第1週目

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第1週目

【1冊目】  大空を羽ばたく鳥を見て「あの生き物を閉じ込めよう」と考えた人間は、その賢さを生涯褒め称えられたのだろう。そして多分、死んだ後に地獄へ送られたと思う。  僕が古本屋で手に取った『鳥籠図鑑』は鳥籠を抱く老女の写真が表紙になっている。彼女が抱えている鳥籠の中には何もいない。それがあるべき姿だ、とでも言いたげだ。本文を開いてみると、実物の写真がモノクロで掲載されている。写真の解説には、「紅白に格子が交互に塗り分けられている」「閉じ込められた鳥が空を思い出せるよう天板が青色になっている」「持ち手の装飾は金で作られ、伯爵夫人への贈り物としてルビーが埋め込まれている」……というように色彩や形態に関わる情報が細々と書かれ、反面、その鳥籠の来歴については「モルケティアーゴ博物館所蔵」などと端的な情報しか掲載されていない。古今東西の鳥籠の写真と、もどかしいくらいに言葉足らずな説明文を、僕は眺めている。なぜ格子を紅白に塗り分ける必要があったのか。天板を青色にしようと考えたのはどこの誰なのか。鳥籠を贈られた伯爵夫人は喜んだのか。考えればきりがない。何というか、笑ってしまうくらいに不愛想な本である。  こういう不愛想で、想像に頼るしかない本を最近めっきり見かけなくなったので、僕は大切に本棚へしまっている。 『鳥籠図鑑』鳥籠文化を保存する会編/1976年/越境文化振興社刊 【2冊目】  通勤中、散歩をしている犬に必ず出くわす。昔は大型犬とすれ違う事もあったが、彼らは鳴りを潜め、代わりにチワワや柴犬がちょこまかと路地を歩き回っているのだ。すれ違う犬の七割は飼い主より前を行こうとしていて、その内の三割は服を着ている。僕はこれを七三の法則と呼んでいた。可愛がってもらっている犬が多いのは良い事だ。そして服を着せられ、飼い主の前を行こうとする犬に僕はよく吠えつかれる。犬に恨みはないし、可愛い動物だと思うが、あの鳴き声にはいつも心臓が縮み上がる。  そんな悩みを抱えながらふと本屋に立ち寄ると、ある本が目についた。『犬に吠えかかられないための3つの法則』という新刊である。ページを捲ってみると「弱い犬ほどよく吠える、というのはホント!」「吠える犬はあなたの善良さを知っている」「ほどよい自分を周囲に見せよう」というような、章立てがずらずらと並んでいた。少し内容を引用しよう。  弱い犬は常に周囲に怯え、身内以外の他人――自分が吠えかかったとしても吠え返して来ない善良な人間を狡猾に見つけ出し、己の力を喧伝するようにあなたに吠えかかっているのです。それに対して微笑みで返すのは犬をつけ上がらせる悪手です。積極的にあなたも犬に吠えつきましょう。 この辺りまで読んで「何かがおかしいぞ」と僕は思った。道端で吠えてきた犬に吠え返す? それは社会的に許される行動なのだろうか? もう一度、僕は表紙を見た。すると、正確なタイトルがようやく分かった。『犬に吠えかかられないための3つの法則―職場にいる厄介で狡猾な犬との付き合い方―』……つまり「犬」というのは「性格的に問題のある職場の同僚・上司」の喩えであり、この本は職場の人間関係に悩む人へ向けたものだった。人間関係の喩えだったとしても「吠え返す」のを是としているのは、なかなか興味深い信念の著者である。肝心の「3つの法則」にもざっと目を通したが、僕には到底実践できない事柄ばかりだったので、諦めて本屋の平台へ戻した。こんな事をしなくても十秒くらいじっと視線を合わせていれば、大抵の「犬」は黙る。わざわざ戦う道を選ぶ必要はない、と僕は思うのだが。 『犬に吠えかかられないための3つの法則―職場にいる厄介で狡猾な犬との付き合い方―』ステファノ・オズピート著/2021年/ラライト社 【3冊目】 「この世の何もかもに反発したくなる時がある。」……という帯文を見て、ほろ苦い記憶に胸の内を引っ掻かれたような気がした。  大野唯一(おおの・ゆいいつ)の第一詩集『空が綺麗と誰が言った?』は、 学生時代に人間が経験する「アンタに俺の何が分かる症候群」を的確に、鮮やかに活写した詩が収録されている。大野氏が現役の男子高校生という事もあって一部のメディアでは神輿を担ごうという機運もあったようだが、当の大野氏が「俺が三十五歳だったら誰も見向きもしないでしょう?」と、ばっさり断ったらしく、出版系ネットニュースに素っ気ない数行の記事が載るのみだった。  肝心の詩集の内容に触れず、こんなゴシップめいた事を書いているのには理由があって、気鋭の詩人が「三十五歳」という年齢を人生のリミットのように語っていると知り、僕は懐かしさを感じたのである。  学生の頃、僕は二十歳になったら死のうと思っていた。大学生になってからは卒業したら死のうと思っていた。なのに、僕はその後の人生を途切れることなく歩んでいる。それが、過去の自分への手酷い裏切り行為のように思える夜もあった。  大抵、午前二時くらいの出来事で、目を閉じているのに瞼を開いているような、ただ暗闇を見つめているあの瞬間に、「ああ、ごめんな。まだ生きている」と、謝りたくなるのだ。過去の自分は返事をしないけど、相当腹を立てているのを僕は感じている。だから弁解するように僕はリミットを設定した。「仕事が辛くなったら」「親との関係が悪くなったら」「友達から見放されたら」「生きているのが嫌になったら」「三十五歳になったら」と。  過去の自分から逃げるように、夜中に誓ったリミットの年齢が、この詩人の少年の口からも出たのだと思うと、少し救われたような気持ちになる。  大野唯一という詩人のすごい所は、彼が十年後に己の詩集を見返しても、恐らく、恥ずかしい気持ちにはならないだろう、という事である。堂々と、彼は「俺の最初の詩集です」と他人に話せるし、目の前で読み上げられたとしても、決して耳を塞がず、静かに聞くはずだ。彼は万人が抱えている言葉を、よどみなく、深淵の底から汲み上げるように語っている。高校生だから、という陳腐な前置きは彼の言葉の前には不要だ。  この才能がこれからも詩の世界に留まり続けますように、などと書いたら、きっと彼は嫌な顔をするに違いない。 『空が綺麗と誰が言った?』大野唯一著/2020年/落雨社 【4冊目】  先日読んだ詩集のせいか、空を見上げる事が多くなった。特に、夜空を見つめてしまうのは、やはり星や月の輝きのせいだろうか。朝方に空を眺めると、太陽の光が眩しすぎて俯いてしまうのだが、夜はそういう事もない。……と思っていたのだが、月を直接見ても目の奥がズキンと痛んで三秒ともたなかった。「太陽を直接見てはいけません」と小学校の理科の授業で注意を受けた事はあった。「月を直接見てはいけません」と言われた事はなかったように思う。勿論、インターネットで検索しても、そんな注意事項は見当たらない。しかし、僕の目には確実に痛みがあった。月を見上げて感傷に浸る事も出来ないのか、とがっかりしたのだが、そんな時にこの本を見つけた。 『ラッセルのティーポット~50 designers collection~』というアートブックだ。表紙には五十人のデザイナー達の署名が伸び伸びと、しかし互いに喧嘩しないように細心の注意を払って配置されている。クッキィ・イクツカ氏の「I」のサインと、イル・C・B氏の「I」のサインが交差している様は、二人で一つのロゴマークでも作ったのかと思うほど、親和性が高い。  ページを捲ると、真っ白なティーポットが大きく印刷されている。そして下にデザイナー達への依頼文として「Design Russell's Teapot!」とシンプルに書かれている。 少し補足が必要かもしれない。 「ラッセルのティーポット」というのは、哲学者ラッセルが用いた話の一つだ。昔、反論するための証拠を用意できない論は「間違っている事を証明できない=という事は正しい=つまり神はいる!」という定義をしようとした人がいた。それに対してラッセルは「じゃあ太陽の周りをティーポットがぐるぐる周回しているのは、正しい事なのかい?」と疑問を投げかけた、というのがざっくりとした由来である。  僕は友人から初めてその論を教わった時、ラッセル氏は賢い人なんだな、と思ったのだが、教えてくれた友人はいたく憤慨していた。「神の存在についての論議の時に〈太陽の周りを回るティーポット〉なんて馬鹿げた喩えをして貶めるのはナンセンスじゃないか?」と彼は言っていたのだが、僕としては神もティーポットも大体同じような分類として考えていたので、「そういうものなのかもね」と曖昧に返事をした記憶がある。  つまりこのアートブックは「ラッセルのティーポットが本当に存在していたら、どんな柄だと思いますか?」という質問を五十人のデザイナーへ送り、彼、彼女らの返答(実際にデザインしてもらったティーポットの写真)を一冊の本にまとめているのだ。オールカラーで、特殊インクを使用してデザイナー達の使うありとあらゆる色彩を限界まで再現している努力は見事で、それが値段にも跳ね返ってはいるのだが、買う価値がある。  正面、背面、持ち手部分、底面など、それぞれの方向から撮影された写真を見ると、神々しい深い青色でデザインされた厳かなポットから、無機質な三角形のモチーフがサイケデリック感を醸し出しているポット、一人はいるだろうと思っていたが、真っ白なままのティーポットを提出しているデザイナーもいた。そして、彼らが何故そのデザインに至ったか、インタビュー記事が見開きで用意されている充実ぶりだ。  デザイナーという仕事をしている人々の頭の中を覗ける面白い試みのこの本は、実は「~50 designers collection~」シリーズの第三弾にあたるらしい。これは第一弾、第二弾もいずれ手に入れてみたい、と思わせる一冊だった。 『ラッセルのティーポット~50 designers collection~』ペポット・グラフティ編/2020年/ペポット・グラフティ・ジャパン 【5冊目】  眼科を受診した。月を見上げてからというもの、蛍光灯やパソコンの光にまで目が過剰に反応するようなってしまったのだ。医者は僕の目をじっくり検分すると、「過敏症の一種でしょう」と言った。対策方法は遮光レンズの眼鏡をかけたり、パソコン画面の明るさを落とすしかないらしい。疲れが溜まっていると症状が強く出るので、ゆっくり静養なさってください、と言われ、送り出される。静養生活を実行できるような人間は、そもそもこんな症状が出ないのではないか、とも思ったが、医者に噛みついても仕方がない。無駄吠えは自分も他人も損をするだけだ。  家に帰り、スマートフォンの画面の輝度を最低レベルに設定してから、インターネットを検索すると、同じ悩みを持つ人が結構いるんだな、と思った。目を閉じて休むのもいい、という対処方法が出てきたが、読書人には酷な治療法である。回復するまでは本はおあずけか、と思っているのに、「短い物語なら」と、こんな懐かしい絵本を手に取ってしまった。  主人公はビーグル犬のペトラ。そろそろ一歳の誕生日を迎えようとしているメスだ。飼い主の若い夫婦(パパさんとママさん)と仲良く暮らしていたのだが、最近、何故かママさんがぐんぐん太ってゆくのである。悪い病気なのかしら、とペトラが気を揉んでいると、ある日、苦しそうなママさんが本当に病院へ連れて行かれてしまった。  ペトラが悲しんでいると、真夜中に返ってきたパパさんはとても嬉しそうな顔をしていて、寝ていたペトラを抱っこして「これから忙しくなるぞ」と言った。ペトラは訳が分からないまま、喜び、はしゃぐパパさんと目を白黒させながらダンスをした。  ……ここまで読めば、飼い主夫婦に何があったか、容易に想像がつくだろう。この温かくて、ベタな展開が色鉛筆の優しいタッチで描かれていると、とても安心する。  退院してきたママさんが急激に痩せてしまっていて、ペトラはとても心配するのだが、それよりもママさんの抱えている小さな生き物に興味津々だ。ミルクと真新しいおくるみの匂いがする、〈赤ちゃん〉という生き物。〈赤ちゃん〉はペトラの事を、目をまんまるにして見つめている。ペトラも目をまんまるにして〈赤ちゃん〉を見つめる。こうして、ペトラは「いもうと」と出会うのであった、というお話だ。 『ペトラといもうと』というこの絵本は、犬の視点から一緒に暮らす家族の成長を見守るシリーズ絵本になっている。僕が今日読み返したのは第一作目にあたるのだが、この〈赤ちゃん〉だった「いもうと」が徐々に成長していく過程が記されていくのだ。  最終作では「いもうと」が中学一年生になり、ペトラを看取る所までを描いているのだが、こどもの頃に物語の結末を読んでしまった僕は、そんなに早く犬が死んでしまうという事を初めて知って、大泣きした。近所に「ロッキー」というコリー犬がいて、よく挨拶をしていたせいで、犬という生き物は、ずっと一緒にいられる友達だと僕は信じていたからだ。 「ペトラをいきかえらせてください」「てんごくのペトラがなにをしているのか、おしえてください」「ゆめの中でもいいからペトラと〈いもうと〉をまた会わせてあげてください」という小学生からの手紙が最終作の出版後にたくさん届いたらしい。僕も送った。  そんなこどもたちの手紙を見ても、作者は続編を作らなかった。 「死後の世界や、〈たましい〉というものについて、簡単に信じてほしくないの。だって、この世を一生懸命生きられなくなっちゃうでしょう?」と晩年の彼女は答えていた。信じる事は自由だが、その選択をするのはもっと大人になってからでいい、とも話している。  厳しい人だ。彼女の描く挿絵は愛らしくて、上品だった。僕がずっと手元に置いている『ペトラといもうと』は、大分くたびれてきている。それでも手放せないのは、本を読んで「泣く」という感情を僕に教えてくれた最初の絵本が、この一冊だからだろう。 『ペトラといもうと』荻山いつ子著/1998年/虹のふもと社 【6冊目】  また日曜出勤だった。仕方のない事ではあるけれど、街中で休日ムード溢れる若者達とすれ違うと、何とも言えない哀しみに包まれる。若者達、なんておじさんぶってみるが、職場ではまだ若造扱いなのでこんな休日に呼び出されているという事実がまた哀しい。とはいえ、休日があっても僕は読書しかする事がないので、嘆くのも野暮だ。  他人と違う生活リズムで暮らす人間はたくさんいる。  それを教えてくれたのが『ぼんぼり堂物語』という本だ。相変わらず目の症状が収まらないので、蛍光灯に布を被せた、やっつけ仕事の間接照明を使ってこの本を読んだのだが、意外といい感じの光量で、落ち着いて読み進められた。 「ぼんぼり堂」は小さな警備会社の社宅にある、警備員さんのために用意された食堂だ。ふさこおばちゃん、と呼ばれる恰幅の良いおばちゃんが一人で切り盛りしていて、警備員達の食事の面倒を見ている。夜勤の仕事が好きだという人、住み込みで働くしかない境遇の人、いつか自由に暮らすためにお金のためなら過酷な現場でも頑張れるという人、そろそろ彼女に逃げられそうだという人。そんな四人の警備員にスポットを当てながら、最後にふさこおばちゃんの背景が語られる、切なさと温かさのある小説だった。  物語の中盤から登場して男子警備員達を色めき立たせた謎の美女警備員・ユウの話も笑えたし、今の世の中について考えさせられた。人生には選択肢があって、けれど、自分が「生まれ持ったもの」が必ずある。その「生まれ持ったもの」と照らし合わせると、勝手に選択肢が狭まってしまったり、大多数の人が選べる道を選べない人がいる。  単純な事なのに、サラリーマンをやっていると、つい忘れてしまう。  別に朝の九時に出社して、夕方十八時に退勤する生活は「正しい」わけでも何でもない。選ぶ人が多いだけで、その人生が「正しい」のかは僕が満足しているか、いないか、それで決まるのだから。  ふと、スマートフォンのランプがちかちかしているので確認すると、仕事で知り合った友人から来週暇か、と飲みの誘いが来ていた。「土曜なら大丈夫だと思う」と返信し、ついでに「手作りで間接照明を作ってみたよ」と写真画像を送った。すると素早い返事があって「土曜、七時にいつもの所で」「それは危ない。燃えるぞ」と、約束と忠告のメッセージが届いた。慌ててネットで調べる。手作りランプシェードの危険性について書かれたサイトをいくつも見つけて、僕は慌てて不慣れなDIY作品を解体した。 『ぼんぼり堂物語』常田譲(つねた・ゆずる)著/2019年/五朗社
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