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eighty three (side 鹿島)
「もう帰ろう」
「は、はいっ」
「ごめん、急に」
「いえ、大丈夫ですっ」
小梅はまだ、目を丸くしている。腕を掴まれたまま、そのままに。鹿島はエレベーターが一階へ着く頃にようやく小梅の腕を離した。
「……ごめん、痛かったね」
「いえ、全然ですっ」
(君が……たくさんの男に囲まれているのが、我慢ならなかった)
実際は、そんなことは口が裂けても言えない。
けれど、そう言いたい気持ちと、それを言ったら終わりだと思う気持ちが押し合いへし合いをして、鹿島の中を占めていく。
鹿島は、押し黙るしか仕方がなかった。無言で、エレベーターのドアが開くのを待つ。チンと音が鳴り開くドア。
すいっと小梅が先に躍り出た。軽やかな足取りで、くるっと回って鹿島を見る。
「良かったです。大同さんのオススメの料理、ちょっと口に合わなくてっ」
鹿島は、その突然の明るい言葉に、きょとんとしてしまった。
「あんまり美味しくないって言ったんですけど、みんなが美味しい美味しいって言うんです。私の舌がおかしいのかな」
「小梅ちゃん……」
自分への情けなさもあったが、小梅に気を使わせたこともあって、鹿島の気持ちはどん、と落ち込んだ。
けれど、鹿島をなんとか笑わせようとする小梅がさらに愛しくなって、鹿島は小梅を抱き締めたい衝動に駆られた。ホテルのロビーで。ホテルのロビーなのに、もう少しで手を伸ばしてしまうところだった。
「送っていくよ」
何もかもを抑えていた。恋心も嫉妬心も、嫌というほどに。
鹿島は今日、恋のままならなさと苦しみを知った。
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