アルエ

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*** 「……ちょっとトイレ行ってくる」  そうつぶやき、楽器店の外へとエスケープしてからすでに数分が経つ。  きっかけはアヤナミだった。不意に彼女と視線が重なり合ったその瞬間、僕は一対の黒水晶のような瞳にどういうわけか怯んでしまい、脊髄反射的に踵を返していたのだ。  気づけば、疾走していた。腕を振り、セラミックタイルを蹴り飛ばし、文化系にあるまじき俊敏な身のこなしで、だだっ広いフロアを駆け抜けていた。  なぜ、どうして怯む必要があったのか、また逃げる必要があったのか。僕は自分自身にも理解することができなかった。だがしかし、いったん走り出した両足は止まらなかった。哀れ暴走機関車と化した痩身は男子トイレを素通りし、少女の想念を振り払うかのごとく走って、走って、走りまくった。  ファッションビルを抜けると、むせ返るような熱気が待ち構えていた。  人々が行き交う薄暮の街。遠方で響くパトカーのサイレン音。  ゆうに百メートル以上は走っただろうか。やがて僕は足を止めた。蝉の死骸転がる歩道の真ん中でゼーハーと息を切らしながら、毛穴という毛穴からは滝汗が止めどなく流れ続けている。その様子を、たまたま傍を通りかかった四十過ぎの厚化粧女が気味悪そうに見ていたが、まあ知ったことではない。  一分弱のインターバルのあと、僕は再び歩を進めた。さすがにもう走る余力は残されていなかった。自宅に続く道を亀の歩幅で前進しつつ、ボディバッグに忍ばせていたMP3プレーヤーをなんの気なしに起動。  イヤフォン越しに鼓膜を揺らすアップテンポな楽曲が、少女の姿を脳裏に否応なく想起させる。  あのとき、アヤナミと目が合った瞬間、僕がその場から立ち去るという愚行を働いていなければ、果たしてどのような未来が待っていたのだろう。共に打ち上げに参加し、音楽トークに花を咲かせ――。そんな「タラレバ」の世界線を想像してしまったが最後、悔悟の念が止まらない。  ついにいても立っていられなくなり、しかしだからといって何ができるわけでもない不甲斐なき僕は、衝動的にMP3プレーヤーのボリュームをマックスまで上昇させた。  外界を完全にシャットアウトした世界に、ゆらりと身を委ねる。 「…………」  エスケープ寸前、こちらを見たアヤナミが、何か言いかけていたことをふと思い出す。あれはいったいなんだったのだろう。言わずもがな、それを確かめる術はもうない。  禍々しく燃える夕空の下、僕は爆音の「アルエ」を聴きながら、名も知れぬ少女に未練がましく思いを馳せ続けた。 2e11f469-7e1b-468b-8833-c4e201cec395 「アルエ」完
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