第八話

1/1
17人が本棚に入れています
本棚に追加
/13ページ

第八話

金曜日、夕飯の時間にチャイムの音が鳴った。今日は、孝幸が帰ってくる日だった。 璃子は朝から機嫌が良く、 「パパ何時に帰ってくるかな?」 と何度も言っていた。 「パパだ!」 待ちきれないというように玄関先へと璃子が飛び出した。一応ドアホンを確認すると孝幸だった。 「ただいま!」 「パパ、おかえりなさい!」 「おかえりなさい」 2週間ぶりに見た孝幸の顔に、ほっとした。 それから、家族で夕食を囲み、風呂に入り、ベッド に入った。 璃子も思い切り孝幸に甘えていたので、自然とこちらも笑顔になった。 ベッドの中で、孝幸の手がさりげなく伸びた。 「ごめん、今週生理なんだ」 と言うと、 「そっか、じゃあ仕方ないな」 と言ったので内心ほっとした。やはりまだ孝幸と"そう言う気分"にはなれていないのだなあ、と申し訳なさも感じた。 もう少しすれば変わるだろうか。そう考えながら目を閉じた。 2日間一緒に過ごして、また東京駅に送りに行く。今はまだ寂しさも残っているがだんだんと慣れてきて、そして完全に慣れてきたころには孝幸は帰ってくるのだろう。 翌週の土曜日の10:30分ごろ、璃子を実家へ預けるため車を走らせていた。 孝幸が長期出張になることを告げたあの日以来義実家には行っていなかったが、さすがに義実家に璃子を預けるのは気が引けたので、実家に預けた。 「璃子、ばあばとじいじの言うこと、ちゃんと聞くのよ?」 「うん!わかった!」 「迎えには7時ごろまでにら行くから、また連絡するね」 母は久々に会えた璃子を見て目尻が下がりっぱなしだった。幼稚園に行く前は毎日のように会っていたから、一か月も会っていないと長く感じるのだろう。父と母にとっては、璃子は初孫だからというのもあり、とても可愛がってくれていた。 「久々に友達と出かけるんでしょう?こっちとしては泊まっていってくれても構わないし。迎えにくるんじゃお酒も飲めないでしょ?」 その気遣いに少し心が痛くなり、揺れた。母には友達と会うと言ってあり、あまり遅くならないうちに帰るつもりだった。 「うん、でもできるだけ迎えにくる様にするよ」 「そう?まあ、本当にこっちはどちらでも構わないから。璃子も前みたいにばあばとじいじと寝るのも嫌じゃないでしょ?」 「うん!璃子も泊まりたい!」 特におばあちゃんっ子の璃子にとっては願ってもない提案だろう。でも、"母親"としての私の自覚が、簡単に首を縦には振らなかった。これが、嘘じゃなかったら。堂々と私はお願いできた筈だ。 「はは、考えておくね。じゃあ、よろしくお願いします」 手を振る2人をあまり見ることは出来なかった。 環君とは、13:00に池袋の東口で待ち合わせをした。この日のために私は、新しく青い花柄の五分丈のワンピースを買った。インターネットで買ったので少し不安だったが、まずまず似合っていて安心した。それに白のプラダのミニバッグと、璃子といる時はあまり履く機会が無いような、ヒールが高めのパンプスを合わせた。 ショーウィンドウの前でおかしくないか確認をする。そして、待ち合わせの場に行くと、やはり環君は先に待っていた。 黒いシャツにジーンズを履いた環君は芸能人のようだ、と遠目からみて思った。本当に美丈夫という言葉が似合うのだ。 近づいて、環君と声を掛けようとするより先に環君が顔をこちらに向けて、綾子さんと微笑んだ。 「すごい、やっぱりわかるのね」 「ええ、もう綾子さんの香りも気配も覚えていますから」 環君の言葉に体が脈打つのを感じた。 私の左腕に環君が捕まるのは、もう当たり前の動作だった。 今日の"デート"は、映画を見ることになった。 環君が気になっていた映画があるらしい。私たちははサンシャイン通りにある映画館へ行った。 「これ、音声ガイドがあるんです。スマホの音声で情景を説明してもらいながら見れるから、視力が普通の人と同じように映画を見れるんですよ」 「そうなんだ。環君と一緒にいると知らないことをたくさん知れるよ」 フードとドリンクを買う列に並びながらそんな話をした。本当に、環境が違う人と一緒にいると、たくさんのことを知ることができる。そうすると自分の視野の狭さや、いろんな境遇の人がいるということに気付かされる。 「環君と出逢えたおかけで、私自身の視野が広がった気がするんだ」 環君は少し驚いたように目を見開いた。そしてそのあとに、目を細めた。 「僕の台詞ですよ。綾子さんと出会ってからーーー」 環君の言葉を遮るように、順番が来てしまった。 それ以降、彼がその続きを言う素振りを見せず、少し気になったが、映画が始まるとそれも忘れてしまっていた。 ストーリーは余命が少ないヒロインと、ヒロインに恋をする青年のラブストーリーだった。今時珍しい、といってはなんだが、正統派のラブストーリーだった。 思い返してみれば、最後にゆっくりと映画館に映画見に行ったのはいつだっただろう。 環君と一緒にいると、自然と忘れていた"好きなこと"や"楽しいこと"を思い出す。映画だってそうだ。学生の時や結婚する前は、1人で映画館に通うくらい、色々な映画を見たというのに。 映画が終わって、私達はカフェへ移動した。 サンシャイン通りから少し外れた場所にあったカフェは、落ち着いた年代のお客さんが多く、ほっとした。一通りお互い映画の感想を言い合ったあとで、環君が 「夕妃のことなんですけど」 と話し出した。その名前にどきっとして、 「何?」 と返したが、声が上擦ってしまった。 「あまり、気にしないでほしいなと思って。良い子なんですけど、ちょっと俺のことに干渉しすぎな所もあるんですよね。キャンパスでは実際夕妃がいて助かっているというか、ありがたい存在なんです」 環君の言葉の意味は十分すぎるほどよく分かった。 「だけどこの前みたいにとんでもないこと言ったら…えっと、夕妃がこういう場に混ざりたいとかそういう事をいったら、断ってくださいね。俺も断ります。"夕妃がいなきゃダメ"ということは、ないので」 「そっか…」 それに安心した自分の浅ましさにぞっとした。私は夕妃ちゃんに嫉妬をしていて、いま、それが解消されて喜んでいる。言葉や態度は制御できても、感情は出来ない。思うことは、止められない。 体が、少し震えた。このコーヒーを飲み終わったら、帰る提案をしようと思った。 「綾子さん。今日は時間、大丈夫ですか?」 「え…」 時計を見ると、17:30を指していた。 もう、そろそろ…そう言おうとしたのに。 「大、丈夫」 違う言葉が口から飛び出す。いけない、そうわかっている。 「良かった…俺、行きたい所があるんです。連れてってもらえませんか?」 差し出しされた右手を、払うことは出来なかった。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!