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ninety nine (side 鹿島)
鹿島は無言のまま、小梅の泣き顔を見つめている。病院の待合いで、小梅の隣に座ってから、少しの時間が過ぎた。
「お、おばあさんが亡くなって、寂しくなってしまったね」
言葉を絞り出した。涙でぼやっとぼけている小梅の瞳。それが、ゆらゆらと揺れて、所々に光を宿している。
「鹿島さん、」
名前を呼ばれて、ぶわっと身震いがするほどに震えた。もうこんな風に名前を呼んで貰えないかもと、どこかで思っていたのかも知れない。
もう少しで、小梅を抱き締めそうになるのを、鹿島はぐっと堪えた。
「……ありがとうございます」
言って、にこっと笑った。頬が引きつっていて、痛々しかった。
(こんな時でも、君は笑うんだな)
「……おばあちゃんに、いつも……お花をありがとうございました」
鹿島は時々、サツキフラワーで花束を買い、小梅のおばあさんの病室を訪ねていた。小梅に偶然でもいいから会いたいと思う気持ちと、会ったら最後、別れなければならなくなるかもと思う気持ちの狭間で揺れ、結果いつも花を置いて逃げるように帰ってきた。
実際は、小梅がモリタで働いている時間を見計らって見舞いに行っていたことを顧みると、やはり絶対に別れを告げられたくないという気持ちが強く作用していたのかもしれない。
「花が好きだと言っていたから」
「はい、」
笑う。
鹿島は、顔を歪ませて言った。
「小梅ちゃん、こんな時くらい、泣けばいいよ。無理して笑わなくてもいいんだ。君がとても頑張っていたってことは、みんな知っている。おばあさんも、小梅ちゃんのような孫を持って、幸せだったと思うよ」
すると、涙しながらも、さっきまで笑みを湛えていた小梅の顔が、みるみる悲しみに侵食されていった。そのあまりにも悲壮な表情に、鹿島は何かいけないことを言ってしまったのだろうかと、少しだけ気後れした。
「違うんです、そういうんじゃないんです。私、全然良い子なんかじゃなかった」
その言葉に驚いて、鹿島はさらに声を荒げた。
「そんなことない、小梅ちゃんは良い子だよ。優しくて、思いやりがあって、おばあちゃんだって、君のこと、」
「そんなことないっっ!」
小梅が立ち上がった。握った両の手のこぶしは、ふるふると震えている。噛んでいた唇には、歯型がくっきりとついていて、血が滲んでいた。
「鹿島さんに何がわかるのっ。私、全然良い子じゃないっ。おばあちゃんだって……おばあちゃんだって、」
ぶわっと涙が溢れて零れ落ちた。頬が涙でぐしょぐしょに濡れた。
「いつまで面倒を見なきゃいけないのか、って。働いても働いても、お金が無くなっていって……お、おばあちゃんの、にゅ、入院費、に全部、消えていって、ひっく、早く、早く死んじゃえばいいのにって、お、思ったこともあって、」
小梅がしゃくり上げるたびに、背中が大きく上下に動いた。
「か、鹿島さんだって、お、お金持ちだから、もしか、もしかしてお金を、だ、出してくれるかも、って……助けて、くれるかも、って思って、」
鹿島は、小梅を見ていた。小柄な身体が、その全身で叫んでいるようだった。
「わたしっ、わたし、全然良い子なんかじゃないっ。こんな、ひどいこと思ってたんだからあっ」
今度は、一気にそう言い切った。
涙で濡れた目を、鹿島へと向けて、小梅は言った。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、う、うえっ」
途中でえずくようにして、口元を手で押さえる。ごほごほと咳き込んで、ごくっと唾を飲み込んだ。
「こ、小梅ちゃん、」
「お、おばあちゃん、ごめんなさい。かし、かしまさん、ごめんなさいぃ、おばあちゃん、ごめんなさいいぃぃ」
小さな身体をくの字に折って、小梅は精一杯に謝った。
鹿島は気がつくと、自分の両手を伸ばしていた。無意識のうちに小梅を抱きしめていた。
そして鹿島は目を瞑った。
「小梅ちゃん、いいんだよ。そんなことは、どうでもいいことなんだ」
うわああっと、泣き崩れる小梅を抱き直すと、濡れた頬に自分の頬を押しつけた。鹿島は、その押しつけた頬に、小梅の体温を感じていた。
愛しさが全身に駆け巡る。
(ああ、俺はまだこんなにも小梅ちゃんが好きなんだな)
認めた途端、諦めのような気持ちに襲われた。
(もうだめだ、もうこれ以上は、)
鹿島は言った。
「小梅ちゃん、君が好きなんだ、好きでたまらないんだ。君のことが金で買えるんなら、どんな金額だって、惜しまない。けれど、君は金なんかで買っちゃだめな人なんだ。だから、俺は……俺は、お、俺、は、」
気がつくと、鹿島の目からも涙が溢れていた。擦り寄せた頬が、熱く熱く、熱を持っていく。
「……どうしていいか、わからなかった。君は、絶対に金なんかで手に入らない。だけど、君と一緒にいたくて。君が欲しくて欲しくて、それなのに……どうしていいか、わからないんだ。全然、わからないんだよ」
「う、うう」
「金で何とかなるんだったら、」
「ん、う、」
「幾らでも……幾らでも、」
そっと頭を撫でた。鹿島は涙を流しながら、口元だけで苦く笑った。
「金で君を買うことを考えるだなんて……俺の方が、悪いヤツだよ。悪い男なんだ、俺は、君を……」
愛しい黒髪が、指に絡まる。ふわりと優しい香りがして、目眩がした。
「小梅ちゃん、君は違う。俺とは違う。悪い子なんかじゃない、純粋で思いやりに溢れた人だ」
「ううん、そんなんじゃない、そんなんじゃ……」
かぶりを振る。
鹿島は身体をそっと離すと、小梅の頬を両手で包み込んだ。
「……優しい人なんだ。純粋な人なんだよ」
「ううん、違うっ」
小梅が自分を否定すれば否定するほど、胸を焼ききるような痛みがあった。涙が溢れ出す。
「辛かったね」
「う、うえ」
「辛かったんだ。辛かっただけなんだよ」
小梅は鹿島がそう言うと、うわあああっと声を上げて、大声で泣き始めた。鹿島も泣きながら、ぎゅっと小梅を抱き締めた。
小梅の背中が思ったよりも小さかったのを、ずっと覚えている。
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