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プロローグ
ブルーが好きだ。
胸をすくような紺碧も、艶やかなロイヤルブルーも、こっくりとした群青も。
このウエッジウッドのカップとソーサーも、ターコイズブルーと白のコントラストが美しく印象的。まだひとくちも飲んでいない冷えたコーヒーが入った置物と化しているのが口惜しい。カップが運ばれてくるや、目の前の彼女が泣き出してしまったのだから仕様もない。
〝本日のおすすめ〟のエチオピア産のコーヒーは『ベリーを思わせる爽やかな酸味が特徴で、冷めても美味しく召し上がっていただけます』とあったけれど、それにしてもひどい。
日曜の午後だというのに、店内は満席とはほど遠かった。
薄暗くあやしげな半地下の、入りにくい入口のせいだろうか。コーヒーの味も店の雰囲気も悪くない。価格だって、都内の一等地であるこの立地を考えれば、特別高いわけじゃないだろう。もったいないと思いつつも、あまり人に教えたくない。そんな、お気に入りの店だった。
「こんなの、本当の幸せじゃない」と、彼女がさめざめと泣きながら言った。
「じゃあ、本当の幸せって?」と俺はたずねた。
幸せってきっと、心が幸せだと感じていれば、それは間違いなく幸せだ。
彼女自身の心が幸せだと叫んでいるのならば、それだって本当の幸せに違いない。
その感情を嘘にしないで。その心は、彼女だけのもの。
もちろん、俺の心も、俺だけのものなのだ。
『彼』のことを考えると、今でも心がざわざわする。カップを持った、指先までブルーになるくらい。
朝目が覚めた瞬間に感じるコーヒーの香りとか、揃いのコーヒーカップとか――すべてが俺の宝物だった。
くしゃくしゃの猫っ毛に、生えかけのヒゲに、骨ばった肩に、触れることはもうなくても。
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