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ninety eight (side 鹿島)
病院のエントランスは照明が落とされて、もう薄暗がりだった。
正面の大きな自動ドアも開かず、鹿島はその隣にある夜間診療用のドアから中へと入った。
少し行くと、会計の待合所があり、長イスが並んでいる。
ここは、花奈が小梅に花束を叩きつけた場所だ。
鹿島はここに来るといつも、それを思い出しては胸をざわつかせた。苦い思い出しかない。
けれど、今日は。
その胸は、苦しみではなく、悲しみで押し潰されそうだった。
「……小梅ちゃん、」
ぼんやり座っている小梅に近づいていく。小梅が顔を上げると、涙がぽろぽろと頬を伝って落ちていった。どうやら、ずっと泣いていたようだ。目が真っ赤に腫れ上がっている。
心臓を。
ナイフにでも刺されるような痛みがあった。
鹿島はその痛みに、ぐっと堪えた。
「小梅ちゃん、この度は……」
言葉が続かない。
立場上、何度も取引先の葬儀には出席している鹿島だが、今度ばかりは何と言っていいのかわからなくて混乱する。
そして、小梅との離れていた距離を思うと、さらに言葉が出なくなるのだ。
(そんな状態なのに……)
けれど、須賀に小梅のおばあさんが亡くなったらしいと聞いて、いてもたってもいられなかった。急に容体が悪化して、あっという間に亡くなってしまった、と。
そして、葬儀を執り行わないと聞いて、さらに愕然とした。葬儀を出す金すら、小梅にはないということなのだ。鹿島にとってはそれが衝撃だった。
人は死んだら、葬儀場で葬式をするのが、当たり前のことだと思い込んでいたからだ。執り行われる葬儀が例え簡素なものであっても、最期に金を盛大に使ってもなあということか、などと思うぐらいで、何の疑問も持たずにここまで来た。
(こんなことがあっていいのかよっ)
そんな苦しみや悲しみが、その量を増していって鹿島を覆い尽くしていく。
「小梅ちゃん、俺に何かできることがあったら、」
どの口で、と思ったが、言うべきことはそれしかない。
小梅の笑顔を失う。
それが怖くて、鹿島はメープルの真斗に別れろと言われて以来、連絡を取れていなかった。
小梅とはまだ繋がりがあると思っていたかった。毎日の忙しさの合間に、小梅を思い出しては、その思い出の中の小梅の笑顔に癒されたりして、自分を立て直し、持ち直していた。
(もう……自然消滅したって、思われているかもな)
一度だけ、そう思った。思ってから、ひどく後悔したのだ。
(いや、そんなはずはない。まだ切れていないはずだ。小梅ちゃんは、きちんとした正しい子だから、自然消滅だなんてあり得ない)
自分に言い聞かせて過ごしているうちに、一ヶ月が経っていた。
小梅の泣き顔を、車越しに遠くに見て、愕然としたあの日。
自分が泣かせているのだという、その事実にショックを受け、家に帰って直ぐにゴミ箱に投げつけ捨てた、あの指輪。
情け無いことに、またゴミ箱を漁って拾い、書類棚の引き出しにそっと仕舞った。
そして。
やはり言い訳でも謝罪でも何でもいい、話をしに行こうと決意し、震える手で車を運転しメープルの前まで行ったこともあった。
ポケットに、一度は捨てた指輪を入れて。
閉店まで待つつもりで、座席に深く身体を沈めた。外から眺める小梅の姿。その小さな姿に、胸が絞られた。
会いたい、会いたい、会いたい。顔を見たい、声を聞きたい、君の笑顔を見たい。
どんな理由をつけてでも、みっともない自分を見せてでも、それでも会いたい気持ちが勝ってここにいるというのに。
笑っている小梅がいる。イケメンシェフと元ヤンのあの双子にも、そして常連客にもいつも通り、笑いかけている。
そう、いつも通りに。
(……会いたいって思っているのは、……俺だけなのかもな)
自分が空っぽになったような気がした。
メープルの中では皆、楽しそうに笑っている。笑い声さえ、道を挟んだ車の中まで聞こえてくるような気すらした。
そして、そこに自分の存在はない。
あれから、小梅からのメールもない。
(連絡してこないってことは……そういうことなのか……)
小梅を必要とする自分と、小梅に必要とされない自分。
あの思い出の公園で乗ったシーソーのように、自分と小梅の想いの重さは、格段に違うのだ。
「……今さらそんなことに気がついても、」
もう一度、笑う小梅を見る。
抱えている苦しみは際限なく、その量を増やしていく。
「……遅いってのにな」
愕然と、いや呆然としながら帰り道を運転した。どうやって家まで帰ってきたのか、わからないほどに。
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