第1章 少年から少女へ

1/7
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/23ページ

第1章 少年から少女へ

 今から5年ほど前まで私は、自分の事を僕と呼んでいた。 その日まで確かに私は、男子だった。 でも、それを覆す出来事が起きたのです。  その頃、僕が住んでいたアパートは、狭い路地の奥に佇む古い2階建ての木造アパートだった。 道路に面した階段は、古く錆びついている。 その錆びついた階段を上がってすぐの部屋が僕の部屋だ。 その部屋は、6畳の和室で窓際にステンレス製の流しがある。 部屋には、畳が見えない位にゴミが散乱している。 今で言うゴミ屋敷状態だった。 小学校6年の僕は、もう何日も学校へ行っていない。 僕にとって学校は、苦痛でしかなかった。 「臭い」「汚い」と罵られ誰一人話しかけてこない。 給食だけが唯一の救いだった。 家では、カップ麺か良くてもコンビニおにぎりしか食べた事が無い。 それでも、何か食べられるだけましだった。 ギャンブル好きの父は、お金が無くなると何日も帰ってこない事がある。 その間、水だけで過ごす事もよくあった。 炊きたてのご飯は、母がいた時に食べたような気がする。 記憶の片隅にうっすらと残っているのだが、夢の中の出来事かもしれない。 まともに食事らしい物が食べられるのは、学校の給食しかなかった。 その給食費すら何か月も払っていなかった。 ある日の給食に死んだ金魚が入れられていた。 愕然とする僕を周りの女子たちがクスクス笑って見ていた。 それが学校に行った最後の日だった。  両親は、僕が幼い時に離婚し父に育てられていた。 母の事は、顔すら覚えていない。 父は、定職を持たず何をしているのかわからない。 時々傷だらけで帰って来ることもある。 その父は、3日も顔を見ていない。 ボサボサの髪は、肩まで伸びていた。 最後にいつ床屋に行ったか覚えていない。 敷きっぱなしの布団は、湿ってカビ臭い。 その布団に座り少年漫画を読んでいた。 その時は、読んでいると言うより眺めていたという方が正しいのかも知れない。 同じ本を何度も繰り返し読んでストーリーもすっかり覚えてしまった。 ボロボロになった本は、自分を投影しているように思えた。  膝を抱えるように漫画を読んでいる時に階段を登る靴音が聞こえてきた。 靴音は、部屋の前で止まりドアをノックする音。 「こんにちわー、立花さん、児童福祉課の者です」 少し驚いた僕は、掛け布団を頭から被り息を潜めた。 更にドアをノックする音。 「だれもいないのかしら…… 夏音君、居ますか?」 若い女性の声だった。 隣の部屋のドアが開き中から田中芳江が出てくる。 芳江は、隣に住むおばさんだ。 「夏音ちゃんどうかしたんですか?」 「私、児童福祉課の職員なんですが夏音君が学校へ来てないんです。教育委員会から連絡がありまして」 2人がドアの前で話始めた。 「ああ、夏音ちゃん最近見てないわ。父親も、最近見てないわね。夜、電気ついてるから居ると思うんだけど」 「そうなんですか」 「あいつ……夏音ちゃんの父親なんだけど。ろくな奴じゃないわね。子供ほっときっぱなしで飲み歩いて。時々ヤクザみたいな人も出入りしてるし。母親も6年くらい前、愛想つかして出て行っちゃったのよ。可愛そうに、夏音ちゃん残して」 「そうですか、少し心配ですね。私、また出直してきますが何かあったらここに連絡ください」 涼子がバックの中から名刺を取り出し芳江に渡す。 芳江は、受け取った名刺を目を細めながら見ている。 「山崎涼子さんね……わかりました。何かあったら連絡するわ」 「宜しくお願いします」 涼子は、かるく会釈をして階段を下りて行く。 隠れるように暮らしていた僕は、少しほっとした。 しかし空腹が何よりも辛い。 もう何日も水以外に口にしていない。 このまま飢えて死んでしまうのかと言う不安を持っていた。 階段を下りて行く福祉課職員にほっとする反面、後悔が過る。 学校に行かない後ろめたさと誰かに助けてもらいたいという思いが交差する。  しばらく時間が過ぎ夕方、空腹を忘れるように部屋でテレビを見ていた。 空腹は、『辛い』と言うより恐怖だった。 階段の靴音がするたびに父の帰宅を心に願う。 その時だった。ドアのノックする音。いつも父は、ドアノックなどしない『誰か来た』不安で心が揺れる。慌ててテレビを消して息をひそめる。 「こんばんわ、夏音ちゃん居るんでしょ」 聞き覚えのある声は、となりのおばさんだった。 「こんばんわ、夏音ちゃん居るんでしょ」 緊張して膝を抱えていた僕は、少し安堵した。 返事も忘れドアをそっと開けると房江が隙間から覗き込む。 「お父さん居ないんでしょ?」と言うと同時にドアを開けて小鉢を差し出してきた。 「夏音ちゃん。お腹すいてるでしょ」 その小鉢には、湯気の立つカボチャの煮物が入っていた。 「ほら、これ。カボチャの煮物。良かったらお食べ」 空腹でこのまま死んでしまうのかも知れないと思っていた僕は、嬉しさがこみ上げてくる。 「ありがとう。おばさん」 小鉢を受け取ると暖かさと煮物の香りが僕の体に染み渡るように感じた。 「お父さん、帰ってこないの?」 「うん、もう3日帰ってきてない」 「どうしちゃったのかしらねー、困ったものね」 「……」 「まあ、とりあえず。これ食べて元気だしな。また何か持ってきてあげるから。困ったことがあったらおばさんに言うんだよ。じゃあね」 「ありがとう。おばさん」 房江は、ドアを閉め帰って行く。 普段、口の悪いおばさんなのだがこの時だけは、神様のように思えた。 隣に住むおばさんと父は、すごく仲が悪い。 顔を合わせるたびに言い争いをしている。 ほぼゴミの出し方で喧嘩になる。 この部屋がゴミ屋敷のようになってしまったのも隣のおばさんに口やかましく言われた事で父がゴミ出しをしなくなってしまったからだ。 そんな恨みも忘れさせてくれる温かい手料理。 母がまだここに居た時の微かな思い出が蘇る。
/23ページ

最初のコメントを投稿しよう!