第4週目

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第4週目

【19冊目】 「日本では薄紅と言うと最初に何を思い浮かべますか?」  スエザネ・カトウ先生からのメールに、僕は己の知識を総動員した。だが、総動員したところで元々が貧相な脳味噌なので「口紅」しか思いつかない。手近にあった辞書を引いてみてもやはり「口紅」「紅花」「着物」「和紙」くらいしか広がっていかず、この答えでいいのだろうか、と悩む。もう少しページを辿っていくとやや変わり種で薄紅は香木の名前でもあるというのが分かった。他の人の意見も聞きたかったので隣の席で『今日も推し事はじめましょう!』の挿絵を描いていた湯巻先輩にそうっと声を掛ける。 「すみません、ちょっとだけお話してもいいですか」 「うん、どうぞ」  ペンタブを置いて、湯巻先輩は僕を見た。 「薄紅って言葉から何を思いつきます?」 「ああ……青森のお菓子、かな?」  それは知らなかった。詳しく聞くと有名な青森の林檎菓子らしい。通販サイトでも買えるようになっていたので詳細をメモして、薄紅のイメージとしてカトウ先生に送る事にした。 「ありがとうございます、助かりました」  僕が礼を言うと、湯巻先輩はこくりと頷いてまたペンタブを握った。しかし、何かを思い出したようにもう一度僕を見た。 「あの……」 「はい?」 「ゆかりちゃんの、アンソロの原稿大丈夫そう?」  湯巻先輩は小本ゆかり先生のオタクエッセイ『今日も推し事はじめましょう!』の挿絵を担当しており、個人的にも親しい仲だ。その彼女が、何故か小本先生の心配をしている。 「育塚君の話では、順調だと聞いてますけれども……」 「ええと、ゆかりちゃんと最後に連絡取ったのは……?」  共有しているスケジュールアプリを呼び出してアンソロジー企画のタブを見返す。 「多分、二月三日です」  僕の答えを聞いて、湯巻先輩は「ああ……」と全てを悟ったかのような溜め息を吐いた。 「ええと、あの、一昨日に『プリハト』のバレンタインイベのお知らせが出てたんだけど……」  プリハト。正式名称を『プリンス・オブ・ハート』という女性向けアプリゲームの名前が出て僕はざあっと血の気が引いた。 「まさか……まさか、瑠璃守ヒカル(るりがみ・ひかる)がランキング報酬に!?」 「来ちゃってるんだぁ……見事に……ホワイトデーイベントと連動してるから多分一ヶ月くらい走り続けるはず……」  瑠璃守ヒカルとは『プリンス・オブ・ハート』に登場する屈指の人気キャラクターである。アプリゲームは一般的にゲームをすることでポイントを稼ぎ、そのポイントに応じてキャラクターやアイテムが貰える方式と、稼いだポイント数をプレイヤー間で競わせて上位の者だけがキャラクターを貰える方式がある。後者のシステムは一般的に「ランキング」と言われ、ランキングを勝ち抜いた者だけが与えられるキャラクターやアイテムを「ランキング報酬」と呼ぶ。この欲望に塗れたシステムを『プリンス・オブ・ハート』では採用しており、小本先生の推しキャラ「瑠璃守ヒカル」がバレンタインをテーマにした期間限定のランキング報酬であると判明してしまったのだ。  小本先生は今までに何度か原稿を落としてしまっている。ウェブマガジンである事が幸いして大事故にはなっていないが、全ての理由が「推しキャラのイベントを走っていた(ゲームをプレイする事をこう表現するらしい)」というものである。社会人としてまずいという自覚は彼女にはある。原稿が落ちてしまった時はいつも気の毒になるくらい謝ってくれるし、反省しているように見える。見えるというか、実際に深く反省している。僕やジュイエ編集部は上っ面で騙されている訳ではない。この悲劇は彼女がゲームを止めたいのに止められない、「ゲーム依存症」を抱えているために起こっていた。実際に、小本先生はゲーム依存症を治療するために病院へ通っているが、彼女が得意とするオタクの暮らしを描いた小説やエッセイの仕事が次々に入ってくるために、いくら遠ざけようとしてもゲームの誘惑に抗う事が出来ないらしい。ジュイエ・マガジンでも三年間連載が続いている『今日も推し事はじめましょう!』の原稿を毎月依頼しているので、彼女の依存症の一因になってしまっているはずだ。  定期的に湯巻先輩が小本先生の家を訪ね、オタク話に花を咲かせながら栄養のある食事を作ってあげるという「介護」をしてはいるが、いつか彼女が身体を壊してしまうのではないかと僕達は気を揉んでいる。 「アンソロジー連載の順番は……?」 「小本先生、二番目になってます」 「……今の内に、リスケしてあげた方がいいかも」  現時点で六名の作家さんへの詳細な原稿依頼が完了している。僕は胃の痛む思いでスケジュールに残っていた一人の作家の名前を見た。九池石榴。若草色を担当してもらうアイドル兼小説家の女の子。彼女の小説は六番目に掲載する予定になっていた。顔を合わせて原稿を依頼するのは明日の予定である。 「九池先生に頼んでみます」  育塚君にも伝えなくてはならない。カトウ先生へのメールの返信も忘れずに。情報ありがとうございました、と僕は改めて湯巻先輩へ礼を言いデスクに戻った。 『今日も推し事はじめましょう!①』小本ゆかり著/2018年/ジュイエ・マガジン 【20冊目】  九時、出勤。昨晩に届いていた四人のライターさんの原稿チェック。  十一時、来週から始まる「ミステリ十選」企画についての進捗を編集長に報告。  十三時、九池石榴先生(南さん)と打ち合わせ。久しぶりに色々話せた。  十四時半、再び原稿チェック。七人のライターさんから返信あり。  十八時四〇分、退勤。久しぶりに瀬田先輩と顔を合わせたので飲みに行った。  ずっと頭の隅にある『みはやゆきしも』について南さんと瀬田先輩にも訊いてみたが、収穫はなかった。反対に南さんから「飼っていた羊を食べる男の話を知らないか」と尋ねられた。咄嗟にその場で出て来なかったのだが多分、薪廉太郎(たきぎ・れんたろう)の『食・触・飾』の「触の章」の事だと思う。  瀬田先輩と三軒はしごしてしまったので、今日はもう寝る事にする。詳しい話は、また今度に。 『食・触・飾』薪廉太郎著/1986年/来談書房 【21冊目】 「ねぇ、チョコレートの出てくる可愛い小説ってない?」  昨日、瀬田先輩と飲みに行った時、最初に切り出された一言がこれだった。一杯目から瀬田先輩がスクリュー・ドライバーを頼んだので今日は長くなりそうだなぁ、と思いながら僕は答えた。 「『ホットチョコレート』っていうのがあります」 「どんな話なの」 「おばあさんが主人公なんですけど、恋人との思い出のホットチョコレートをイタリアまで飲みに行くんです」 「あは、元気なおばあちゃんね」  先輩は笑って盛り合わせのアーモンドナッツをつまんだ。 「娘夫婦にイタリア行きを止められるんですが、最終的に孫娘が味方してくれて一緒にイタリアへ飛ぶんです」 「恋人って、おじいちゃんの事?」 「はい。もうおじいさんは亡くなっていて、写真を持っていくんです」 「えー、それ可愛いお話かしら? ちょっとしんみりしない?」  頬杖をついて、瀬田先輩は首を傾げる。先輩のネクタイにプリントされた兎と目が合って、僕もナッツを口に入れる。 「あらすじだけ言うと確かにしんみり系なんですけど、パワフルおばあちゃんとツッコミ系の孫の会話がおかしくて……温かい話なんですよ」  そう説明すると、今度読んでみるわ、と瀬田先輩は頷いた。  僕はキールを飲みながらいくつか仕事に纏わる話をした。瀬田先輩は僕が採用試験を受けた時の面接官で、何となく、親鳥を追いかける雛みたいに無意識に悩みを打ち明けてしまう。あの面接の時の瀬田先輩はガチガチに堅い口調で、フェミニンなブラウスとリボンタイがとても美しくて神秘的だったのに、いざ入社して挨拶をしたら「よろしくね~」が第一声だったので盛大に拍子抜けしたのは今でも鮮烈に覚えている。 「……今日ね、久々に「なよなよしてる」って言われちゃった」  ぽつりと先輩は言った。瀬田先輩は広告スポンサーとのやり取りを担当している。彼は人と会話するのが好きだ、というタイプなので営業向きなのだが「外向きの顔」と「身内にだけ見せる本当の顔」を使い分けて仕事をしている。けれど、自然と「本当の顔」が仕草や語気に現れてしまう事があって、相手先から心無い言葉を浴びせられる時があるのだ。  ジュイエ・マガジンは新興の出版社であり、LGBTQの人間が集まった職場だ。瀬田先輩も、明梨編集長も、湯巻先輩も、育塚君も、それぞれの事情を抱えて生きている。それは「僕」だって、同じだ。お付き合いをさせていただいている作家さんやスポンサーには、僕達の事情は基本的に伝えていない。ただ、察しのいい人もいる。察しが良くて、残酷な人に出会ってしまうと僕達は曖昧に笑って、俯くしかない。 「外」の人間と関わる機会の多い瀬田先輩は、一番傷つく役割を負っている。彼は人と話すのが好きなのに、話をする相手が彼を拒否する。こうやって、たまにしょんぼりしている瀬田先輩を見ていると、どうしてもっと普通の世界にならないのだろう、と思う。瀬田先輩が優美な仕草をして、上品に話して何が悪いというのだろう。  僕は一緒に悲しむ事しかできなくて、瀬田先輩の背中をぽんぽん、と擦った。ありがとね、と彼は小さく微笑んだ。それからバーを変えながら、四月の広告スケジュールと、彼のお気に入りのショコラティエが近くのデパートに出展している話を聞いた。 『ホットチョコレート』都築美佐子著/2002年/鹿風舎 【22冊目】 「クソッ……瑠璃守ヒカル……瑠璃守ヒカルが憎い……!」  会議机に育塚君は突っ伏した。アンソロジー企画の原稿を依頼している小本先生のリスケが本格的に決まり、事は収まったかと思っていたのだが、僕達は思わぬ伏兵の存在を知ってしまった。  二月十四日のバレンタインにちなんで、漫画家の案山子シャル(かかし・しゃる)先生に八ページの漫画を依頼していたのだが、今日になってイラストに変更できないかと相談のメールがあった。担当の育塚君が慌てて案山子先生に電話を掛け、「ご病気をされたのですか」「こちらに不手際がございましたか」「原稿料に問題があったのでしょうか」とひたすら低姿勢を貫いてヒアリングをすると、電話向こうから啜り泣きが聞こえ、「ジュイエさんは何も悪くないんですぅ」と彼女は白状してくれた。  案山子先生も小本先生と同じように『プリハト』の瑠璃守ヒカルが大好きであり、今開催されているゲームのイベントにずっとかかりきりになって原稿の進みが大幅に遅れてしまっていたのである。いつも案山子先生は〆切ギリギリか、少しオーバーして原稿を出す事がほとんどだったので、油断してしまっていた育塚君も育塚君だけれど、今回は本当に間に合わない、らしい。 「こんなはずじゃなかったんです。『プリハト』はイベントに来るキャラの順番がほぼ固定で、バレンタインにヒカル様が来るはずなかったのに……ジュイエさんからお話を頂いた時にちゃんと次のイベントはヒカル様来ないな、って確認したのに……」  〆切を破ろうと思って破る作家はどこにもいない。それは分かっているのだが、〆切破りの原因がゲーム、というのはやはりこちらにとってクるものがある。とはいえ、案山子先生がまだ二十歳のお嬢さんである事は知っているので、僕達も強く非難したりはしない。ただ、一枚のイラストだけで企画ページは成立しないので、他の方策を考えるしかなかった。 「イラスト一枚であれば、確実にお願いできますか」  はい、と小さな声で返事があったのを聞いて、育塚君は「一時間以内にイラストの詳しい内容について再度ご連絡いたします」と電話を切った。  そして今、会議室に僕と湯巻先輩と明梨編集長も集まり、緊急の会議が開かれている。 「バレンタインに特集する、と予告したのが裏目に出たな」 「はわ……ばっちり案山子先生の名前入れちゃってるね……」  湯巻先輩がジュイエ・マガジンのサイトページを確認して溜め息を吐いた。 「もう十二日なので、新しく別の作家に依頼をかけるのはどのみち無理ですって」 「どうして君達は待ちすぎるんだか……」  僕が引き起こした沼見さんの一件を思い出してしまったようで、明梨編集長が呆れながら言った。 「だって、今やってる事を「進んでますか?」ってわざわざ訊かれるの、すげぇ嫌じゃないですか。勉強やりなさいよ、今やろうと思ってたのに、みたいなああいう感じで」 「だからって、二日前だぞ」 「漫画特集ページだから回収した原稿確認して、画像アップする作業すりゃ終わりのはずだったんですよ。何だかんだいつも遅れますけど、案山子先生がマジで原稿落とした事って今まで一度もなかったし」 「まあまあ……それよりも、特集どうするか考えようよ」  編集長と育塚君が険悪になっていくのを察して、湯巻先輩が話題を元に戻す。彼女の一声で二人はハッとしたように「すまない」「すみません」と謝罪した。急なピンチに見舞われた時、一番冷静さを失わないのはいつも湯巻先輩なのである。 「イラスト一枚だけ飾るのって、やっぱ手抜きに思われますよね」 「うーん、やっぱジュイエの読者は物語を読みに来てるから……」  いくら湯巻先輩が特集ページを飾り立ててくれても、メインディッシュが薄味だと物足りない。 「……絵はこれ以上追加できないんだとしたら」  何かを思いついたように育塚君が言った。 「文章はどうですか。書くのメチャクチャ早い人、何人かいますよね」 「ああ、サイトにも「案山子先生の描き下ろし」と書いてあるだけだから、描き下ろしイラストに掌編のストーリーがくっついていても、不思議ではない」  彼の提案に編集長も頷き、さらにこう続けた。 「和杉先生に連絡を取ってみよう。彼女ならここに来て、その場で執筆してくれる」  和杉ゆらり先生は『ホントの事を知りたくて。』や『全力疾走ラブ&ピース』シリーズなど、ライトノベルレーベルを中心に活動している作家さんで、彼女の速筆に僕達は何度も救われていた。 「あれ、でも和杉先生も『プリハト』のファンでしたよね?」  これ以上の事故はこりごりだと言わんばかりに育塚君が確認する。すると編集長は首を横に振った。 「確かに和杉先生もあのゲームが好きだが、彼女の推しは「甘楽チアキ(つづら・ちあき)」だ。今回のイベントには登場していない」 「よくキャラ名まで覚えてますね……」 「前に関連グッズを差し入れしただろう。人が喜ぶ物を覚えておいて損はない」 「それは、今回の件で身に沁みました」 「じゃあ決まりだ。和杉先生には私から電話で連絡する。育塚君はイラストのシチュエーションを湯巻さんと相談して決めて、案山子先生へ連絡を」 「分かりました」  ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした、と育塚君が改めて謝罪すると、僕も含めてその場にいる全員が苦笑してしまった。 「流行のゲームに負けない原稿回収の方法を考えないと、だな」  眉間に皺をよせていた明梨編集長も、冗談交じりにそう言った。すると会議室の扉がコンコンとノックされた。僕達は顔を見合わせる。 「ごめんなさい、大事なお話し中だった?」  扉を開けて入ってきたのは瀬田先輩だ。その手には大きなお菓子の包みがあった。 「さっきご挨拶してきた所で、バレンタインが近いからって貰ったの。アタシ、これからもう一社回る所があるから、良かったら先に皆で食べて」  高級チョコレート店の名前が箔押しで入っている包みを渡される。そろそろ十五時だからと、わざわざ一旦編集部に戻ってきてくれたらしい。 「あっ、これ、テレビで紹介されてたお店だ……瀬田さんありがとう……! 育塚君、食べながらちょっぱやで考えようね……!」  相変わらず消え入りそうな声なのに、ばっちり僕からチョコレートの包みを強奪して湯巻先輩が走っていく。その後を「うっす!」と育塚君が追いかけていった。編集長も「差し入れありがとう」と礼だけ言って足早にデスクへ戻っていく。 「……何かあったの?」  会議の予定もなかったはずなのに全員で集まっていたのが気になったのだろう、瀬田先輩が尋ねてくる。僕は笑って「ちょっとピンチだったんですけど、きっと何とかなるはずです」と答えた。 『ホントの事を知りたくて。』和杉ゆらり著/2017年/ジャック・ラック 〈第5週目へ続く〉
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