1.はじまりのカフェラテ

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1.はじまりのカフェラテ

  岡田(おかだ)(めぐむ)がはじめて『彼』を見かけたのは、東京での新しい生活にようやく慣れてきた、四月も末のある晴れた日だった。  アパートから最寄りの駅に向かう途中にあるそこは、どうやらカフェであるらしかった。以前は工場か何かだったのだろう、トタンでできた古い建物。蔦の這った外壁は古くあちこち錆びているが、逆にそれがお洒落に見えるから不思議なものだ。  店の入り口に置かれた小さな黒板には、流れるような文字で〈Blue(ブルー) Moon(ムーン)〉と書かれている。手描きらしいコーヒー豆の絵が入っているから辛うじてカフェだろうとわかるものの、店の正面に窓はなく、中の様子がわからないばかりかメニューも出ていない。入りにくいったらない。毎朝毎夕、店の前を通るたびに気にはなっていたものの、高校卒業後、田舎から出てきて間もない愛に足を踏み入れる勇気はなかった。  〝彼〟を見かけたのはたまたまだ。専門学校に進学して約ひと月、その日愛ははじめて寝坊をした。  ハッと目を覚ましたとき、いつもならとうに電車に揺られている時間だった。一瞬頭が真っ白になる。目覚ましは鳴らなかった。壊れた? いや、鳴ったのに寝ぼけて止めたのだろうか。それともただセットを忘れただけ? 何にせよだ。慌てて飛び起き、干しっぱなしの洗濯物の中から適当なTシャツを手に取った。おざなりに顔を洗い、歯を磨き、ひとり暮らしのアパートの部屋から飛び出すまでの所要時間、約十分。  いつもより家を出るのが三十分は遅い。駅まで走れば、そして駅から学校まで走れば、何とか間に合う――かもしれない。  全力で駅に向けて走りながら、愛は例の店の前で掃き掃除をする人影に気付いた。吸い寄せられるように視線を向ける。  店の人間を見るのははじめてだ。  黒の長いエプロンをつけた、すらりと背の高い細身の男だった。屈むのが辛いのだろうか、腰をさすりながら顔を上げる。  彼の顔が見えた瞬間、愛はハッとした。  くしゃりと柔らかそうな癖のある髪、切れ長の目に、顎にはヒゲが――その人は、一度伸びをするとふたたび掃除に戻る。  愛は駅に向かうため、急いでそのわきをすり抜け走った。振り返って、もう一度男の顔を見たい欲求をおさえながら。  普通のカフェの店員ひとりとっても雑誌にでも載っていそうな、垢抜けたイケメンだ。そういう人たちを、愛はこの春からもう何人も見ている。さっすが東京――といっても、ここは23区外の東京もはずれだけども。  コーヒー豆が描いてあったけれど、コーヒーしか置いてないのだろうか。コーヒーはあんまり得意じゃないんだけどな……。  電車に飛び乗ったあともそんなことを考えるくらいには、あの店も、男も、印象的だった。――が、次の停車駅でどっと人が乗り込んでくると、愛は窒息死しないように必死で、近所のカフェのことなんてすぐに忘れてしまっていた。  それからも店の前を通るたびに気になっていたが、あれから偶然『彼』を見かけることはなかった。窓もない店では中を覗き見ることもかなわず、ひとりで乗り込む勇気も持てなかった。  きっかけは、夏休み、友人の中泉(なかいずみ)が地元から遊びに来たときだった。 「東京つっても、結構田舎なんだなあ。あんま地元と変わらないじゃん」  そんなことを言う友人が憎たらしく(まさにそのとおりなんだけども) 「じゃあ、ちょっと洒落たカフェにでも行ってみよう」と提案したのだった。  こうして愛はようやく〈Blue Moon〉を訪れることになった。愛ひとりだったら、いつまで経っても店に入れなかっただろう。  ――カランカラン、と扉を開けた瞬間、真鍮製のドアベルが鳴る。  はじめて入った店内は、コーヒーとほんのりと甘い匂いで満ちていた。 「いらっしゃいませ」  にこやかに近付いてくるのは――くしゃりとした柔らかそうな癖のある髪、切れ長の目、顎ヒゲ――紛れもなく、以前見かけた男だった。たちまち愛の体が緊張で強張る。  愛は男の笑顔の眩しさにまごつきながら「ふたりです」ともごもご答えた。  中は思ったより広く、壁はすべて白で、テーブルやイスには明るい色の木がメインで使われている。優しくあたたかい雰囲気だ。とてもトタンの工場の中だとは思えない。  案内されたのは奥まったソファ席で、中泉は座るなり「すげー洒落てんな!」とキョロキョロ店内を見回している。不慣れな場所に足を踏み入れたという緊張は中泉には皆無のようだ。その図太さはうらやましい限りである。  地元にだってカフェくらいあるが、工業高校を卒業後、地元の工業大学に進学した中泉にはまったく縁のない場所であろう。高校も大学も周りは男ばかり。彼女どころか、親しくしている女友達だっていないはず……。  対して、一六九センチとあまり背も高くなく、クリっと丸い二重の目が可愛らしい印象を抱かせる愛は、他の男子に比べると威圧感もなく気安いのか今も昔も女友達が多い。とはいえ金のない学生が普段から行くのは、安いチェーン店ばかり。こういう店は慣れていないのだ。  自分から行ってみようと誘った手前、情けないので口にできないが、正直落ち着かない。
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