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one hundred and seven (side 小梅)
「こんにちは、小梅さん。お久しぶりですね」
黒縁の眼鏡はいつしか赤のフレームになり、けれどその知的な雰囲気は相変わらずの深水さんが、家の前に立っていた。秘書の仕事って大変なんだなあと、私は少し呆れて思った。
教科書が詰め込まれてぎゅんぎゅん重いカバンを肩に掛け直す。その重さでふらふらとする頭を、少しだけ下げた。
「……こんにちは、お久しぶりです」
「お元気ですか?」
深水さんは、元気ですと返そうとする私の返事を待たずに、さっそくカバンから大きな茶封筒を引っ張り出し、差し出してくる。
私は、眉を少し下げて困った顔をし、直ぐには差し出された封筒を受け取らなかった。
「あの、深水さん……私、働きながら通えますから、本当に、」
「確かにうちの社長は立派なストーカーですよ」
深水さんのその心底嫌そうな言い方に、ぷっと吹き出してしまった。
「呆れてものも言えません」
差し出していた封筒を、諦めたように下ろす。
「が、小梅さん、どうぞ社長のことはストーカーとは思わずに、あしながおじさんとでも思っていただけませんか?」
今度は笑わなかった。けれど、その代わりに目を伏せた。
「小梅さん、もう何度も話しましたが、社長にはあなたが必要です」
「でも、」
「余計な情報でしょうが、」
反論しようとすると、途端に反撃される。深水さんはとても頭の回転が速いので、私では到底敵わない。
「あれ以来、社長は誰ともお付き合いをされていません」
私は口を噤んだ。
「…………」
「小梅さん、看護師の資格はいつ取られる予定ですか?」
「……あと三ヶ月くらいです。その後、奨学金を借りている病院に勤めることになると思いますが。それも無事に試験に受かれば、の話ですけど」
「あなたは受かりますよ。学年で一番、優秀なのですから」
成績を深水さんが知っているのを私は苦く思いながら、「ふふ、本当にストーカーっぽいですね」と言った。
茶封筒を改めて差し出してくる。
「これは看護師が研修の間に受けられる奨学金のリストです」
私は抵抗するのをようやく諦めて、それを受け取り中から書類を出して目を落とす。すると、深水さんは眼鏡をくいっと指で上げながら覗き込んできた。
「一番下の、『成績優秀者奨学金制度』は、金利もなければ返却義務のない、非常にありがたい奨学金制度です。後ろの方に小さく載っていますが、鹿島コーポレーションが未来ある若者のためにと、創設したものです」
一枚めくると、その奨学金制度の申し込み用紙が。
私は苦く笑ってから、言った。
「お心遣いは嬉しいのですが、」
深水さんは、私の言葉を遮って言った。
「断られるだろうことは承知しています。その上で持参しました」
見ると、深水さんも苦笑いを浮かべている。
「あなたを……あなたを、よく見ています。もちろん、うちの社長は本物のストーカーですから」
あ、訴えないでくださいよ、と手をあげる。
「結婚やお付き合いのお申し出も、もう心に決めた人がいる、の一言で一蹴されていらっしゃいます」
「…………」
「もし、あなたがこのお話をお断りするなら、もうストーカーは止めてくださいと、面と向かって言ってやってください」
深水さんの目が、厳しいものになった。
「あなたを嫌っていますとはっきり言って、頬をビンタするなどして、目を覚まさせてやってください」
私は困り顔を浮かべた。
深水さん、それは出来そうにもないんです。
鹿島さんは今でも、私の唯一無二。
私は、茶封筒に書類を入れると、頭を下げてから家へと入った。
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