伝言 (メッセージ)

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 付き合って行った先は、意外にも屋上の展望台だった。  本館は五階でも別館は八階まであり、その屋上には自由に出られる。  昨日、大浴場の事を後輩に聞いて、他にも面白そうなところがないかこの旅館のパンフレットを取ってきて調べたらしい。  外出が自粛されているせいで、先輩達はかなりストレスがたまっているみたいだ。  自販機とベンチがあるだけの、だだっ広い屋上。でも見晴らしは案外いい。  朝の空気を肺一杯に吸い込んで、そのまま大きな欠伸(あくび)をする先輩の隣で、俺も両手を伸ばし、思い切り背伸びをした。  澄んだ青空と、頬を撫でていく涼やかな風が、眠気を取り去ってくれる。 「んー、いい風。福岡も朝は涼しいんですね」 「だな。けど今日も暑くなりそうだぜ」  雲の無い上空の空を仰いで言う。「お、見ろよ吉野、海が見える」  方角を変え指差す方に目を遣ると、ビルの合間のわずかな隙間の向こうに、空の色と一体化しそうな、綺麗な色の日本海が見えた。  昼間、マリンメッセの会場から見ていた、真夏の太陽をはじき返す海とも、西城高校の屋上から臨む、ぼんやりと霞んだような海とも違う、初めて目にした北の海。  いつも南向きに海を見ている俺には、自分の方向感覚が狂ったような、妙な錯覚を覚えた。 「何だか、北側に海が見えるのって変な感じですね」 「北だあ? 馬鹿言え、あっちは西だろ」 「え! そんな…だって――」 「福岡から見える海が、全部北に広がってるとは限らねえだろうが。入り江や湾もある」 「……先輩って、もしかして頭、いいんですか?」 「お前が世間知らずなんだよ」  俺の方向感覚を正す為か、海とは反対側の空を見た。 「太陽は……まだ見えねえか」  夜が明け、明るくなりつつある東の空を見て呟く。 「あ~あ、せっかく福岡に来てるってのに、旅館と会場の往復だけで終わっちまいそうだ」  屋上の端、胸丈までの塀に肘を付き、眼下の街並みを見下ろす先輩の隣に並んで、俺も見慣れない風景を眺める。 「試合より観光の方がよかったですか?」  珍しく先輩を見下ろす格好で訊いてみると、見返した瞳が鋭さを増した。 「バカ言え、遊びでならいつでも来れるだろ」 「そうですね」  言いたい事を察し、軽く頷く。  玉竜旗は高校生の大会だ、三年間しか出場資格がない。  今しかできない事を優先させるのは当然だ。  しばらく黙って車の流れを目で追う。  早朝だけあって一般の車は少ない。それに今日は土曜日だった。  夏休みに入ったら、途端に日付や曜日がわからなくなってしまうのは、昔か らちっとも変わらない。 「――吉野」  ふっと息を吐いた俺に、白井先輩が神妙な面持ちで呼びかけた。 「はい?」 「お前さ、どうして西城に来たんだ?」 「え…」 「あんなに仲のいい同級生と別れてまで、誰も知らない高校(とこ)に来る必要なかったんじゃないか? ましてお前には両親もいない。普通ならせめて友達とは離れたくない、そう思うもんじゃねえのか?」 「………」   当然とも言えるその問いに、返事をする事ができず黙りこくってしまった。  でも先輩は、そんな俺の態度を気にする風もなく同じ調子で話し続ける。 「それにお前ほどの腕があれば、無名の公立じゃなくて有名私立にでも行けば将来は約束されたようなもんだ。奨学金制度の充実した高校(とこ)もあるしよ。現に桜華学院なんか、全国から選りすぐりの生徒集めてる」 「それは……知りませんでした」  答えながら、インハイの時の桜華学院剣道部の内輪話を思い出してしまった。  藤木さんを侮辱するような内容の会話。  悪気は無かったとしても、あの部員達と一緒に剣道をしたいとは思えない。   「……言いたくなかったらいい。『詮索しない』って相模が約束したもんな。けど不思議でしょうがねえんだよ。お前みたいな奴と今、一緒にいる事が、さ」 「――別に……不思議じゃありませんよ」  少しだけ逡巡し、思い切って切り出した。「俺、両親が事故死するまで、西城で暮らしてましたから」 「ほえっ?」  間の抜けた返事に、笑いが込み上げてきた。  この話を口にした後のこんな反応は、初めてかもしれない。  笑いたいのを堪えている自分自身の反応も。  そう思うと、打ち明けるのが楽しいとさえ思えた。  目の前の、嘘や隠し事の苦手な先輩は、一体どんな風に受け止めるだろう?  そんな興味が沸き起こる。 「だから、俺はただ自分の街……家に帰って来ただけです。当然の事でしょ?」 「吉野が……西城で暮らしてた?」 「はい」 「自分の家に帰ってきた……だけ」 「そうです」  頷いて先輩を見ると、 「なら、お前はこれから先も、ずっと西城にいるのか?」  真剣そのものの顔と声で訊いてくる。 「そのつもりです。大学とか…進路の事は考えてないけど、出たとしてもいずれ必ず戻って来ます。西城の家は、両親が俺に残してくれたたった一つの形見ですから」 「ほんとにほんとか?」 「ええ。だって手放せないでしょ、新築だったんだし」 「絶対だな!」 「先輩、くどい。何なら指切りでもします?」  雅也ですら内心では子供っぽいと嫌がっていた指切りを、先輩にも冗談半分で持ちかけてみると、差し出した俺の指を両手で握り締めぶんぶん振り回した。 「やるやる! 何でもやる。お前が西城にいるんなら、俺、空も飛べる気がする!」 「いや…それは無理だと思いますが」  とんでもない事を口走る先輩に、否定の意味を込めて首を振って見せた。  安達先輩の軽さが移ったような豹変ぶりに戸惑いつつも、先輩の明るさに内心ほっとした。  一応、喜んでくれてるみたいだ。 「先輩、そんな風に握られたら指切りになりません」 「あ、悪い。つい」  照れ臭そうに笑って手を離した先輩が、もう一度「絶対だぞ」と言いながら、俺の目の前に高々と小指を突き出す。  自分から言い出した事とは言え、こんなに張り切られると却ってやり難い。  それに白井先輩は嫌がってやらないと思っていたから、何だかすごく恥ずかしくなってしまった。  そんな俺の戸惑いとは無縁に、先輩が無理矢理絡め取った小指を、やっぱりぶんぶん振り回した。 「吉野は、俺達とは全然繋がりのない奴だと思ってたから……それでも、そんなん関係無しに、初めて見た時からすっげ惹かれてたんだ。そんな奴がさ、男ばっかのむさ苦しい剣道部なんかに入って来て、正直変な奴だと思った」 「変……ですか」 「当たり前だろ。そのツラで、何でわざわざ顔を隠すような部に入りたがるんだ…。お前が入部届け出した後の部の奴らの喜びよう、見せてやりたかったぜ」 「はあ」  入部届け出しただけなのに、どうしてそんな騒ぎになるのか、わからない。 「それはともかく、吉野は正真正銘、俺達の後輩だと思っていいんだな?」 「『正真正銘』って……別に俺が西城で生まれてなくても、白井先輩達が俺にとって大切な存在だって事に、変わりはありませんが」  パチクリと、大きく見開かれた先輩の瞳が一瞬揺らぎ、ふっと外された。  その視線の先には、雲の間から輪郭をはっきりと現し始めた、大きな太陽。  日の出だ。  俺達の影が一つになり、屋上の白いモルタルの上に長く伸びている。  少しずつ濃さを増すそれは、今日の暑さを物語っているようで、いつの間にか風も止んでいる事に気付いた。 「あーあ、お前がずっと西城にいればよかったのに」  いつもの軽い口調で、空を仰ぐ先輩に、俺も即答した。 「あ、そしたら俺、きっと剣道してませんよ」 「え! 何でだ?」 「俺が剣道を始めたのは、両親の事故死から立ち直る為でしたから」 「ああ、そういやそんな事――言ってたな」  監督の名前は意地でも口にしない。  どういう訳か、五月以降やっぱり拘ってる。  こんな面は、ほんとに子供っぽいんだけど…。  だって相模主将は絶対そんなの表面に出さない。見るからに落ち着いた大人な人だ。  けど、まあいい。白井先輩が監督の事をどう思っていようが、そんな事、俺には関係ない。  監督は白井先輩にも友好的だし、俺はそれぞれ全く違う面で、二人に好感を抱いている。それでいいはずだ。 「ええ。俺が西城にずっといるって事は、両親も健在だって事でしょ?」 「そっか、それは俺的にはあんま面白くねえかもな」  一人ぶつぶつ呟いて、眩しそうに目を細め、向きを変えて俺を真っ直ぐ見返した。 「でもよ、お前が剣道してなくても、俺は吉野にずっと西城にいて欲しかったぜ」  嘘も偽りも、飾り気すらないその言葉が、胸を熱くさせる。 「ありがとう……ございます。先輩がそう言ってくれると、なんか嬉しい」  笑いかけた口元が歪む。  慌てて目元を手の甲で擦ると、含み笑いが聞こえた。 「何だ? 感動しすぎて泣いてんのか?」  図星をさされ、反発して憎まれ口を利いてしまった。 「違います! 先輩の……」 「俺の?」 「頭に太陽が反射して、目が眩んだんです」  眩暈を起こした振りでよろけた途端、首に太い腕が掛かり締め上げてきた。   「ロープロープ!」  手を伸ばしてじたばた暴れる俺の耳元に、先輩の笑い声が聞こえる。 「バカヤロ、屋上にロープなんかねえんだよ」 「先輩、ほんとに苦しいって!」  つられて笑いながらふざけ合う俺達の間には、何の隔たりもなかった。  自信が持てなかった先輩への信頼が、俺の中で自然に育っていた。  いつの間にか、少しずつ歩み寄れていたんだ。  だけど――  千藤監督の言葉通り、何も言わず黙って見守ってくれた先輩達との、 別れの時が近付いていた。
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