年齢のせいか輪郭がぼやけた唇の線。それをリップライナーでなぞって、選んだ紅で彩れば全体がぱっと華やぐ気がした。 「ママ、きれいね」 鏡の前で化粧をしていた私に、璃子が大人びた口調で言った。 璃子は幼稚園に入ってまだ一年の歳だが、女なのだ。きれい、という言葉で女が喜ぶことをよく知っている。 「ありがとう。璃子も可愛くしてあげる、おいで」 璃子の子供特有の細くしなやかな髪をポニーテールに結い上げた。そしてリボンの飾りをつけてあげると、リボンを弄りながら頬を綻ばせた。 「ママありがとう」 「どういたしまして、ほら。幼稚園遅れちゃうから早くご飯食べなさい」 そう促して私も髪を軽くまとめ、キッチンへと向かった。 璃子用の小さいお弁当箱にはそぼろと卵を詰めて、海苔とチーズでウサギを作った。そしてもう一つの大きなお弁当箱には同じようにそぼろと卵を詰めて柴漬けを端に添えた。 「いよいよ人事の発表も今週か」 月曜日だからなのか、人事のせいか夫の孝幸の顔は曇っていた。リビングでパンを頬張っていた璃子の頭を軽く撫でて、自身も食卓についた。 もしかしたら遠くの支社に移動になるかもしれないとこの間、孝幸から聞かされていた。私も元々同じ会社の出身だから、そういう人事の噂はあながち間違いではないことを知っているし、少なからずどこかへ移動にはなるのであろうと思った。 「移動になったとしても、遠くになるとは限らないし」 「そうだけどさあ、2度目の移動だからな。遠くでもおかしくないだろう」 「そうね」 「そしたら寂しいよ、璃子もこんなに可愛い盛りなのに中々会えなくなるんだから」 孝幸はため息をついて、バターを塗ったトーストに齧り付いた。2人分のコーヒーを入れ食卓につくと、私も同じようにトーストにバターを塗って齧り付いた。 「パパ、どこかへ行っちゃうの?」 「うん、もしかしたらお仕事の都合で別に住むかもしれない」 「ふうん…」 璃子の顔も曇ってしまった。この人の考え無しな言動は昔から好きではない所の一つだった。璃子はまだ小さいのだから、いきなり言われてもすぐにはそのことを理解出来ないだろう。だが不安になるのは間違いなかった。だから、きちんと決定した人事が出るまで無闇に言って欲しくなかったのに。しかしさらにそう捲し立てると、月曜日の暗い食卓は更に重い空気になってしまう。孝幸にも璃子にも、そんな気持ちのまま行って欲しくないというのがせめてもの私の願いではあった。 「さあ、月曜日は元気に行こう。パパもまた決まってから考えようよ」 「うん…そうだな」 孝幸はトースト食べ終えコーヒーを飲むと、食器をシンクに持っていって、慌ただしく家を出ていった。 それを見送りドアが閉まる音を聞いた瞬間、ふうと息を吐き出す。そして食卓に戻って、トーストを食べた。冷めてしまったトーストは少し喉の奥に貼り付く感じがして、その感覚を払拭するようにコーヒーで流し込んだ。 幼稚園バスが来るマンションの下の道路まで行く途中、璃子がパパ一緒に住めるといいね、と言った。「きっと大丈夫よ、それに別々に住んでもパパは会いに来てくれるよ。だから元気に幼稚園行っておいで」 「うん」 都心からは少し離れているが交通の便が良い駅近のこの大形マンションには、璃子と同じ幼稚園の子供が3人いた。高橋さん、野々村さん、水野さん、それぞれに挨拶をすませて、他愛の無い話をして幼稚園バスを待つ。 バスに乗る頃には璃子も笑顔になっていてほっとした。 結婚後、私は弁当の容器等を作っている工場の事務員として働いていた。親が経営している会社というと少し仰々しく聞こえるが、本当に小さな工場なのだ。本当は会社を辞めたくなかったのだが、産休を取り、育休を取ることを考えると正直居辛い職場であったので、今時珍しく寿退社という形でやめてしまった。せっかく大手の商社に就職できたのに、と両親は苦い顔をしていたが、今では若い働き手がいて助かると言っているのだから現金なものだ。でも、私にとっても時間の融通が聞く働き先はありがたかった。 その日もいつも通り璃子を送り届けた後に出勤して、工場に隣接している事務所で仕事をしていた。 「孝幸君、この間そろそろ移動の時期だって言ってたけど、決まったの?」 経理ソフトに経費を打ち込んでいると、向かいのデスクから母の声が聞こえた。また同じ話題かと嫌気が差してしまい、まだわからないと軽く流した。 「そんなに遠くに行くことはないんでしょ?」 「それもわからないよ、一応支社は全国にあるんだから」 パソコンから顔を上げずに答えた。まだ母は話を続けたいようだったが、従業員の宮田さんが来るとそちらと話こんでいて話が終わったので、内心ほっとしながらまた経費を打ち込んだ。 いつもは少し昼休憩を取り、14時ごろまで働いて家へと帰るのだが、今日は美容院を予約していたため早めに上がらせてもらった。 埼玉にあるこの工場までは車で通勤しており、大体片道30分くらいの距離だった。12時に退勤し、車でお気に入りの音楽をかける。慌ただしい日常のなかで、ほっと一息つける瞬間だった。 帰宅ラッシュとは重ならないこの時間は、思うように車を運転出来るので好きだ。だが一方で色々と考え込む瞬間でもある。大手商社に勤める旦那が居て、可愛い子供がいて、時間の融通が効く会社で働けている。側からすれば羨ましがられるような生活なのに、たまに押し寄せる虚無感はなんだろう。以前、未婚の友達にそれを愚痴ると、嫌味かと嘲笑れてしまった。自分にとってみれば、真剣な悩みだったのに。そこから私はその答えについて考えることを辞めてしまった。 最寄駅から二駅隣のブランシェという美容室は、女性の美容師さんが多く、サービスも良いので気に入っていた。最寄駅にもいくつか美容室はあるのだが、近所の人とあまり会いたくないという理由で探したサロンだった。 駅の周りは運転しにくく、電車で行った方が早いので、私はいつも車を家に置いてから電車で向かう。今日もそうして、ブランシェへと向かった。 担当の井岡さんが、椅子に座った私に鏡越しで、「こんにちは」と言った。 「今日はどんな感じにしますか?」 「リタッチでお願いします。長さは整える程度で、あと、トリートメントも」 「かしこまりました」 ケープを着て、目の前に置かれたタブレットで適当に雑誌を読む。読むといっても本当に流す程度で、ファッション誌を何冊分か適当に開きながら、ドリンクサービスで貰ったアイスコーヒーに口を付けた。この酸化した嫌な後味は業務用のボトルコーヒーだろうと思った。 私はあまり髪を短くしたことが無い。小さい時にショートにして、似合わないと言われてから、胸下のロングか、切っても肩の下までだった。だから美容院に行ってもあまり挑戦の様な髪型にしたことは無いので、たまに孝幸に美容院に行ったことを報告しても、どこか変わった?と言われてしまう。でもそれでいいんだ。私は変わったことを好む質ではないのだ。 完成した髪型を合わせ鏡で見せられ、「どうですか?」と言われた。 「大丈夫です、ありがとうございます」 長さが大して変わらなくても、パサついていた髪が潤い、黒くなっていた生え際が綺麗な茶髪になっていれば、私は満足なのだ。お金を払って、ブランシェを出る。時間は2時半、今から買い物をして帰れば余裕で3時半に帰ってくる璃子をお迎え出来そうだ。 今日付けてもらったトリートメントは新作らしく、ベリーの良い香りがした。今日の夕飯は何にしようか、そんなことを考えながら軽い足取りで駅まで歩いていると、私とは反対方向へ向かう青年とすれ違った。175cmくらいの思わず目を惹くような、美青年だった。格好は白いシャツにジーンズとシンプルであるのに、かえってそれが彼の整った顔立ちを引き立てていた。魅入ってしまい、怪しまれるかと思ったが、青年が表情を変えることはなかった。私は彼の視界にはいなかったようで、彼は何かを探るように手を動かしながら歩いていた。 それが少し気がかりで、私はその場に留まり、後ろを振り返り彼の様子を見ていた。交差点の前に立っていたポールを触り安心したように少し微笑った。そうして彼が渡ろうとしたその瞬間、少しスピードを出した白のSUVが通り過ぎようとしていた。 「危ない!!!」 咄嗟に叫ぶと、彼は驚いたようにこちらを見た。そしてポールにもたれるようにして座り込んでしまった。思わず駆け寄ると、すみません。と彼が言った。彼の顔は少し赤く、熱っぽいようだった。それでふらついてしまったのだろうか、大声を出してごめんなさいというと、彼は横に首を振った。 「すみません、車が来ていたんですよね。気づかなくて」 「いいえ、大丈夫ですか?熱があるのでは」 「たぶん、測ってないのですがあるのだと思います。だからぼーっとしていて車の音にも気づかなくて、お姉さんが教えてくれなければ轢かれていました、ありがとございます」 そう彼が頭を下げた先に私の顔はなかった。もしかして、と思う。 「目がお悪いんですか?」 「…はい、普段は白杖を持ち歩いているんですが、今日は熱があったからなのか忘れてしまって。」 そうして、全ての合点がいく。そしてその事情を聞いてしまったらこのまま放り出すわけにはいかない。 「ご家族と一緒に住んでらっしゃいますか?連絡して迎えにきてもらいますか?」 見た目からして二十歳そこそこだろうし、目も悪いのであれば実家暮らしだろうと思ったが、一人暮らしなものでと言った。 「仕事終わりに、姉が来てくれることになっているので大丈夫です。家ももう10分くらいなので大丈夫です。ありがとうございます。」 ポールに捕まりながら立ち、もう一度彼は私にお辞儀をした。しかし、じゃあ気をつけてとは言えなかった。この時間は人通りが少ないからか小さな交差点でも飛ばしてる車が多いからだ。 「心配なので、家まで送らせていただけませんか」 いくら事情を知って心配になったからといって、このご時世に気味悪がられるかもしれないと思った。だけどこのままここで別れてしまったら後悔すると、本能的に思ったのだ。 「…いいんですか?」 彼は遠慮がちに眉尻を下げた。それに安心して、もちろんと言うと人懐こい笑みを浮かべた。 「とても助かります。良い人に出逢えて、良かった」 出逢えて、という言葉に大した意味がないのはわかっているのに、少し胸がざわつくのを感じた。考えて見れば、孝幸以外の男性と喋るのは久しぶりかもしれない。職場では父よりも年上のおじさんばかりだし、言ってみれば恋愛対象になりそうな男性と触れ合うことなど、久しくなかったのだ。捕まってくださいとだした左腕を握られたとき、その部分に彼の熱が移ったような感じがした。 「申し遅れましてすみません、俺は長谷環と言います。」 「長谷くん」 「環で良いですよ」 「環君…。私は、遠野綾子と言います」 「綾子さん」 と彼が私の名前を反芻した。下の名前を呼ばれるということが新鮮で、そこでも少し胸がざわついた。 「今日は、美容院の帰りですか?」 「どうして、わかるの?」 「トリートメントの香りと、少しカラー剤の匂いがするから。俺、鼻は効く方なんですよ」 そう環君は得意げに言った後に「女性に匂いのことなんて失礼ですよね」としょんぼりしたように言った。鼻という単語からか、人懐こいその表情からか、私は犬を思い浮かべてしまって、少し笑った。 「笑うところじゃないのに」 「ごめんごめん、表情が色々変わって可愛いなって思ったの」 「…男にとって可愛いは褒め言葉じゃないですよ」 そう言ってそっぽを向く彼はやはり可愛かった。そうして少し歩くと、「ここです」と言って止まった。 そこは二階建ての少し古いアパートだった。 「ここで大丈夫です、本当にありがとうございました。お茶でもって言いたいところなんですが、風邪を移してしまったら申し訳ないので、後日お礼をしてもいいですか?」 「お礼なんでそんな、困ったときはお互い様って言うし全然大丈夫だよ」 「いえ、でも…俺の気がすまないのでさせてもらえませんか」 彼は鞄からスマートフォンを差し出すと、連絡先を交換しませんかと言った。 私結婚しているし、気にしないで。そう言わなければいけないのに口籠ってしまった。どうしようか悩みながらポケットからスマートフォンを出して画面を見ると、3時5分だった。すぐ帰らないと璃子の迎えに間に合わない、そう思った私は半ば無理やり自分の中でそれを理由にして、じゃあとメッセージアプリを起動した。彼もかなり近くで画面を見ながら同じようにメッセージアプリを起動した。 「良く勘違いされるんですけど、全く見えないわけではないので、メッセージのやり取りも出来るんですよ。」 読み上げ機能というものもありますしと環君は笑った。思っていたよりもスムーズに連絡先を交換することが出来、じゃあ急いでいるからまたねとその場を去ろうとすると綾子さん!と環君が叫んだ。 「出逢えて良かった」 環君はもう一度噛み締めるように言った。 「私も」 それを聞いて環君は微笑んだ。その様子に少し、体調が良くなったようで安心した。私は時計を見ながら走ったが、間に合いそうになかったのでタクシーを拾って家へと向かった。 それが、環君と私の出会いだった。
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