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ninety six (side 鹿島)
「須賀くん、」
鹿島が声をかけると、「行ってませんよ」とすかさず返される。
それを受けて、はあっと盛大に溜め息を吐くと、「車、貸してくれ」と言う。
「社長の車ですから、お好きにどうぞ」
須賀を帰してから、車のハンドルを握る。
(……取り敢えず、皐月のところに行こう)
フラワーショップに用がある、とのていにして自分に言い聞かせる。初めて小梅に会いに行っていた頃よりは上達したハンドルさばきで、交差点を進んでいく。
(会いたいけど会えない、合わす顔がないって、……何だろうな、拷問か)
ハンドルを握る手にべっとりと汗が滲んでくる。ハンカチを出して手を拭くと、自分がおっさんになった気になって、少しだけ惨めに思えた。
サツキフラワーの前に車を停めてから深呼吸し、心を決めてから、ちらっとスーパーモリタを見る。
レジにはいつものように小梅の姿が見える。
途端に、ぶわっと何かが湧き上がってきた。
(小梅ちゃん、小梅ちゃん、……)
何度も心で繰り返す。座席から乗り出すように見ると、客と話しながら商品をレジに通している小梅の顔もはっきりと見えてくる。
いつもの笑顔、笑っている。そして、相手の客も、笑っていて。
(俺も、ああやって……)
小梅の笑顔につられて、笑ってて。小梅と話をするだけで、どんなに楽しかっただろう。
メープルの真斗の言葉が蘇ってくる。
「あんたがその秘書さんってのに指輪を買ってやってるとこ、小梅も俺らと一緒に見てんだよ……ああそうだよ、小梅は泣いてなんかいないっ。自分の彼氏が女連れて、キャッキャしてるとこ見たってなあ。小梅は俺らの前では泣かねえんだっ」
週刊誌に載った写真も見ただろう。
それは以前、小梅がこう話していたからだ。
「メープルに置いてある雑誌については、私と真斗さんの趣味は合うんですけど、隼人さんだけは何でかおじさん趣味で。週刊誌とかスポーツ新聞とか取るんですよ。ああ見えても、まだ若いんですけどね」
こうも言っていた。
「ご飯作りのレシピとか載ってるんですよ。時短とかラク家事とか、結構タメになるんです、週刊誌って。それにメープルで読めばタダだし」
ふにゃっと笑うその笑顔は、鹿島をほっと安心させたのだった。
その時、は。
「小梅ちゃん、」
声に出すと、胸が一層痛んだ。
顔を前に戻して、ハンドルを握る手に力を込める。ずるっと汗で滑る。そのまま離して、両手を広げて見た。
その指の隙間から何かが滑り落ちていったような気がして、さらにぞっとした。
(このまま失ってしまうのか……)
もう一度、小梅を見る。
「……小梅ちゃん」
そこに客は居ない。客足が途切れたのだろう。
小梅は俯いていて、そして。
すっと腕を上げた。
手の甲で、目元をぐいっと拭った。
「あ、」
……泣いて、いる?
鹿島の心臓が木っ端微塵に砕け散り、止まった気がした。
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