一角獣とコーヒー

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 あてがわれたのは自分と秘書ふたりだけの研究室だった。  形式上は農学部の所属だが学生を採らない講座なので、新生活は静かなものだった。 「秘書を務めます未嶋(みしま)です。よろしくお願いします」 「弓永です。この地方は初めてなので、いろいろと教えてもらえたら。未嶋さんは研究室秘書は長いの?」  いざ円滑な研究室運営に向けた第一歩をと意気込んだものの、初対面の秘書との会話はそこまでだった。  弓永の問いに対し、未嶋は曖昧に首を傾けて会釈のような動きをしたあと、秘書席に収まった。  配備されたばかりのデスクトップパソコン越しに見えるのは化粧っ気のない顔だが、その肌の色は病的なほどに白い。  三十歳過ぎの独身だということのみ、大学事務本部から聞かされていた。  事務のスタッフのなかには、 「先生とお似合いなんじゃないですか。研究室でふたりっきりなわけですし」などと焚きつけてくる者もいた。  弓永の方も最初のうちこそ、「そういう発言は、昨今ではセクハラですよ」と釘を刺しつつ、研究室に戻れば密かに意識せずにはいられなかった。  しかし、ほどなくしてその気は薄れた。ひとり黙々と事務作業をこなす未嶋に対して、なにを聞いても、どう話しかけても、大した反応は返ってこないのだから。  強引なことをして万が一にも訴えられるようなことになれば、それこそ懲戒免職ものだ。  都内の大学にいたときに、その手のトラブルで職を追われる教職員を、弓永はたびたび見ていた。  だいたい、弓永にそういう積極性がないからこそ、もの言わぬ野生動物相手の研究を長年続けてこられたのだ。  いや、これは同じ領域で野生動物の研究をしてきた同業者にいささか失礼かもしれない。  いずれにしても、弓永の着任ではじまった研究室生活が軌道に乗った一か月後、秘書と成立する会話はほとんど一種類のみに落ち着いていた。 「先生、コーヒーお飲みになりますか」 「あぁ未嶋くん、ありがとう。もらおうかな」  勧められるままに()れてもらうものの、未嶋のコーヒーはいつも強烈に苦い。彼女に限らず、この街の人たちは限度を超えて濃く抽出した、苦みの強いコーヒーを好んだ。  弓永は顔を(しか)めつつも、せっかく淹れてくれたのだからと我慢して、どうにか飲み干すのだった。
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