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俺の落ち込みは、夕食後のミーティングが済んでも、引きずっていた。
千藤監督に残るよう言われ、心当たりが大いにあった俺は、こんな事じゃ明日の試合に差し支えると反省してみたものの、浮上するきっかけにはならなかった。
だけど、居残りを命じられたのは俺だけじゃなかった。
佐倉と新見以外の選手五人を前にした監督が、一枚のDVDを手に切り出した。
「これは、先月福岡で行われた、インハイ予選決勝戦のビデオだ」
静寂の中、緊張が走った。「対戦校は玉竜旗で二連覇している北九大学付属高校と、明日五回戦を勝ったら、六回戦の相手になるだろう福岡市立成実高校」
という事は、現在の福岡県の上位二校の対戦ビデオだ。しかも、おそらく全国でもトップレベルだろう。
「他の部員には後学の為、既に見せた。感想は様々だったが、学ぶものは多かったはずだ。その中で、これをお前らに見せるのか、という質問が上がった。当然、訊いたのは三年生だ」
同じ三年の四人が視線を交わす。だけど誰も声は発しなかった。
「もちろん見せるつもりだと答えた。そのつもりで北九大付属の監督に借りてきたんだが――」
そのDVDの出所に、どよめきが起きる。
「監督、知り合いなんですか……」
質問ではなく呆けたような相模主将の声。だけど、気持ちはみんな一緒だ。
この監督、一体何者?
何度も感じた疑問が、また湧いてくる。
だって、普通ありえないだろ。
つい最近の、自分達の弱点になるかもしれないDVDを、しかも相手校と対戦するかもしれない所の監督に渡すなんて。
身内を売るようなものじゃないのか?
その場の五人が、みんな同じ表情をしたのかも知れない。
俺達を見回しふっと笑みを浮かべた監督が、談話室に備え付けてあるテレビに近付きながら答えた。
「まあ、そっちはこの際問題にしなくていいだろう。それより今はこれだ」
テレビの上にDVDを置いて、俺達に視線を巡らせた。「実は、原田達があんまり心配そうな顔をするんで、情けない事に迷いはじめている」
「はあ? …あの、どういう意味でしょう」
あまりにも不似合いな弱気の台詞に、戸惑いを覚えたのは相模主将だけじゃない。隣の安達先輩が、ごくっと生唾を飲み込む。その表情に、いつもの明るさはなかった。
「そんなに強豪なんですか」
「……そこそこの強さじゃない。間違いなく全国に通用する二校だと、俺は思っている」
監督が安達先輩に答えた瞬間、それまでの落ち込みや、それ以外の全てを忘れ、見たい! と本気で思った。
けど、先輩達を差し置いて俺一人見るわけにいかない。そう思い、今回は黙って成り行きを見守る事にした。
居残りの内容が自分の事じゃなかったんで、気分も少しは楽になった。
「今日、ここでしか見えない代物だ。ダビングはしないと約束して借りてきた手前、これは明日、北九付属の監督に返す。すまんが、どうするかお前達で決めてくれ」
そう言って、三年の先輩達に頭を下げた。
四人の先輩が互いに顔を見合わせ、心の内を探りあう。
だけど、誰も何も言えずにいると、頭を上げた監督が再び口を開いた。
「俺はまだ、お前達を四カ月しか見ていない。だがインハイ予選の時、矢織君が俺のところに来て、お前らの事を頼んでいったんだ」
「それ、本当ですか?」
驚きを隠せない相模主将に、監督が軽く頷いた。
「昨年の西城剣道部主将だと言ったのが印象に残ってな。まあ今時、自分の卒業した母校の後輩を心配するような奴、あまりいないが」
矢織主将との初対面を思い出したのか、クスッと笑った。
「もちろんお前達には内緒にした。そんな事、彼は望んでなかったからな」
……矢織先輩らしい。本当にありえないくらいお人よしだ。
やる事は全然違うけど、野球部の前キャプテンと似ている。
北斗が『憧れだ』と言った、春日さんと。
「玉竜旗に出場させると言ったら、新人戦の時の経緯を話して、お前らのメンタル面の弱さを本気で心配していた」
「――そう…ですか」
相模主将が小さく呟く。
辻先輩の表情は読めないけど、後の二人は対照的だった。
嬉しそうに口元に笑みを浮かべる安達先輩と、不本意そうな白井先輩。
伝えた内容は同じなのに、どうしてこんなにみんな反応が違うんだろう。
そんな事を考えていた俺は、自分を完全に蚊帳の外に置いていた。
だけど実はその俺自身が、先輩達の反応の違いに一番影響を与えていたんだ。
「俺は、自分の対戦相手を知るのは当然の事だし、勝ち上がるには必要で重要な事だと思っている」
監督らしい、前向きで挑戦的な台詞。「だが、今日の四回戦で迷いが生まれた。相手を知ったせいかどうか……吉野は萎縮し、飲まれたように見えたが、知らなかった白井は無の状態で相手に対峙し、勝った。そこで矢織君の心配を思い出したわけだ」
選手の様子を探るように、一人一人の顔を見ていく。
「俺は、お前達に一つでも多く、この大会で試合させてやりたい。だが俺の好意が逆に足を引っ張る事になるかも知れない。まして三年生にとっては、これが最後の試合会場だ。悔いを残させたくない」
「監督……」
俯き気味に話を聞いていた相模主将が、顔を上げ、監督を見返した。
「俺が赴任して、玉竜旗の事を持ち出した時、真っ先に相模が応えてくれたのが、俺は嬉しかった。俺達の世代以降、剣道について賛否両論、色々と言われはじめたからな。まだ純粋に玉竜旗を夢だと言って頑張ってる奴らがいる。そんな高校生に出会えた事が、最高に嬉しかった」
誰も口を開かない。
けど、監督の心は間違いなく、それぞれの胸に伝わった。
「責任逃れと思われても仕方ないが、これは…お前らには『諸刃の剣』だと思う。だから白紙の状態で迎え討つか、ビデオを見て相手を知るか、選べ。お前達の試合だ」
「―――あんまり見くびって欲しくないぜ、先生」
低く響く不機嫌な声を発したのは、白井先輩だった。
「そんなやわな神経で、これより上なんか望めるはずもねえ。矢織さんは、そういうのを含めて俺を叱ったと思ってる」
チッ、と、忌々しげに舌打ちした白井先輩が、ほんの一瞬だけ俺に目を遣り、続けた。「実際、俺達が明日の最終日に残れたのは、三年の力じゃねえ。二年の、吉野一人の力だ」
「なっ……違います!」
思わず、立ち上がって叫んでいた。「そんな事、絶対ないです。だって――」
「お前が何と言って否定しようと事実なんだよ。だがそんな事はどうでもいい。同じ西城の部員が勝つんだ、文句なんかねえよ。それに俺が今日勝てたのは、相手を知っていたとか知らなかったとかじゃねえ、あの大将に四人抜きも五人抜きもさせたくなかった、それだけだ」
吐き捨てるように言い、監督を睨み付けた。「そりゃ、知っていて同じ結果が出せたかと言われたら自信ねえ。けどな、監督や吉野が知っていた事を、聞かされてなかったと知って、俺は……腹が立った」
「あ ……」
短く声を上げた俺は、白井先輩の瞳に射抜かれ、文字通り立ち竦んでしまった。
「悪いな、吉野。相模と俺とは別個の人間だ。それに相模には主将としての立場もある。自分一人の考えじゃねえ、メンバー全員の事を考えなければいけない。だから試合後、お前に『教えないでくれて助かった』と言ったのは本心だ。だが俺は、何でお前が話してくれなかったのか、その理由が知りたい」
「この、バカ野郎が!」
喚くのと同時に、ゴツッと鈍い音が響いた。
一瞬静まり返った談話室に不似合いなほど響いたそれは、安達先輩が白井先輩の頭を殴りつけた音だった。
「何でそう、いつもいつも問題ばっか吉野にぶつけるんだ、お前は!」
呆れた声で白井先輩を睨み付けておいて、俺に「悪い奴じゃないんだ」と謝る。
そんなの言われるまでもない。白井先輩は嘘を吐かない。
それなのに俺は白井先輩に、一言も言い返す事ができなかった。
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