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サイコロ
「おう、あんちゃん。どうだいゆっくり眠れたかい」
港に現れたじいさんが色のあせた半袖シャツの二の腕を掻きながら、ちょっと照れくさそうに笑った。
昨夜たまたま、居酒屋のカウンターで隣り合わせになったじいさんだ。妙に気が合って明け方まで酒を酌み交わした。
視線に気づいたのか、シャツからのぞく腕をさすった。昨夜はジャンパーを羽織っていたから気がつかなかった。
「博打うちは左腕、駕籠かきは両腕。刺青ってのはそういう風に決まってたらしい。俺の場合、金がねぇから片っぽなだけだ。もう行くか」
「はい、あてどもない旅にふたたび」
「船は追っつけ来るよ」夕焼けの広がる水平線を差した指は節くれている。
「この国に賭けるものなんてないって、ゆんべあんちゃん言ったっけな。信じられるものなんて、どこにもないって」
「はい、おこがましくも」苦笑した。
「まあ、このご時世、そんな気持ちになるのもわからなくはねぇけどもな。金持ってる政治家が貧乏人の気持ちなんてわからねえのは当たり前のことさ。会社でもどこでもそうだけどもさ、ひとの上に立ちゃさ、苦労した時のことなんて忘れちまうのが人間の愚かしさだ」
じいさんは海から吹く風に目を細め、白髪頭をかき上げた。
「あぁ、こんな風体の俺が諭しても説得力はないわな。うまく言えねえけど、賭けるものなんて、そのうち見つかりゃめっけもんさ」
煙草を取り出したじいさんは、左手の親指の爪に吸い口をトントンと叩きつけた。
「だけどな、どんな状況になっても、あんちゃん、何か見つけたら投げ出すなよ。俺なんて、頑張って頑張って歯ぁ食いしばって、最後に賭けたのが、どうしようもねえサイコロさ」
じいさんがふう、と吐き出したハイライトの煙が風に吹かれて渦を巻く。
「まだ若けえよあんちゃん。無気力になるのは早すぎる。もがきが足んねえかもな。人生ってさ、嫌になるぐらい後戻りすることがあるのさ。あんたはまだまだ旅の始めだ。振出しに戻ったってすぐに追いつく。ほれ、吸うか」
差し出されたハイライトを抜き取ると、火のついたライターが差し出された。じいさんの乾いてガサついた手は火が消えないように優しくこの手を包み込んだ。
「人生なんて、あてどもねぇ旅と同じさ。ま、元気でやりなよ。ほら、これやっからさ」
その手のひらにあったのはサイコロふたつだった。
「俺を思い出したら転がしゃいいさ。たまにゃあ気分転換にさ。それより諦めんなよ。俺みたいになっちまうぞ。あんちゃん言ってたけど違うよ、俺は正直者なんかじゃない。人生の敗残兵さ」
「そんなことないですよ」
「おおありだ。過去を悔やむことも、明日を夢見ることもなく、今日だけ今だけのサイコロを振る大馬鹿野郎だ。でもな、こんな生き方もあるんだって、こんな俺だって許されるんだって、いつだか気がついたのさ」
旨そうに煙草の煙を吐いた。
「俺にも女房子供がいてさ、普通に働いていたんだ。子供のおしめだって替えてやったんだぜ。
道が分からなくなったらそれ振りな。明日の道を丁半で決めてみるのもたまにゃあいいさ。達者で生きなよあんちゃん。できれば」
定まらない指先をゆらゆらと伸ばした。
「まっすぐにさ……お、船が見えてきたぞ」
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