家路

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 年に一度か二度しか降らない雪が、土曜日に降った。  そして、その翌々日の月曜日。二時限目が始まったあたりから止んでいた雪がまた降り始め、校舎の窓から見える校庭や路面の色を、瞬く間に灰色から白へと変えた。  雪のお陰で急遽午前中だけで打ち切られた授業を終え、昇降口に下りてきた下村美晴(しもむらみはる)が屋外の様子を窺い見ると、地面に積もった雪の高さは、二十センチをゆうに超えていた。言葉を失う美晴の背後で、同級生で友人の鹿田萌子(しかだもえこ)が言った 「美晴ちゃん、帰れる?」  萌子は、美晴の家がバス停から徒歩で三十分以上かかる場所にある事を知っていた。 「多分…」 「家の人に迎えに来てもらえば?」 「今日、家に誰もいないんだよね」  美晴の父は娘が目を覚ます前に勤めている会社に出掛け、母の方も午前中の内にパートに行き、両親は二人とも今頃は勤務中だ。  今朝、美晴は家を出る前に、母から長靴を履いていくよう言われた。大袈裟な格好で学校に行きたくなかった美晴は、助言を無視し、普段通りスニーカーで家を出た。今、この状況となっては、大変悔やまれる選択であった。 「私の家の方は、そんなに積もってないかも」 「そんなことあるわけないじゃん。うち来て、うちのお母さんに美晴ちゃんの家まで車で送ってもらう?」 「いやっ、いい、いい。ちょっと靴濡れるだけだろうし。ほら、もう、やんできそうだし」  美晴は昇降口から突き出た庇の下でバサッと折り畳み傘を広げ、校庭に出た。既に大勢の生徒に踏み均された雪の道が、校門まで続いていた。雪の嵩が減ったその道は、取り敢えずは学校前のバス停までは延びていることだろう。問題は、そこから乗ったバスを降りてから、なのだが。  美晴が萌子と乗った下校のバスは、突然学校を追い出された中学生たちで、いつもよりずっと混んでいた。乗車中、萌子はしきりに自分の家に寄るよう誘ってきたが、美晴は断り続け、そうしている間に、萌子が住むマンションの前のバス停に着き、彼女は後ろ髪を引かれつつ、といった感じでバスを降りた。  それからは、美晴は徐々に減っていく乗客を横目に、無言でバスに揺られた。そうして、自分と運転手との二人旅になってから四つ目のバス停でようやく、美晴はバスを下車した。折り畳み傘を通学バッグから出す必要は無かった。雪はもう、止んでいた。  畑が広がる中に、ポツンとあるバス停。それが、美晴の家から一番近い距離にあるバス停だった。寂しい立地ではあるが、それでも、周りにはバスの利用客が残した幾人分かの足あとが雪の上に残っていた。  他人が踏み固めていった道を歩く限り、美晴の靴がひどく濡れることはなかった。だが、バス停から離れ道が分岐してしていく度、美晴の進行方向に付けられた足あとは減っていった。しかし、たった一人分、美晴の進む先にいつまでも、まだ踏まれたばかりと思われる足あとが続いていた。  その足あとは、かなり大きかった。付けたのはもしかしたら、成人男性の平均よりも大きい足の持ち主なのかもしれなかった。そうして、当然、歩幅も広かった。クラス単位で背の高さの順に並ぶと、いつも前から三番目以内になる美晴にとって、その足あとの上を踏んで歩くのは、少々難儀だった。  自分のスニーカーに冷たい水が染み出してくる時間を、引き伸ばしてくれる もの。ただ、それだけのものだと思っていた足あと。その足あとを付けた人物の正体が、次第に美晴にもわかってきた。  美晴の家は、近所にほとんど他の家の無い場所に建っている。だが、ただ一つ、徒歩二分の場所に、一軒だけお隣さんと呼べる家がある。その家には、美晴の両親と同年代の夫婦が住み、夫婦には、美晴と同じ年の子供が一人いる。ちょうど、下校の時刻。その二軒以外住宅が無い場所で、歩幅の広い足あとを残す人物と言えば、もう、美晴の隣の家に住む一人息子、新堀大樹(にいほりだいき)しかいなかった。  便利に使っていた足あとが大樹のものとわかった途端、美晴はその足あとを踏んでいくのが、うっすらと躊躇われる気になった。というのも、中学に上がった頃から、美晴は大樹の事を考えると、なんだか少し、妙な気分になるのだった。  その昔、徒歩圏内で他に遊び相手のいなかった二人の幼児は、実の姉弟以上に仲良くなり、どこへ行くのも遊ぶのも一緒だった。それが、小学校に上がったあたりから、お互いにもっと仲の良い同性の友人ができ、徐々に疎遠になっていった。だが、そこまでは美晴もよくある事、自然な事と受け取り、二人は家の近所で会えば挨拶もするし、学校では教科書、ノートの貸し借りや、家に忘れてきた物を届けあったり、という事もしていた。  その関係が変わったのは、中学生になった大樹が、彼の身長が急激に伸びたのと比例して雰囲気が変わり、周りから注目されるようになってからだ。  小学生まではごく普通の特別目立つとはいえない少年だった大樹が突然、クラスでも派手でモテるグループの一員になった。一方、美晴はクラスの中で地味な女子が集中する一派に組み込まれた。とはいえ、気兼ねなく付き合える友人らがおり、いじめられることもなく、それなりに楽しく平穏に中学生活を過ごす美晴は、普段、スクールカーストなどというものを意識することはほぼなかった。  ただ、自分が大樹の幼馴染みであるというばかりに、カースト上位の女子たちに軽く絡まれることがままあり、それらの女子たちから送られる見下す目線によって、気楽な学校生活に水を差されたような気になる事もあった。そうして、その視線を気にはしていないつもりでいても、やはりそれは、美晴の気持ちに小さな傷を残した。その傷は、劣等感と言うものだった。以前は同じ立場で…いや、早生まれで頼りなかった大樹を、むしろこちらの方が面倒を見てやっていたのに、今や彼は雲の上。自分は遥か下なのだと。  そして今、上位にいる彼が漕いでいった雪道を、自分が短い脚を精一杯に広げてついていっている。  大樹本人が、美晴を見下してきたなんて記憶はない。それでも最近、彼の事を考えると、根明の美晴にしては珍しく、薄暗いモヤモヤが胸に渦巻く。  アホらしい。美晴は、家までまだ二十分以上かかる場所で、足あとの付いていない分厚い雪の上に足を一歩、踏みだした。  深く沈みこんだ雪の壁が、美晴の足首に冷気を伝えた。美晴は次の一歩も、まっさらな雪の上に踏み出した。そうして一歩一歩、自分の足あとを、大きな足あとと平行に付けていった。  すぐに靴も靴下もびしょ濡れになり、ひざ下が凍えてきた。あの女子たちも大樹も、誰も見ていないのに、なんて無駄なことをしているのだとは、普通に思い、自分に厭きれた。  しかし、やはりもう、大樹の付けた足あとの上を歩いて雪道をやり過ごそうという気には、なれなかった。  大晦日の朝、美晴が一人暮らし部屋のカーテンを開けると、外には見慣れぬ雪景色が広がっていた。  その日、電車を二回乗り換えそこからバスに乗り、バス停から三十分歩いた場所にある実家に帰ろうと予定していた美晴は、しばし、両親を納得させられるだけの帰省できない理由はないかと考え、そうして、おもむろにスマートフォンで電車の運行状況を確認した。いくつかの鉄道会社が運休を発表していたが、残念ながら、そこに美晴が帰省に使う路線は含まれていなかった。  美晴が実家近くのバス停に到着すると、時刻はもう昼過ぎになっていた。  実家の近く、とはいえ、これから二十センチ以上の高さまで積もった雪の上を、三十分は歩かなければならない。いざとなったら電話で迎えに来てくれるよう両親に連絡するまでよと、半分やけで合皮のロングブーツで歩き出した美晴だったが、有り難いことに、美晴の進む方向の雪道にはポツポツと、男性のものと思われる大きな足あとが先行していた。更に幸運なことに、その足あとは大きな足のサイズに比して、大変歩幅狭かった。お陰で、六センチヒールを履く美晴もらくらく凹まされた雪を踏んで歩いて行けた。  雪道には、その大きな足あとに並行して、ちいさな足あとも残されていた。その可愛い足跡は、バス停から美晴の足で五分ほどの所までは続いていたが、突如途切れ、そこからは、大きな足あとの歩幅が広くなってしまっていた。美晴としては脚を不自然に大きく伸ばして歩くことになり、恨めしくはあったが、しかし、雪道を歩き疲れ、父親におんぶをねだった子供を責めるほどは、大人げなくは無かった。  彼も、実家に帰ってきたのだ。自分と同じように。美晴は他愛もない悪戯でもしているような気持ちで、大きな足あとを一歩一歩踏んでいった。そうして、実家に着く少し手前の道で、子供のはしゃぐ声を聞き、足あとばかりを見て俯いていた顔を正面に向けた。  美晴の見た先には、防寒着で着ぶくれた幼稚園ぐらいの齢の子供と、その子の父親と思われる背の高い男性が並んで立っていた。 「大(だい)くーんっ!」  冬空の下、美晴が大声で呼ぶと、その美晴と同い年の、でも、もうすっかり人の親の顔をした男性が、声の主のいる方向を向いた。 「あ、久しぶりーっ!」  男性が大きく手を振る背後に、作りかけの雪だるまを放って子供が隠れた。三年前にも一度会ってはいるのだが、忘れられてしまったらしい。 「今年は帰ってきたんだね」  大きな足あとに助けられつつ、美晴はなんとか父子の側まで辿り着いた。 「うん。ついさっきね」 「だろうね。大くんの足あと、バス停からずっと、くっきりきれいに残ってたもん。大くんが先に雪漕いでくれたおかげで、いくらか楽に歩いてこれたよ」 「狡いな。俺は子供おんぶして、重い思いしてようやく帰ったのに」 「へっへー。あ、奥さんは?来てないの?」  美晴の前に付けられた足あとは男性と子供のものだけで、しかも、男性が残した足あとには綺麗な靴底の模様がくっきりと残り、美晴が通る前にだれか他の人物が踏んだ形跡もなかった。 「年末の仕事が終わらなかったらしくて、まだ居残り仕事。こっち来るのは、今晩遅くになるってさ」 「ふーん…」  美晴は振り返り、自分が、そして大樹が歩いてきた道を眺めた。田舎の白い雪道に足あとが、一人分。中学二年生の時にスニーカーで無理して付けた、もう一人分の足あとのことを、思い出した。  こうして、あの頃の二倍の齢をとった今、美晴は美晴、大樹は大樹のままで話せている。あの時のことを思うと、何をそんなに気にしてムキになっていたのだろうかと、拍子抜けしたような気分になる。  だが、こうも思う。やはり、あの時、靴と靴下を雪で濡らした意味は、あの時なりに、あったのだ。  美晴は、男性の方に向き直った。中学時代がモテ期だったらしい彼には、その当時放っていた魅惑のオーラは微塵も残っていなかった。だが、彼の父親にも似た、のんびりと穏やかな雰囲気は悪くは無かった。 「ねぇ、こんど実家までの雪道歩く時は、もっと歩幅狭くして歩いてよ。 そうしてくれると、私がそのあと、歩きやすいから」 「うわ、しないしない。そんな面倒くさいこと」  今度、この温暖な地域の年末にはいつ、雪が積もるのか。それがいつかは分からないし言われて厭がりはしているが、案外、その時がきたら大樹は自分の希望通りにしてくれるのではないかと、美晴は思った。
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