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帰路
「福岡の街もこれで見納め、か……」
斜め前に座る辻先輩の、名残を惜しむような呟きに、俺の方に背もたれを大きく倒した安達先輩が寝る体制を整えつつ、「だな」と応えた。
「つっても高速道路ばっかだと、防音壁が邪魔で景色なんか関係ないけどな」
遠慮の欠片もなく限界まで倒した通路側の座席に身体を預け、隙間から「なあ」と声を掛ける。
窓の外をぼんやり眺めていた俺は話しかけてきた先輩に視線を移し、「そうですね」と少しだけ頷いた。
長く、短かった玉竜旗大会。
その会場に別れを告げ、俺達は西城市への帰途についていた。
剣道の試合にしては類を見ない、長い長い遠征だった。
「それにしても、あの時吉野が五人抜きしてなかったらなー」
安達先輩が俺の方に向いたまま溜息を吐く。
未練たっぷりな口調とは反対に、全力を出し切った満足感が表情にありありと出ていた。
『あの時』とは、今日最初の試合、第五試合の事だ。
だけど、その時の自分を恥じ反省していた俺は、小さく「すみません」と謝るしかなかった。
「まったくだ。あそこで無理してなかったら、優勝も夢じゃなかったのに」
「いや、それはないです」
「なんだとォ? お前、優勝目指して戦ってたんじゃないのか!?」
話を聞いていたらしく、通路に片足を踏み出した白井先輩に、慌ててぶんぶん首を振った。
怒った振りだけとわかっていても、詰め寄られると怖い。
「おい後ろ、吉野を責めるな。ベスト8だって信じられないくらいすごい事だぞ」
相模主将にたしなめられ、自分の席に引っ込んだ副将が狭い隙間で無理矢理足を組む。
窮屈そうな座席が何となく羨ましい。
俺なんて安達先輩に片側をほとんど占拠されているにもかかわらず、余裕で座れる。
「ベスト8か。確かに、俺達には出来すぎだな」
上半身を動かして落ち着く位置を見つけたらしい白井先輩が、腕を組み、感慨深く息を吐いた。
相模主将以上に大人っぽい一面と、安達先輩以上にノリのいい一面。
去年は後者の方が圧倒的に多かったのに、最近どうも入れ替わったような気がする。
それはともかく、俺達ー西城剣道部は、あの福岡県のインハイ代表校に何故か勝利していた。
今も奇跡としか思えないけど、先輩達の底力を目の当りにした試合だった。
俺は安達先輩の指摘通り、五人抜きした疲労が想像以上に尾を引き、六回戦の途中でスタミナ切れになってしまった。
前日の二日間と同じ気分で五人抜きを果し、その試合に臨んだ俺は、一人目ですでに息が上がってしまった。
最終日の試合間の休息時間がどれくらいになるのかを、少しも考えてなかったんだ。
一人目はかろうじて一本勝ちしたものの、上段の構えの次鋒にてこずり、引き分けに終わった。
残りの三人を先輩に託したけど、相手はやはり県大会優勝校。
安達先輩も中堅相手に苦戦を強いられ、引き分け寸前、小手を決められた。
その後、辻先輩がどうにか引き分けて副将同士の対戦に。
そこまでほぼ互角の戦いだったけど、その副将戦が一際凄かった。
激闘を終えた白井先輩は今、俺の横で、またまた大きな欠伸をしている。
無理もない。
あの試合で、気力も体力も相当消耗したはずなんだ。
それに自分の勝手な都合で、今朝早く起こしたのはこの俺だ。
心の中で深く謝って、その時の試合を一人静かに振り返ってみた。
実は、相手校の副将は、夕べビデオで見た時、大将の座に就いていた。
上段の構えを完璧に自分のものにしていて、その威力は次鋒の人より数段上だった。
体格も体格も白井先輩並みで、横幅は先輩以上。なのに動きは意外に速く、付け入る隙がなさそうに見えた。
現に、後で先輩達と対策を話し合った時、大将については具体的な案が何も出なかった。
そんな相手に真っ向から挑み引き分けた時には、信じられないものを見た気分だった。
本当に、この大会の中だけでも先輩は変わったと実感せずにはいられなかった。
その後を託された相模主将は、一体どんな想いで開始線に向かったんだろう。
今、主将の後姿はシートに隠れてしまって全然見えない。
初めての実戦で、いきなり勝敗を左右する試合を任された時のプレッシャーは相当なものだ。
その上、これまでの対戦相手と違い、地元の高校だという事がいやがおうにも会場を盛り上げた。
自分の試合中は気にならなかったのに、控え席に座ると福岡を応援する声が当然ながら圧倒的に多く、一本と認められない打突にも、大きな拍手が起きた。
もちろん西城の選手が打ち込んでも拍手をくれる観客はいた。
ただ、剣道の試合は勝敗を見極めるのが、他のどんなスポーツよりも難しい。
ほとんど相手が仕掛ける一瞬の隙を衝いて打ち込むから、どちらに打突が決まるのか紙一重みたいなところがある。
当然、レベルが上がるほど審判の目が重要になってくる。
優越、または勝ち負けがはっきりしないせいで、審判の判定に不満が出たり、身びいきをするといった苦情が出る事も、実際にある。
だけど、北斗ですら藤木さんとの一戦で決めた一本は、どちらがどこを捉えたのか全くわからなかったと零していた。
相殺されず俺に旗が上がったという事は、審判の人は俺の竹刀の方が確実に打突部位を捉えたと見たと思っているし、その判断に対して不満なんか全然ない。
けど、俺もその前日に行われた団体戦で、相模主将への面は打突部を外れたと思い、腹が立った。
初めて参加した玉竜旗でさえ、『地元に有利な判定をする剣道は面白くない』などと言う意見もあって、少なからず驚いた。
もし本当にそんな事実があるなら、剣道が……日本の国技が廃れても自業自得と言うしかないけど、俺はそんな事ないと信じたい。
審判をしている人のほとんどが、剣道経験者だと思う。
一度でも竹刀を手にした事があるなら公正な目で見るはずだし、一本かどうかは選手自身が知っている。
もし不公平なジャッジで勝ったとして、俺がその立場だったら、その大会は間違いなく一生の汚点だ。
選手は審判員に異議を言えない。
勝ちだと言われたら周りがどう受け取ろうと勝ちなんだ。
試合場に入った瞬間から、俺達剣士は全てを審判員に委ねる。その気持ちを踏みにじるような人は審判員になれるはずがない、と信じている。
だから、この大会で九州勢が強いのは、出場校数の多さと、玉竜旗に賭ける闘志が、心の奥底でやっぱり俺達とは違うんだと認めざるを得ない。
だけど、剣道に対する気持ちは誰にも負けない。
これからも、より上を目指す為にもっともっと試合をして、経験を積みたい。
こんな…大会途中でバテたりしない為にも。
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