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第2週目
【7冊目】
目の痛みが続いていて、光を避けるために早寝をしたら、突然夜中に目が冴えてしまった。今から本を読みだしたら夜が明けるな、と思ってラジオをつけると、深夜とは思えない元気のよい女性と男性の声が聞こえた。聞き取りやすいハイトーンの喋りから、声優さんのラジオだな、と分かる。話題のライトノベルがアニメ化していたらしい。
チェーン店の本屋へ行くと、文庫コーナーのライトノベル群が日に日に大きくなっていっている。彩度の高いイラストで可愛らしい女の子が表紙になっているものや、水彩の淡いタッチで黒髪の大人しそうな制服の少女が物憂げに佇んでいる表紙のものや、不気味なモンスターと仲睦まじそうに微笑み合う妖精のような少女の表紙のものや、本当に挙げたらキリがないくらいに個性的で、それなのに同じ血筋を感じさせる本がずらりとある。
この少女率はすごい。男というのはライトノベルのマーケティングの上でそんなに役に立たない存在なのだろうか。たまに男キャラクターの表紙を見かけても、大抵六、七巻辺りで登場しており、同じシリーズで並べると少女たちの中に男がぽつんといるだけになる。何というか、何故そこに君がいるんだい? という感じだ。
ラジオの女性声優の話しぶりを聞いていると、ファンの要請に応えるプロフェッショナルの心意気を感じる。男性声優の方は自然体で、少し気が抜けすぎているのではないか、とこちらが冷や冷やしてしまう。ラジオをつけたまま、ぼんやり目を閉じる。
「俳優は性別が固定されてしまうのが、面白くもあり欠点ですね」という一文を思い出す。往島ぬい(ゆくしま・ぬい)という女優の回顧録で出てきた言葉だ。生身の人間として俳優が芝居をすると、その人の持つ「性別」から逃れる事は一般的にはできない。宝塚歌劇団のような団体も存在するが、特別な組織に所属しなければ男性が女性を演じたり、女性が男性を演じる機会にはなかなか恵まれない。
身体に囚われず、どんな役でも演じてみたい、と熱望した彼女は、事務所に頼み込んで二十歳の時にある朗読劇に参加した。
そこで、彼女は御者の老人を演じた。男性の老人を彼女が演じると公表された時から「ポスターの誤植ではないか」と憶測が飛び交ったが、いざ幕が上がると彼女は老人として台本を手に舞台の上に立っていた。
「あの時のお客さんたちの顔がおかしくて。かなり名の知れた小説の舞台でしたから、こんな小娘に何が出来るのか、と鼻白んでいる方が多かった」。しかし彼女が老人の台詞を読みだすと、その声は確かに年老いた男のものに聞こえた。会場全体が息を呑み、彼女の声に聞き入る。観客たちは、特に年若い乙女としての往島ぬいを一目見ようと詰めかけたファンたちは、普段の彼女が鈴を転がしたような透明感のある美しい声をしているのを知っていた。その彼女が、くたびれた老人になっているのである。御者をイメージしたダブルのコートは彼女の華奢な体躯には少し大きくて、一本に結んだ長い黒髪はしなやかに声の抑揚と共に弾む。何より、往島ぬいの均整の取れた大きな瞳と、愛らしい唇は女性としか思えない。だが、観客は見たのである。彼女が男性として、老人として舞台の上で生きている姿を。信じられない思いで、ただ呆然と見つめていたのである。
彼女は一夜にして若き名女優として語り継がれるようになった。
「楽しい芝居がしたかった。私自身が本気で取り組めて、面白がれて、みんなも楽しくなるような、そういう芝居。あれから声優の仕事もずいぶんオファーを頂いて、夢のような時間でした」
そう語る彼女は、既に四十歳にして女優業を引退している。
『許された女』という映画の撮影中に山で滑落し、女優業として致命的な脊髄損傷を負ってしまったのだ。「車椅子の人間、という限られた役で女優業は出来ないし、声の仕事も中途半端な芝居しかもうやれない。それでは、私は私が許せなくなってしまうから」。
残念だけど、ここまでです。彼女の語りはこの一言で締めくくられる。正直、僕は驚いた。これから彼女が送る生活について、未来について、往島ぬいは何も答えなかったのだ。インタビュアーが質問しない訳がない。名女優が何を思って過ごしていくのか、誰もが知りたがっている。だが、彼女の方が上手だったのだろう。沈黙の中に消えていく名女優。彼女は失意に包まれていたのか? 印刷された文字からはその謎を解く事は出来ない。ラジオが番組の終了を告げる。それでは、また来週。幼児向け番組の体操のおにいさんとおねえさんみたいなあどけない声が響いて、僕はラジオのスイッチを切った。
『ぬいしごと』往島ぬい著[聞き手:岡村優壱(おかむら・ゆういち)]/1998年/岡村ブックス
【8冊目】
今日も目を閉じてラジオを聞いている。頭痛が酷くて、こんな状態で土曜に南さんと会えるのか、心配になってきた。南さんは体調不良を理由に予定をキャンセルしても怒るような人ではない。ただ、向こうから誘ってくれなければ会う事がままならない特殊な立場の人でもある。日取りを改める事になったとして、次の機会があるのか、ないのか。それが僕には分からない。だからこの困った眼球を必死に僕は宥めている。
今日はすうっと眠気が訪れてきて、ラジオの声が順調に遠ざかっていくのを感じる。
「……では、今週の一冊…………さんの小説『みはやゆきしも』は……一九四七年、ある田舎の村を舞台にした青春の…………ある時、主人公は失ったはずの……を見つけ……しかし、違うのです……失ったものは遠くに行くばかりで…………残された〈みはやゆきしも〉の暗号は……私には分かりません……この著者は何を…………何を失ったら、こんな小説が書けるのでしょう……」
記憶に残ったのはこれだけだ。アナウンサーのような、しかし素人のようにつっかえつっかえ話すこのパーソナリティは何者だろう。もしかすると書評家や作家かもしれない。明日、起きたらすぐに検索しよう。
『みはやゆきしも』著者不明/出版年不明/出版社不明
【9冊目】
昨晩ラジオで聞いた『みはやゆきしも』を昼休みに検索してみたが、全くそれらしき小説が出てこない。「みはやゆきしも」「一九四七年」「青春」「喪失」果ては「みはやとは」と単語の意味を調べたり「ゆきしも」は「雪下」で出ないかと足掻いてみたが何の収穫も得られなかった。代わりに、雪下にんじんの栽培方法には詳しくなった。
「なんだ、農家にでも転職するのか?」
背後からぬっと現れた同期の育塚君が僕のスマホを覗き込んできた。転職、という単語が彼の口から発せられた瞬間、遠くの席の編集長がペットボトルの蓋を開ける手を止め、鋭い眼差しでこちらを見た。僕は慌てて大きな声で否定する。
「違うよ。調べ物をしてただけ」
目当ての情報に辿り着けなかったんだ、と答え、ついでに育塚君に尋ねる。
「『みはやゆきしも』って小説知ってる?」
「聞いた事ないけど。有名なヤツ?」
彼は近くの席から椅子を引っ張ってきて、僕の隣に座った。
あのラジオパーソナリティーはたどたどしくも熱弁していたから、きっと名作に違いないと思っていたが、僕よりも遥かに読書家のはずの育塚君が知らないとなると、やはり記憶違いをしてしまったのだろう。あるいは、放送内容そのものが僕の見た夢である可能性が高くなってきた。
「いや、ごめん。忘れて」
「どっかで見つけたら教えるよ」
「ありがとう」
ああ、また目が痛い。何度か瞬きをする。ちょっとごめん、と断って目薬を打つと、彼は思い出したように言った。
「〈みはやゆきしも〉に心当たりはないが、最近、主人公が美隼(みはや)って名前の小説を読んだな」
「それって一九四七年が舞台の青春ストーリーで暗号文とか出てくる?」
「うーん、何一つ合致する要素がない話だ」
彼は苦笑してあらすじを話してくれた。
二五〇〇年、三八八号と銘打たれたアンドロイドが荒野で目を覚ます。彼は短い黒髪に浅黒い肌、幼いながらも戦士のような精悍な顔立ちをした美しい少年の姿をしている。目覚めた彼は空を飛ぶハヤブサを見つける。その瞬間、胸部の内臓バッテリーがショートするかのような、不思議な感覚に彼は襲われた。三八八号はハヤブサの後を追いかけ始める。何度もハヤブサを見失いながら、荒野から森へ、森を抜けて村へ、村から港へ出て、海沿いに歩き続けて街へ辿り着く。とうに朽ちた建物ばかりが並ぶ廃墟の街を彷徨い、彼は一冊の辞書を拾う。文字を覚えた彼は美しい隼(ハヤブサ)、美隼(ミハヤ)と名乗りだす。美隼は完全にハヤブサを見失っていた。辞書でハヤブサの項を引き、その習性や、縄張りの広さを知ってしまった美隼は、自分が追っているものが既に「鳥」ではないのだと気づく。
「それから?」
「続きは今日送られてくる予定」
「ああ、遊津井(ゆつい)先生の新作だったのか」
「〈ディープな読書を提供する〉って銘打ったウェブマガジンではあるけど、玄人向けな展開の原稿が来そうで個人的に超楽しみ、かつ閲覧数の事考えて震えてる」
「遊津井先生、この前の連載は書籍化までいったし、そんな心配しなくても」
「あの人の世界観、コアな層にはメチャクチャ刺さってるけど、なかなか広まらないからなぁ」
昼休みの終了五分前のチャイムが鳴った。またパソコン画面との格闘が始まる。僕はもう一度目薬を打った。育塚君が椅子を片付けながら言う。
「調子悪そうじゃん、目」
「うん、良くはないかな」
「大事にしろよ」
彼はポケットからブルーベリー味のガムを取り出して、僕に一枚寄越してくれた。
『美隼』遊津井壮太(ゆつい・そうた)著/刊行未定/ジュイエ・マガジン
【10冊目】
職場のパソコンの前で僕は途方に暮れている。新しく記事作成の外注契約をしたライターから送られてきた原稿が、想定以上にボロボロの内容だった。こういう時、プロの作家を担当している育塚君が羨ましくなる。僕が相手にしているのは、基本的に会った事もない、副業的な意味合いでライティング業務を請け負っているサラリーマンや主婦の皆さんなのだ。いかに向こうの機嫌を損ねずに修正依頼をするか。あるいはこちらで修正しても構わないという許諾を取るか。ライティング・ディレクターなんて役職を与えられて働いているが、山のような校正作業と平身低頭のメール文面を作成する日々がどうにもやりきれない時もある。
新卒でジュイエ・マガジンの採用面接を受けた時、僕ははっきりと「ジュイエ・マガジンに掲載されるブックレビューの記事が書きたいです」と言った。すると面接官は「当社の記事は毎日更新しているので、社員ではなく外部のライターにお願いしているんです」と言った。この時点で僕は「落ちたな」と思った。しかし、面接官は淡々と僕に尋ねてくる。
「ライティング業務の経験があるのですか?」
「正式なお仕事の経験はありません。ただ、ブログとSNSで本のレビューを書いてました」
特に後ろ暗い内容はなかったので、僕はスマートフォンで自分のブログ記事とSNSのアカウントを見せた。面接官は何度か記事をスクロールしながら言った。。
「SNSでレビューをした時、いいねは最大でいくつ付きましたか」
「確か……八七だったと思います」
フォロワーがほとんどいないアカウントなので、あの時は驚いた。
「その投稿を見せてください」
指示に従って僕は『冬の始めに』のレビューを見せた。
冬の終わりを描く作品はたくさんあるけれど、冬の始まりを描く作品は珍しい。ウィンターランドという架空の町が舞台で、そこに暮らす人々の様子が短編集として収録されている。ウィンターランドは程よく都会で、程よく田舎の町だ。山籠もりをする木こりもいれば、商店でクリスマスのオモチャを作る職人がいたりする。その生活が対照的であったり、逆にどこかで交わったりするのが興味深い。
高校生の頃からこの本の著者であるイギリスの創作集団「ユー・アー・スティル・トゥデイ」のファンだったのだが、特にこの『冬の始めに』は鷹垣純(たかがき・じゅん)の訳が素晴らしかった事もあり、僕は熱烈に感想をしたためた。それが出版社の広報担当者に気づかれてリツイートされ、多くの人の目に触れた事でただの学生の読書感想文にいいねが八七もついた、というのが真相だった。
面接官は、僕にスマートフォンを返して「結果は後日ご連絡いたします」と言った。どうなるのかさっぱり分からないまま僕が一日に十回くらいメールボックスをチェックしながら待っていると、「採用」の通知が届いた。そして出社初日に自分に与えられた業務内容を聞いて仰天し、仰天したまま今日まで僕はこのジュイエ・マガジンで働いているのである。終業時間まであと二時間。僕は瞬きを繰り返しながらキーボードを叩き始めた。
『冬の始めに』ユー・アー・スティル・トゥデイ著/2010年/五朗社
【11冊目】
「会議は踊る、って確かに言うけどさ」
僕と育塚君は会議室に籠って、一心不乱に手拍子を打って踊り狂っている。
「あれって会議は踊る、されど会議は進まず、だろ? 意味あるのか、これ」
「多分、ないよ」
「あの人、フィーリングで言うからなぁ」
編集長の言いつけ通りに僕達がソーラン節を踊り出して、かれこれ十五分が経過していた。休憩しよう、と僕は床にへたり込む。スマートフォンから流れるソーラン節を一時停止して僕達はしばし無言になった。
なぜ、こんな事になったのか。それは僕と育塚君が「七人の物語(仮)」というアンソロジー連載企画の担当者に抜擢されたからだ。同じテーマで七名の作家に小説を書いてもらう、というシンプルな企画で、その顔ぶれについては編集長が既に決めていた。小本ゆかり、葛原大悟、九池石榴、木島裕生、柿口玲衣、川辺景、スエザネ・カトウという若手作家にお願いする事になっており、快諾してもらっている。あとは正式な原稿依頼をするだけなのだが、肝心のアンソロジーのテーマ決めが難航していた。今日までに考えてくるよう言われていた僕と育塚君が持ち寄った結構な数の草案は全て「他に埋もれる」と編集長にダメ出しを食らい、テーマの候補をあと百作るまで会議室から出て来るなとこってり絞られた。そして、この時間から百なんて無理です、と思わず僕が口答えをしてしまった結果「身体を動かすと頭も働く」「じゃあちょっと散歩にでも」「ソーラン節にしなさい」というご指示が下ったのである。
馬鹿正直に僕達はソーラン節を踊り「ハァ~~~ヤレンソーランソーラン」というBGMの中、「微妙にニッチな季節行事とかどうだ」「例えば?」「イースターとか」「あの行事、やる事決まってるから内容被るって。細かい時間の指定は?」「時間?」「十一時五十三分とか」「ああ、まぁ。候補追加」「これで十個くらい水増ししない?」「追加で百作れって言われるぞ。遊園地、動物園、水族館、博物館、図書館」「ダメ。類似例が山のように検索で引っ掛かる」「クソッ、もうソーラン節で良くないか」「ダンス、海、貝殻、魚、川、釣り」「貝殻追加」「僕達、ソーラン節を踊るより、マジカルバナナをやった方が良いんじゃないか?」「懐かしいな」などと健気に案出しをしていたのだが、もう限界だ。
「今日、絶対夢の中でソーラン節踊ってる」
「俺もそんな気がする」
二人揃って海なし県出身なのによくもこれだけ踊れたものだ。こども時代の刷り込みというのはかくも恐ろしい。
「視点を変えよう。読んで良かったアンソロジーってある?」
ようやく床から立ち上がって、椅子にだらりと腰かけた。
「断然アレだな。海外のアンソロジーで『Palette(パレッテ)』ってのがあったんだが」
「もしかしてウィリアム・ツェグナーが編んだあのシリーズ?」
「そう。赤・橙・黄・緑・青の五冊シリーズだけど何故か最後の青だけ邦訳されなかった」
「翻訳してた出版社が潰れたらしいね」
「悔しくて原書買ったなぁ」
「え、育塚君、ドイツ語読めるの?」
「まさか。爺ちゃんに独日辞書貸してもらったけど最初の話で匙を投げた」
とにかく、日本語で読めた赤・橙・黄・緑は最高だった、と育塚君は話したのを聞いて、僕はふと思った。
「……七つの色をそれぞれの作家さんに割り振るのはどうだろう」
「虹は無理じゃないか。知ってるだけでも五、六冊あるぞ」
「今回頼む人達、若い女性に人気がある作家さんだし、虹じゃなくて……もうちょっとお洒落な色合わせにするとか」
「シアン・マゼンダ・イエローみたいな?」
「色校を思い出すなそれは……ええと、和名の色、とか」
「ほーん、良いんじゃないか。あるある感も打ち消せて、かといって全く見知らぬとっつきにくさもないし」
すると、微かなノックの音がした。失礼します、とやはりか細い、というか陰気な声で先輩の湯巻(ゆまき)さんがコーヒーとドーナツを持ってきてくれた。
「ありがとうございます、すみません」
「いえ……さっきまで、ずっとソーラン節が響いてたから……雪穂ちゃんに叱られて、二人ともおかしくなっちゃったのかって……心配で……」
「おかしくなる寸前でしたけど、差し入れいただいて正気に戻りました」
調子のいい育塚君の大きな声にびくつきながら、湯巻さんは良かった、と頷く。ソーラン節の後の温かいコーヒーもいいものだ。気遣ってもらえるだけ有難い。
「さっき雪穂ちゃんもデスクで「百は言いすぎだったか……せめて三十、いや、五十程度にするべきだったか……」と反省タイムに入っていたから……」
「五十でも多いんだけど」
敬語も忘れて育塚君が半笑いになる。その様子が怖かったのか、湯巻さんはおどおどと「今はおいくつほどに……?」と謎の言葉遣いになってしまった。ふと僕は乱暴に書きなぐってきたメモを見返す。
「……百だ」
一番上から数え直す。やはり「和の七色」で百個目に到達している。テーマを挙げるのに夢中でいつの間にか僕達は偉業(になるかもしれない事)を成し遂げていた。百だ、と育塚君も驚いたように呟く。おめでとうございます、と湯巻さんが僕達の頑張りを称えてくれ、わあっと三人で歓声を上げていると、明梨(あけなし)編集長が気まずそうにやってきて「見せてみなさい」と僕のメモを受け取った。そして代わりに彼女から僕達へシュークリームが贈呈され、ひと時のおやつタイムを楽しんだ。
『Palette』ウィリアム・ツェグナー編/2002年/花調封月堂
【12冊目】
土曜日の午後七時、待ち合わせ場所であるブックカフェ「Rubis(リュビ)」に南さんは現れなかった。雑誌の撮影が長引いてしまったようで、連絡が来たのも八時半を回った頃だった。
『連絡がひどく遅れてしまって申し訳ない』
「今からこっちに来るのも大変でしょうし、また日を改めましょう」
『しかし……』
電話越しに聞いた南さんの声は、分かりやすいほどに疲れ切っていた。
「それに、近々打ち合わせでお会い出来るはずなので」
『ああ。アンソロジーの件、またお世話になります』
「こちらこそ。とりあえず、今日はお疲れさまでした。また後日に」
『本当に申し訳ない。必ず埋め合わせをする。それでは、また』
通話を終えて、僕は不思議な気持ちになった。南ざくろさん、芸名を九池石榴(くいけ・ざくろ)さんというこの年下の友人は、アイドルとして舞台に立つ傍ら、新人小説家として活動している。僕は彼女の小説家としての最初の仕事に立ち会った人間だ。そのせいか、南さんは僕を戦友のように慕ってくれている。
「九池石榴」の存在を知ったのは、僕が無知だったおかげだ。
書籍化されている本について、僕はそこそこの知識がある。だが、他のウェブマガジンには詳しくないという弱点を編集長に見抜かれ、「これとこれと、あと自分でいいと思ったものの三つから、それぞれアレンジしてジュイエ・マガジンに載せられそうな企画を考えなさい」という課題を出された。そして編集長の指定で見た『日刊アイドル白書♪♪♪』の「ナイショのはなし」コーナーに九池石榴のインタビューが掲載されていて、こんなやり取りを目にしたのである。
――石榴ちゃんはブログでたまに小説書いてるよね。
「ええ、物語を書くのが好きで」
――結構本格的って言ったらいいのかな。そういう感じがするけど。
「純文っぽいのを目指してます」
――じゃあ、いつかは小説家デビューとかも……?
「(笑って)それはどうでしょう。私だけでは決められない事なので」
でも、機会が貰えるなら挑戦してみたいです、とインタビューは締めくくられていた。僕は「九池石榴」「ブログ」で検索をかけ、実際に彼女が書いた『渚』という短編を読んだ。アイドル稼業の片手間、というレベルではなく、小さな新人賞であれば獲っていてもおかしくない出来の物語に、僕は息を呑んだ。そして、途轍もなくもやもやした。彼女の自撮り写真の記事には多くのコメントがついているのに、小説を載せている記事にはほとんどコメントがない。当たり前だ。アピールすべき層が違う。これがジュイエ・マガジンに載っていたら絶対に話題になるのに。彼女の所属する「ELENA*」はインディーズのアイドルグループなので、知名度は「知る人ぞ知る」といった所だろう。企画が通るか通らないかは分からなかったが、僕は『渚』を全文コピペして印刷し、A4三枚の企画書と共に編集長に渡した。
そして、僕は普段の校正業務を後回しにしてでも南さんの原稿を取ってくるように指示されたのである。
以来、彼女は多忙にも関わらずジュイエ・マガジンの原稿依頼を受けてくれている。今度のアンソロジーのテーマが「和の七色」に決まった事を誰より早く教えられると思ったのだが、また次の機会になってしまった。僕はカフェモカ二杯とナポリタンの代金を支払った。
「おや、振られたのかい」
マスターが揶揄うように尋ねてきた。
「いえ、忙しすぎる友達が来られなくなっただけです」
僕は『渚 ほか三篇』の文庫本を手に、店を後にした。夜空には相変わらず眩しい月が昇っていて、けれど、今日の光は少し穏やかに思えた。
『渚 ほか三篇』九池石榴著/2018年/ジュイエ・マガジン
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