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舟歌
引き戸の滑る音に、砂肝にさす串の手を止めた。
「よッ!」しゃがれた声とともに、店内に冷えた風が舞い込む。
振り返ると、にゅっと笑って片手をあげるしんちゃんが立っていた。
「らっしゃい! 口開けとは嬉しいね!」本日一番目の客だ。流しで洗った手を拭い、ねじり鉢巻きをひょいと直した。
酒屋の隅で角打ちでもしてきたのか、しんちゃんの顔は赤い。
「早すぎたか大将。ゆーこ、ここでいいか?」どっこらしょ。
「大将、人肌ね。あ……今夜はちょいと冷えるからぬる燗にしよう」カウンター席に腰を下ろし、無精ひげの伸びた顎をゴシゴシと撫でた。
「今日はいいイカが入ってるよ」
「うん、じゃあそれを──炙ってもらおうかな。ゆーこもそれでいいよな。おぉ、そか。じゃあ刺身ももらおうか。おっと、それもいいな。大将、トビはあるかい」
「ありますよ!」
「じゃあ、くさやももらおう」
「はいよ! しんちゃん、イカは肝焼きにしようか?」
「おぉ、いいねぇ、なんか久しぶりだねぇ」
「でさ」しんちゃんが顔を寄せるように横を向いて話しかける。ほほぉ、と口をとがらせて頷いている。
「世の中にゃあ、そりゃいろんな人がいるさ。気にしてたらきりがない。お前の人生の主人公はお前なんだから、主役を渡しちゃなんねえ。ぜってえなんねえ」
背中に聞こえる声に気を取られていたとき、片手鍋がふつふつと沸き始めた。
徳利を入れてガスを止め、トビウオのくさやとイカを冷蔵庫から出す。
「ぬる燗お待ち!」
「あいよ」
「サービスお通し、タコと切り干し大根のビリ辛ね」
「悪いね大将」
徳利から酒を注ぎ、口からお迎えをしたぬる燗を、しんちゃんはくいっと一飲みする。
「いい具合の燗だ。五臓六腑に染み渡るね」
お酒はぬるめの 燗がいい
肴はあぶった イカでいい
しんちゃんがぽつりぽつりと口ずさむ。
「さ、大将もいきなよ」しんちゃんがとろんとした目を向けた。
「いただきます」冷蔵庫から出したビールの栓を抜いた。
「ほら、ゆーこ、大将に注いでやりな」
「いやいやしんちゃん、手酌でいただきますよ」
「そか、悪いね」
「しんちゃん、ぴちぴちのイカ刺しお待ち!」
「いい艶だねこりゃ。おぉっと、ほんとだ、一切れ逃げちまった」
「しんちゃん、それ、落としたっていうんだから。肝焼きとくさやはもうちょいね」
「はいよはいよ。ほら、ゆーこ、イカが来たぞ。逃げる前に食っちまえ」
そこには誰もいないのに。右も左もわからない脱サラ男を育んでくれたしんちゃんの奥さんは、もう十年も前に死んでしまったのに。
しんちゃんの笑顔が、やけに悲しくこの胸に迫る。
イカは大将、肝焼きが一番おいしいのよ。無口だけれどやさしかった裕子さんが教えてくれたメニュー。
ああそうだ。今日は裕子さんの祥月命日。カレンダーを横目で見て口を引き結んだ。
ごめんなしんちゃん、忘れてて。
「舟歌聴かせてくれよ」しんちゃんの声に、くたびれたラジカセのボタンを押す。
「悪かったねしんちゃん、忘れてて」
「いいってさ、なあ、ゆーこ」
しんちゃんがまた、隣を見た。
しみじみ飲めば しみじみと
想い出だけが 行き過ぎる
涙がポロリと こぼれたら
歌いだすのさ 舟唄を
─fin─
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