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好敵手
その日の夜、俺は北斗に一つの提案を申し出た。
「――え、何て?」
参考書に落としていた顔を上げ、振り向いて聞き返す幼馴染に、
「だから、『今夜から一緒の部屋で、クーラー入れて寝よ』、って言ったの」
同じ台詞を繰り返すと、俺を上から下まで眺めた北斗が、これ見よがしに首に掛けていたタオルで、額に浮いた汗を拭った。
「……何でこの暑いのに、わざわざ二人で寝ないといけないんだ?」
しかも毎日? と、最後の方はとんでもないというニュアンスを込めて背を向ける。
けど、そんな態度に怯むわけにはいかない。
「だからだよ。それぞれの部屋でエアコン入れてたら、電気代が勿体無いだろ? それよか一部屋だけ入れて一緒に寝た方が、絶対経済的だ」
温暖化の影響なのか、まだ六月だというのにここ最近は夜でも三十度近い日が何度かあって、梅雨の寝苦しさに拍車をかけていた。
「俺は別にそんなの無しでも平気だけど。寒いのより暑い方が好きだし」
ある程度予想していた返事に、即言い返す。
「ウソだ、眠れるわけないだろ。部屋が違ったって夜中よく起きてるの知ってる。熟睡できてないんだって誰でも察し付くよ」
それでも、北斗の態度は変わらない。
こんなにはっきり拒絶の意思表示をする奴に、何と言えばこっちを向いてくれるのか、懸命に考えたけど名案は浮かばず、
「――それでなくても、きつい練習で疲れてんのに……」
愚痴っぽく零して後ろ姿をじっと見つめていると―――
「あーッ、もう!」
しばらくして、怒ったように声を荒げた北斗が「降参」と短く答えた。
「恨めしそうなオーラを送るな、集中できないだろ。あと、それ…何とかしろ」
肩越しに、ランニングシャツと短パン姿の俺を親指で指す。
「『それ』って、この服の事?」
着ているシャツを引っ張って見せると、確かめもせずに頷いた。
「クーラー入れるならそんな薄着はやばいだろ。パジャマとは言わないけど、せめてTシャツとハーフパンツくらいにしといた方がいいぞ」
意識の半分は宿題に向いてるんだろう。素っ気無く言われたそのアドバイスに、素直に従った。
「うん、なら着替えてくる」
やり方は少々強引だったけど、それくらいで許可してくれるなら容易い事だ。
ほっといたらこの夏中エアコンも入れず、当然窓なんか開けるはずもなくー都会で窓を開けても涼しいかどうかわからないがーとにかく、我慢し続けるに決まってる。
固定電話は絶対使わないし、風呂も、ほとんどバイト先で済ませてくるから家では滅多に入らない。
同居する時にそう言ってたけど、北斗の場合、遠慮は相当あると思う。
じいさんにしても頼んで同居してもらってる手前、そんな諸々の使用料みたいなお金は受け取る気ないだろうし、俺が気を付けてないと北斗に不快な生活を強いる事になったりしたら、本末転倒もいいところだ。
「着替えたよ、これでいい?」
ノックと共に綿の半袖パジャマで部屋に入ると、それを見た北斗が「上等」と頷く。
ほっとしてエアコンの下に取り付けてあるリモコン受けから本体を外し、スイッチを入れてベッドヘッドの棚へ持って行き、ついでに腰を下ろした。
「まだ寝ないの? もう十二時だよ」
「んー、あとちょっと。…やっぱ疲れてるのかな、最近効率悪いんだ」
集中力に関しても、俺の知る限りこいつ以上の者はいない。
「珍しい。北斗もバイト、限界じゃないのか?」
「まあな、六月一杯で休み貰うつもり」
なら、あと一週間か…と、壁に掛けてある文字だけのカレンダーに目を遣り、残り僅かになった日数を数えてみた。
バイトのなくなった俺の帰宅時間は、これまでより二時間近く早い。
一人で夕飯を済ませ、腹ごなしにいつもの散歩兼素振りをしてきても八時半前後だから、北斗が帰るまでにほとんどの宿題が片付いてしまう。
「孔太が張り切ってるから、俺も少しは協力しないと」
呟いたその言葉に、山崎の自己紹介を思い出した。
「四月に宣言してたからな、『今年は野球に全てを賭ける』って」
短い時間を有効利用している奴のベッドに腹這いになって、ゆったりした気分でリモコンの隣にあった野球の月刊誌を捲りながら答えると、俺の弛み切った精神状態が伝染したのか、北斗が大きく伸びをしてイスを回転させ、こっちを向いた。
「有言実行の奴だからな。あのパワーには誰も勝てないだろ」
「試合には? 勝てそう?」
ストレートに聞くと、ほぐしていた首をそのまま傾げて考える。
「さあ、どうかな? やってみないとわからないし、ゲームセットまでは何が起きるかわからない」
言葉遊びでもしてるみたいな、呑気な口調。
「でも今の西城のメンバーは実力あるだろ、いいとこ行くんじゃないの?」
「県ではな。けどほら、それにも載ってるだろ、去年全国優勝した学校のエース」
言葉を切り、視線を俺の手の中の雑誌に向けた。
「表紙の人、門倉 湊。今年三年ですごく完成度の高い投手だ。全国のレベルの高さは瑞希の剣道と一緒だな」
そう答えて俺を見る。
久しぶりに向き合った気がして嬉しくなったけど、目の前の北斗は何となく落ち込んでいた。
「――俺、去年は本もテレビも、野球に関する事 敢えて排除してたから全然知らなくてさ、今年の春季大会も早々に負けたし」
らしくなく弱気な様子に、どう答えようか考えていると「そういえば」と、北斗が再び口を開いた。
今度は何だか楽しそうな笑みを浮かべている。
「この前、瑞希の試合見に行った時、助けてくれた自転車の少年の事、話しただろ」
「え…うん。えっと、駅で出口を間違えて、反対側に出た時に居合わせた子だっけ? 野球のユニフォーム着てたっていう……」
なんでそんな事を持ち出すのかわからず、戸惑いながらも二週間以上前の記憶を思い起こすと、
「そう、その彼もそこに載ってるぞ」
と、顎で示された。
「えっ!? どこ? どの子?」
意外な一言に、雑誌を手に飛び起きて、北斗の所に持って行った。
別世界の出来事だと思っていた手の中の空間が、急に身近なものになる。
「俺達と同じ二年だけど、去年すごい活躍して県のベスト3に導いたんだと。今年の県下注目度ナンバー1投手らしい。全国でもかなりいい線行きそうだってさ」
パラパラとページを捲りながら説明していた北斗が手を止めた先に、生き生きとした表情の少年がなぜかバットを手に写っていた。
他のページの子達がみんな真っ直ぐ前を向いて笑顔を見せている中、一人、写真を撮られているのも意に介さず、自然体でやりたい事をしている。
その魅力的な雰囲気――特に少しきつく感じる眼差しが、野球に対する真剣さを強調しているように思え、何となく親近感を覚えた。
「この子か」
返された本をまじまじ見つめていると、
「俺、そいつが絡まれてると思って、つい声掛けたんだけど――」
「あれ、そうだったんだ」
初めて聞く話に、訊き返した声が大きくなる。「道を聞いただけじゃなかったっけ」
「どっちかというと、そっちは口実に使ったんだ。けどほら、そいつの隣にもう一人写ってるだろ?」
促され、もう一度本に目を落とすと、確かにその彼より一回り大柄で、プロテクターを着けた人とのツーショットになっている。
他の子の紹介に比べてもかなり大きなカットで、見出しには『脅威の二年生コンビ』と書かれていた。
「相手は多分そいつだったと思う」
「なら、知り合いだったって事?」
そう言いかけて、手にした雑誌を北斗に向け、見出しの文字を指差した。
「いいや、知り合いどころかバッテリーって事じゃないか」
それほど親密にしているスナップじゃないのに、並んでいて少しも違和感のない二人の姿は、上辺…というか外面だけには見えない。
そう感じさせる何かを彼らは持っていると、写真を見ても伝わってくる。
人の心の機微に聡い北斗が、訳もなくそんな誤解をするとは到底思えなかった。
「……険悪な雰囲気だった?」
本を膝にベッドに座り、好奇心丸出しで訊ねると、イスの背もたれに身体を預けた北斗が「まあな」と答え、短い髪を掻き上げて、その日の事を思い出すように空を見た。
「――そう見えた。二人共ユニフォームだったら間違えたりしなかったけど、そっちの大柄な方、えっと……」
膝の上の雑誌を覗き、名前を確認する。「梛 義純って奴は多分制服だったんだな。で、全然知らない奴だと思ってさ」
決まり悪げに苦笑いするけど、もし北斗が本当に絡まれた奴を助けたのなら、きっと、ずっと口にしなかった筈だ。
バッテリーだと知ったから、今、俺に明かしていると思う。
けど、声を掛けた時の勇気は、たとえ勘違いでも本物だ。
俺の元に急いでいたにも関わらず、困ってると思ったら、迷わず救いの手を差し伸べる。
要領のいい奴、と呆れる事も沢山あるけど、基本はお人好しで優しい奴なんだ。
「そしたら、その二人と当たる可能性もあるって事?」
「まあな。ま、そっちは間違いなく勝ち上がってくるだろう」
腕を組み、自信ありげに答えるのを見て、密かに笑いを噛み殺した。
「西城は? お前らも大丈夫だろ?」
「さあ、監督が思い切って駿を使えば、多少は有利になるかもな」
「えー、何それ! 駿、投げれないかもしれないのか?」
思いっきり、がっかりした声で不満を漏らすと、
「わからない。でもできたら俺も温存という事で、最初の方は他の奴で勝ちたい」
俺とは違う、当事者としての想いを打ち明けられた。
「初めから駿に頼るわけにいかないし。……本当の試合経験の少ないあいつには、どっちになっても厳しいけどな」
そこには、俺が考えるほど単純なものではない事情が含まれていた。
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